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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる。平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される。『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。また「尾張」の発音が「"終わり"」と重なる点からもわかるように、ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされていた。この「尾張」に類する地名には「熊野」があるが、こちらも発音が「"隈の"」(奥まった所)に通じている。なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は東山道に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある。7世紀に律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となり、防人の通行路にもなった。7世紀中葉には、国と評による地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡であった。易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた。1400年頃,斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。斯波義重の父斯波義将は越前(福井県)・越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られる。その後、尾張(愛知県)、遠江(静岡県)の守護となる。越前時代からの被官である甲斐氏・織田氏・二宮氏らが尾張に送りこまれ,荘園・公領に給人として配置された。以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三管領の斯波氏の領国となった。斯波氏の守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家」と西軍についた「伊勢守家」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたがやがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし織田信秀の代で躍進。信秀は那古野城を今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げる。信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。また1560年(永禄3年)6月12日、信長討伐を目的として尾張に侵攻した今川義元を桶狭間の戦いにて破る。これ以後、尾張国はその全域を織田弾正忠家が二代に渡って支配する。1582年(天正10年)、本能寺の変が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。山崎の戦いで明智光秀を倒した羽柴秀吉と、織田家筆頭家老の柴田勝家が世に言う清洲会議で対立。信長の後継者として信長の三男・神戸信孝を推す勝家と信忠の嫡子三法師を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、舌の根も乾かぬうちに清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男北畠信雄を織田家に復姓させ主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒した。ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国の徳川家康と同盟を結び、1584年(天正12年)、小牧長久手の戦いを引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。池田恒興、森長可が戦死する事態に陥るが様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功、大義名分を喪った家康も撤兵する。豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。信雄は長島城を本拠としていたが1586年1月18日(天正13年)の天正地震により長島城が倒壊したことで清洲城を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は内大臣就任に伴って天皇行幸を計画したことが秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は福島正則(24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが発生。挙兵した石田三成の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は清洲城を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され安芸広島に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳の若さで逝去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。1586年(天正14年)の木曽川の「天正の大洪水」により、美濃国との境に流れていた木曽川が葉栗郡内のほぼ中央を流れるようになった。この為、豊臣秀吉の命により、1589年(天正17年)に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡・海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。尾張国は織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、池田輝政、山内一豊、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、堀尾吉晴、浅野長政などが有名。なにより日本史の中心として最も燦然と輝いた時代となる。徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。1609年、大御所家康の意向により廃城となっていた那古野城址に新城として名古屋城の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。(天下普請)天守台石垣については加藤清正が普請助役となった。築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は日本で十指に入る一大都会となった。尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、その名残で、瀬戸は陶磁器の街になっている。現在に到る文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる岡崎から職人を招いて八丁味噌を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、味噌煮込みうどん、味噌カツ、味噌おでんといった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋できしめんとして人々に愛され、現代に到っている。尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩である。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。ところが相次ぐ天災により赤字体質となっていく。10代藩主徳川斉朝から13代藩主徳川慶臧まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。そうした中1849年(嘉永2年)、支藩・高須藩から14代藩主徳川慶恕(改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、尊皇攘夷を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、水戸藩主・徳川斉昭らと共に独断で日米通商修好条約を締結した大老井伊直弼の専横に抗議したため、1858年(安政5年)の安政の大獄にて隠居謹慎を命じられ、実弟の徳川茂徳に藩主の座を譲る。井伊が桜田門外の変で横死すると慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子徳川義宜が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。公武合体派の重鎮となった慶勝は一橋家当主・徳川慶喜、前福井藩主・松平慶永(春嶽)、前土佐藩主・山内豊信(容堂)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保、薩摩藩主・島津久光ら雄藩連合から成る参預会議の一員に選ばれるも辞退。第一次長州征伐では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・西郷吉之助)を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次長州征伐には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。1867年11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還が成ると慶勝は新政府議定に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として大阪城を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。(青松葉事件)1871年(明治3年)、初代名古屋藩知事となるが翌年の廃藩置県で免職となる。1875年(明治8年)に義宜病死により尾張徳川家を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の徳川慶勝が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は戊辰戦争の惨禍に遭うこともなかった。明治維新で中央集権国家が形成されると、名古屋市は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。なお名古屋城は慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。しかし1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋空襲で焼夷弾の直撃を受けて焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に到っている。国府は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある。なお『節用集』易林本では海部郡に「府」と記載されている。そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺(一宮市千秋町)、尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)、東畑廃寺(稲沢市稲島町)が知られる。延喜式内社総社・一宮以下鎌倉時代の守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺(萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。室町時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国の土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。「天正の大洪水」によって葉栗郡と中島郡、海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。)現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。『古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢(大内氏家臣)や松田憲秀(後北条氏家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。瀬戸市、尾張旭市、日進市、豊明市、大府市、東海市、知多市、常滑市、小牧市、犬山市、江南市、岩倉市、稲沢市(加賀野井地区の一部を除く)、津島市、愛西市、弥富市(鍋田川流域の一部除く)、あま市、北名古屋市、清須市、長久手市、東郷町、東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町、大口町、扶桑町、豊山町、飛島村、大治町、蟹江町現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。現在では、名古屋から東海地方、近畿地方(大阪市など)、関東地方(東京都など)や北陸地方(富山市など)への道路や鉄道の路線が分岐している。和文通話表で、「を」を送る際に「尾張のヲ」という。

出典:wikipedia

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