LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

児玉清

児玉 清(こだま きよし、1933年12月26日 - 2011年5月16日)は、日本の俳優、タレント、司会者、作家。本名、北川 清(きたがわ きよし)。出生名及び旧芸名、小玉 清(こだま きよし)。東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。元児玉清事務所代表。事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ元専務。妻は元女優の北川町子。長男は元タレントで児玉清事務所代表兼事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ社長の北川大祐。学習院大学文学部ドイツ文学科卒業。小学生の頃、群馬県・四万温泉に集団疎開した経験を持つ。東京都立工芸高等学校を経て、一浪して学習院大学文学部ドイツ文学科入学後、演劇部に入部。当初は道具係だったが、当時の世代としては大柄で(179 cm)あるということで無理矢理舞台に上がらされたという。その後、1年先輩でフランス文学科の篠沢秀夫(現・学習院大学名誉教授)に見出され、篠沢が企画していた仏語劇『ブリタニキュス』(ラシーヌ作)の主役に抜擢される。フランス語はまったく知らなかったが、見事に演じ切り高い評価を得た。とはいえ、児玉は本来は役者志望ではなく、大学卒業後は学者になるため、大学院進学を目指していた。だが、学部卒業式の当日、母の急死により就職先を探さねばならなくなる。しかし時季は4月目前、就職先が決まらず結局、知人が手を回して応募してくれていた東宝映画第13期ニューフェイス(新人俳優の募集)の面接試験に臨み、合格した。試験当日の朝は1時間前に急に思い立ち、世田谷区岡本の自宅そばにあった停留所にたまたま東宝撮影所行きのバスが停車、すかさず飛び乗り向かったこともあり、水着持参であることも知らず水着審査で下着のパンツ一枚で参加し審査員から奇異の目にさらされるも、質問にウィットあふれる回答を返し、逆に歓心を買った、という逸話がある。この逸話は『トリビアの泉』や著書『負けるのは美しく』(集英社)で明かされている。東宝専属となったもののいわゆるエキストラとしてセリフのない通行人役が長らく続く。1959年封切『鉄腕投手 稲尾物語』に通行人役として出演、それまで撮影所の掲示板に貼り出される仕出しの仕事を無為にこなす日々を送っていたが、この作品は児玉にとって不本意だった俳優業に興味が沸き始める転機となった。当作品のロケで博多に滞在していたある夜、宿舎で年下のスター俳優に誘われ立ち寄った喫茶店で、サインを求めてきたウエイトレスが児玉も人気俳優だと思い込み色紙を差し出したところ、年下のスター俳優が「この人は雑魚だからサインを貰っても意味ないよ!」と言ったことに一念発起、「10年間は俳優として頑張ろう!」と心に誓ったのだという。その後は次第にセリフのある役柄を得るようになってはいたが、相変わらず端役が続いていた。しかし、1961年4月封切の『別れて生きるときも』で司葉子の初恋の相手役に抜擢されたことをきっかけに、頭角を現していく。黒澤明監督作『悪い奴ほどよく眠る』に出演した際は、「とにかく目立とう」と必要以上に大げさな演技やフレームインを繰り返し、激怒した黒澤にいじめ抜かれる。友人にそそのかされた児玉は「世界のクロサワ」を殴ることを決意するまでに至ったが、なんとか踏みとどまり、実行には移さずに出番を終える。のちに黒澤が自分のことを陰で「あの血気盛んさを10年持ち続ければものになる」と評価していたことを聞き、腰が砕けたと語っている。1964年8月、東宝専属の中堅女優だった北川町子と結婚。まもなく彼女が女優を辞めたため、会社ばかりかベテラン女優の賀原夏子からも残念がられ、彼女が復帰する際は知らせてほしいと言われめげる。結局、1967年に東宝を退社してフリーとなり、テレビドラマに活動の場を移す。夫人との間に一男一女を儲ける(二人のうち、娘は彼よりも先に他界した(後述))。水前寺清子主演の『ありがとう』で一躍人気を得て、以後ホームドラマなどで活躍する。しかし、テレビドラマも機器の向上と演出方法の変化によりカット割りが多くなり、通しでの演技ができなくなったことや、時代と共にホームドラマの制作も減少の一途を辿ったために、徐々に仕事を減らすようになった。1975年に朝日放送のクイズ番組『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、36年にわたり司会を行った(詳細は後述)。1990年代から本業だったテレビドラマの仕事に消極的だったが、2001年のドラマ『HERO』の出演依頼を断った際に、当時病気療養中だった娘から説得され一転して引き受けたという。2002年、娘は当時4歳の息子(児玉の孫)を残し、胃癌により36歳で亡くなった。この頃より俳優としての出演も増え、若い世代からも人気を得るようになった。一方、同年12月にニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』出演が好評だったことから、2003年6月から『テレフォン人生相談』のパーソナリティを担当するようになった。児玉の実体験を交えて悩みに回答するなど、リスナーからも親しまれていた。2010年には19年ぶりのNHK大河ドラマとなる『龍馬伝』に出演し、主人公・坂本龍馬の父・八平を演じ、これが遺作となる。2011年4月、肝機能障害により緊急入院、テレビ・ラジオ全番組の出演を全て休業していた。自身活動復帰を目指し療養に専念していたが、同年5月16日12時28分、胃癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。77歳没。なお同年2月下旬から体調不良を訴え都内の病院にて検査をした処、胃癌が発見された。3月下旬より検査入院した際には肝臓への癌転移も発覚し、既に手術不可能な状態だったという。その後5月のゴールデンウィークを過ぎてから容態が急変し、5月16日に息を引き取った(こちらも参照)。なお、最後の仕事は、2011年3月23日に収録されたNHK BSプレミアム PR用映像(後述)。テレビ出演は同年4月30日放送の『ワーズハウスへようこそ』(日本テレビ)が最後となった。通夜は5月20日、葬儀・告別式は5月21日に護国寺(東京都文京区)で営まれ、多くの芸能・放送関係者が弔問に訪れた。法名は「修讀院釋清優(しゅうとくいんしゃくしょうゆう)」。遺体は、新宿区の落合斎場で荼毘に付された。没後の2011年5月27日には、放送文化基金賞の第37回特別賞授与が発表された。芸能界きっての読書家としても知られ、多くのエッセー・書評も執筆している。年に数回海外旅行に行く際には、飛行機内で分厚い英語原文の小説を読むことが楽しみであったという。なお大好きなポール・リンゼイ『覇者』(講談社刊)の解説では、お気に入りの『FBI物語』とそのほかの作品を比べ、熱く述べている。また、NHKの書評番組『週刊ブックレビュー』の進行役を週替わりで務めた他に、日本図書館協会などが主宰するシンポジウムのコメンテーターも務めたことがある。朝日新聞出版の主催する公募文学賞『朝日時代小説大賞』の選考委員を務め、その関連で、山本一力・縄田一男との共著『ぼくらが惚れた時代小説』(朝日新書、2007年)や、その二人と共選で『人生を変えた時代小説傑作選』(文春文庫、2010年)を出している。日焼けして読めなくなった古い文庫をやむなく捨てたところ、その本が絶版になり強く悔やんだ経験から、それ以来本を捨てないようになった。しかし1万冊以上の蔵書をかかえ、その重みで家の床が傾く等の問題が現実化したことから、誰かに預かってもらうことを検討していた。外国小説は原書で読んだ。ジェフリー・ディーヴァーのファンだった。林真理子(小説家)が児玉を成田国際空港で見かけた際に、児玉のハンドキャリー荷物は洋書1冊だけで、その1冊を検査機に通し、ピックアップする姿が非常に颯爽としていたことに感じ入ったと書き記している。産経新聞にも2004年4月から2005年3月までの1年間、日曜日朝刊に書評を連載していた。その後も度々寄稿し、2008年2月24日付で紹介した「友よ 弔辞という詩」(サイラス・M・コープランド著)についての取り上げたのが最後となった。また、文芸雑誌『すばる』にも連載コラムを寄稿していた。最後の仕事となったNHK BSプレミアムのPR用映像 には、読書家であり『週刊ブックレビュー』の司会も務めた児玉を象徴するかのように、古書店の店主役で出演した。この映像では、古書店を訪れた女子高生2人に児玉がBSプレミアムを薦める、というものであり、生前の代表作の一つ『アタック25』(後述)のノリも少し入っていた。後日、2011年5月28日『週刊ブックレビュー』の児玉の追悼企画「児玉清さん〜本と歩いた18年」、2011年6月26日『Mr.サンデー』の特集「初公開…愛蔵本伝える児玉清さん"遺言"」 でも映像が紹介。2011年10月にはハヤカワミステリマガジン協力、紀伊国屋書店製作の「英語で楽しむミステリ小説フェア 児玉清さんが愛した小説たち」と言う無料小冊子を配布した。保守派として有名だった児玉の思想的な立場として、以下のような逸話がある。「俳優として売れないころ、何か作って(生活の)足しになればと思って始めた」のがきっかけで、長年切り絵を趣味としていた。テレビ朝日『徹子の部屋』などのインタビュー番組への出演時にもその腕前が紹介された。切り絵には外国の雑誌のページなども用いられ、死去直前に入院した際にも、切り絵の道具を病室に持ち込んでいた程で、来年のカレンダー用も製作しようとしていたが、彼の死去で幻になったと前記の特番で語られた。2003年には自身の切り絵作品を紹介した『たったひとつの贈りもの わたしの切り絵のつくり方』(朝日出版社)を出版した。2008年には竹内まりやのシングル『幸せのものさし/うれしくてさみしい日(Your Wedding Day)』のジャケットとして、切り絵作品を制作し提供した。また、かつて『アタック25』のスポンサーであった東リから、児玉の切り絵を原画にしたラグとマット「HOOK RUG & MAT with KIYOSHI KODAMA」も発売された。また、自ら制作した切り絵の作品によるカレンダー(非売品)を毎年制作しており、親しい知人や関係者に配布されていた。『アタック25』で問題読みを担当する加藤明子(ABCアナウンサー)曰く、毎月捲るのが楽しみだったという。逝去後の2011年11月には、2012年版のカレンダー(A4判変形、1,365円)が一般向けに発売され、また12月には、切り絵を絵柄としたフレーム切手(80円切手10枚)とポストカード(2枚)のセットも発売され、以後も毎年カレンダーが発売されている。児玉はABCテレビ『パネルクイズ アタック25』の初代司会を、1975年4月6日の放送開始から2011年の死去直前の第1795回まで36年間にわたって務めた(この期間中、1984年、虫垂炎による入院のため収録を2回分欠席、通算1793回である)。パワフル、臨機応変で尚且つスピード感の溢れたキレのある進行振りが好評を博していたことから、昨今ではこの番組抜きに児玉は語れないほどになっていた。『パネルクイズ アタック25』での児玉は司会者だけでなく、番組のブレーンも務めていた。クイズ問題を作成する際、自らが得意とするドイツ文学などの問題では「こちらを答えにした方がいいのでは」と児玉自らスタッフに助言したり、収録前の問題最終チェックも児玉自身がスタッフと共に検討を行っていた。また、誤答のブザーを押していたのも児玉自身であり、独自の間合いやアドリブなどを駆使しての番組進行ぶりは全て編集なしであったという。また晩年は「最近は問題が長くなったね」と苦言を呈したりもしていた。アタックチャンス前の休憩中には児玉が出場者と観客に飴玉を配り、緊張している一般出場者をリラックスさせる役目も担っていた。クイズファンの間では『児玉飴』として親しまれ、出場者の中には飴を記念に持ち帰る人もいたという。更にスタッフをも気遣い、海外旅行紹介のビデオテープ収録のほか慰労会(宴会、ゴルフコンペなど)でも気丈に「ファミリー」として振舞ったという。また息子の北川大祐も「アタック25に出ていた父は、比較的素に近い姿だった」と語っている。また、解答者がクイズに正解した場合、「正解」ではなく「結構!」または「その通り!」と言うのが大きな特徴であったが、2007年6月頃から「正解!」とも言うようになった。これは「博多華丸が児玉の物真似をするようになってから、バラエティー番組で執拗に「その通り!」を連発するようになり、客席からクスクス笑い声が時々聞こえたことを意識し、それを言い続けると逆に自分がそれを真似ているのかもしれないという思いで変更した」 と、2007年9月5日放送の『笑っていいとも!』(フジテレビ系)「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っていた。晩年は、「正解」「結構」が半々ぐらいの割合で聞かれることが多く「その通り」は回数が少なくなった。また、毎回収録が終わると、観客を最後の一人まで見送っていた。見送りの際、色紙に自らのサインを渡す相手の名前を聞いて書いていたほど、律儀な姿勢を貫いた。Web上では、「アタックチャンス」(もしくは『ミスター・アタックチャンス』)というニックネームで親しまれていた。児玉のアタックチャンスは俳優らしく低声な声が有名だった。児玉は2011年2月19日付の日刊スポーツ大阪版でのインタビュー記事にて、『アタック25』への思いを語っていた。2011年4月、緊急の肝機能障害による入院のため、3月17日(4月3・10日の放映分)の収録を最後に、2度目の休業に入った。また、4月17日以降の放送分では代役として、ABCアナウンサーの浦川泰幸が司会を務めてきた。なお、5月9日に、早ければ5月12日の収録(15日・22日放送分)より復帰することが報道で明らかにされたものの、5月11日、体調が戻らないことから「しばらく休ませてほしい。復帰の際は事務所から発表します」とABCに連絡があり、無期限休養に入ったことが明らかにされた。ABCサイドは「児玉さん(の復帰)を待ちたい」と、司会交代については否定していた。児玉は入院中も、担当医師に「大阪まで行くのに、飛行機と新幹線のどちらがいいか」と尋ねたり、ピンクのスカーフを巻くなどおしゃれに気を使いつつ、復帰に意欲を見せていた。また、見舞いに訪れた加藤明子(ABCアナウンサー、2009年より問題読み担当)には「去年(2010年)の10月に胃カメラ飲んどけば良かったんだなぁ」と、病気の早期発見が出来なかったことを悔やむ言葉を漏らしていたという。こうした中で児玉自身も、周囲の者たちも願っていた仕事復帰が叶わず、児玉は5月16日死去。翌17日夜より、ABCは番組公式サイトにて児玉への追悼メッセージを掲載した。児玉の死去に伴い、ABCでは5月22日の『アタック25』の通常放送を休止し、追悼特別番組『さようなら児玉清さん 〜パネルクイズ アタック25特別番組〜』を放送。5月19日に収録が行われ、浦川と加藤が司会を担当。収録後、浦川は「病床の児玉さんから『浦川君なりのアタックをやってくれたらいいよ』とメッセージを頂きました」と振り返った。ABCサイドの話によると、病床で浦川の司会する『アタック25』を見ながら、物真似をしていたという。番組では『アタック25』における児玉の数々の名場面・名語録集のみならず、俳優として出演したテレビドラマなどの映像、VTR出演という形で石坂浩二と福山雅治が登場して故人との想い出を語るなど、人間・児玉清に焦点を当てた内容構成であった。『アタック25』のプロデューサーを17年間務めた、現・ABCテレビ制作部部長の岩城正良は児玉の訃報に際し「叱ってもらえる人が他界された…。本当に寂しい限りです。安らかに永眠されることを願っております」 と哀悼のコメントを寄せた。なお『アタック25』については5月29日以降、浦川が司会を引き継ぐうえで番組を継続することが決まり、浦川は「児玉さんに対し、恥ずかしくない司会をやっていきたい」と決意を新たにした。5月29日放送の冒頭において、浦川が児玉逝去の旨を改めて伝えた。また、番組開始時にスポンサーであった東リの公式ホームページにも、児玉の逝去を悼む旨がPDFで掲載された。ABCモバイルサイトの『アタック25』携帯ゲームでは、逝去後も2011年度末までの間、児玉の顔写真をトップページで使用していた。2015年3月29日放送をもって浦川が4年近く務めた『アタック25』2代目司会を卒業。そして『アタック25』開始から40周年を機に4月5日よりリニューアル、3代目司会者に俳優の谷原章介が就任。なお児玉と谷原は2006年のフジテレビ月9ドラマ『トップキャスター』で共演し親交を深め、翌2007年に谷原がTBS『王様のブランチ』の司会に就任する際に、児玉は谷原に「役者にとらわれず広く見てもらうことが大切」とアドバイスしたという。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。