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ブルーザー・ブロディ

ブルーザー・ブロディ(Bruiser Brody)のリングネームで知られるフランク・ドナルド・グーディッシュ(Frank Donald Goodish、1946年6月18日 - 1988年7月17日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州デトロイト出身。アメリカではNWAの各テリトリーやWWWFなど各団体で実績を築き、日本でも全日本プロレスや新日本プロレスでトップ外国人レスラーの一人として活躍した。ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活躍していた(同期にダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン。後輩チームメートがスタン・ハンセン。ザ・ファンクスは大学の先輩)。1968年夏、NFL球団「ワシントン・レッドスキンズ」に入団するが、膝の故障から3年で引退。その後、朝刊紙「ダラス・モーニング・ニュース」のフットボール・コラムニストとなる(生計を立てるために、酒場の用心棒などもしていたという)。やがてフリッツ・フォン・エリックにスカウトされ、1973年にヒューストンでプロレスラーとしてデビュー(1974年4月29日にフォートワースにてボブ・ループを相手にデビューしたともされる)。デビュー時のリングネームは本名「フランク・グーディッシュ」。エリックの主宰するテキサス東部のダラス地区を主戦場に、ルイジアナやオクラホマなどミッドサウスのトライステート・エリアにも転戦してキャリアを積んだ。1974年8月、彼に先んじてデビューしていたスタン・ハンセンとトライステート地区でタッグチームを結成。テキサス出身のハンセンに合わせ、出身地を同じ南西部のニューメキシコ州アルバカーキとし、リングコスチュームもハンセンのテンガロンハットに対しグーディッシュはソンブレロを被っていた。同年10月10日にトライステート版のUSタッグ王座を奪取するが、翌1975年7月の陥落後にタッグを解消し、以降はシングルプレイヤーとして活動。10月17日にアマリロにてレイ・キャンディからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を、12月31日にはフロリダでロッキー・ジョンソンからNWAフロリダ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。1976年7月、「ブルーザー・ブロディ」に改名してニューヨークのWWWFへ参戦。同年9月4日と10月4日、マディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦。アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦して知名度を高め、メインイベンターとしての地位を築く。なお、当時のWWWFには、同年4月26日に首折り事件を起こしたスタン・ハンセンも共にサーキットしていた。また、当時は新日本プロレスとWWWFの提携が本格的に開始された頃であり、1977年1月に予定されていたアントニオ猪木のMSGにおける対戦相手候補としてハンセンとブロディの名前が挙がったこともある。当時の日本のプロレス専門誌には「一番強い奴とやりたい。サンマルチノの首を折ったハンセンが一番強いかというと、あれは偶発的なものでハンセンの実力じゃないという声もある。どうもブルーザー・ブロディというのが一番骨があるらしい」などという猪木のコメント記事が載っていた。結局、猪木のMSG登場は延期になり、この対戦は幻に終わっている。1977年にはWWWFとの提携ルートでハンセンが新日本プロレスに来日しているが、ブロディの新日本登場は実現しなかった。WWWFを離れた1977年、ダラス地区に凱旋。1月3日にフリッツ・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得する。翌1978年8月25日にはキラー・カール・クラップからテキサス・ブラスナックル王座を奪取(以降もマーク・ルーイン、トール・タナカ、スタン・スタージャックらを下し、ラフファイターの称号である同王座を通算8回獲得)。インディアナポリスのWWAにも参戦し、1979年8月4日にディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」を制してWWA世界ヘビー級王座を奪取した。日本には1979年1月、フリッツ・フォン・エリックの斡旋により全日本プロレスに初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績で帰国(タッグマッチながら得意のニー・ドロップをフィニッシュに馬場からのフォール勝ちも収めている)。翌1980年より全日本プロレスの常連外国人レスラーとなり、アンジェロ・モスカやアーニー・ラッドをパートナーに馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座にも再三挑戦。1981年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取(このシリーズ中には、宮城県スポーツセンターでのザ・ファンクス対上田馬之助&バック・ロブレイ戦の試合直後に乱入し、父親の援護にとリングに上がったドリー・ファンク・ジュニアの息子に攻撃を加え、素人である彼にキングコング・ニー・ドロップを放つなど、凶暴なキャラクターを印象付けるためのアングルも展開された。以後このベルトを巡ってドリー、鶴田、天龍源一郎らと抗争を繰り広げる。1982年からはスタン・ハンセンと全日本プロレスにてコンビを再結成。「超獣コンビ」とのネーミングが与えられた。ハンセンとのコンビでは年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦で優勝1回・準優勝2回(準優勝2回はいずれも最終公式戦での反則負け)の戦績を残し、また1984年に新設されたPWF世界タッグ王座でも初代王者となった。1985年3月21日、新日本プロレスへ引き抜かれる形で移籍。これは、前年に長州力らジャパンプロレス勢やブリティッシュ・ブルドッグスを引き抜いた全日本プロレスに対する新日本側の報復措置であり、両団体の関係はさらに険悪となる。アントニオ猪木とは、東京・大阪・札幌・ハワイで7度シングルマッチで対決(2勝1敗4分けでピンフォール決着は一度もなし)。同年12月、IWGPタッグリーグ戦にジミー・スヌーカとのタッグで出場するが、宮城県スポーツセンターでの決勝戦出場を、上野駅で仙台への移動のために乗車した東北新幹線から発車直前にスヌーカと一緒に下車した後、そのまま新宿のホテルへ直行し、ボイコットして突然の帰国。新日本プロレスからは、永久追放処分となる(新日本はスヌーカとはその後に和解)。金銭トラブルではなく、新日本プロレス側の「外国人レスラーに優勝させたくない」「藤波辰巳&木村健吾に勝たせたかった」「自らが膨らませた坂口負傷アングルを反故にされた」等のブックに反発したトラブルが原因という説が有力。このように、ブロディはブッカーにとって扱いにくいレスラーであり、そのことが後の死につながる。その後、一度は新日本プロレスと和解し、1986年9月に再来日して大阪城ホールにて猪木と、福岡スポーツセンターにて藤波とそれぞれシングルで対決し(藤波戦は『ワールドプロレスリング』の金曜20時における生中継最後の試合となった)、11月開幕の'86ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦への出場を来日直前にキャンセルし、再び新日本プロレスから永久追放を宣言された(同シリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントや前田日明とのシングルマッチも予定されていた)。この間、北米ではダラスを拠点に主要テリトリーを転戦し、ジョージアではブラックジャック・マリガン、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、AWAではサージェント・スローター、プエルトリコではカルロス・コロンなど各地のトップスターと対戦。他地区では常にヒールのポジションだったが、古巣であるダラスのWCCWでは、1980年代からはフォン・エリック・ファミリーの助っ人的なベビーフェイスとして活躍した。また、同じテキサスのサンアントニオ地区(サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)でも善玉となり、トップ・ベビーフェイスのワフー・マクダニエルとタッグを組んだことがある(しかし、プロモーターからの束縛を嫌ってか、特定の地区を長期間サーキットすることはほとんどなかった)。また、1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でスタートしたWWFの全米侵攻への参加も噂され、新日本プロレス移籍時の記者会見でも新WWF王者ハルク・ホーガンへの挑戦をアピールしたが、結局は実現しなかった(新日本側は当初、ブロディの新日本登場はWWFからのブッキングであったと発表していたが、もともとブロディにはWWFからのオファーはなく、新日本側がブロディ引き抜きの大義名分として、当時提携関係にあったWWFを隠れ蓑にしたともされている)。1986年5月17日、本拠地WCCWにてリック・ルードを破りTV王座を獲得、これがアメリカ国内での最後のタイトル戴冠となった。1987年10月4日、全日本プロレスに復帰。ジャイアント馬場は当初は来日中止となったリック・フレアーの代役の名前を「X」として公表していなかった。当日の伊勢崎大会のメインイベント終了後にブロディが乱入したことから、「X」はブロディと明らかとなった。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、タッグマッチながらスタン・ハンセンとの日本における最初で最後の対戦が実現した。1988年3月にはジャンボ鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回。野獣ギミックのキャラクターを守り通したブロディが、この時ばかりはファンや関係者と抱き合って歓びを分かち合った。同年4月19日、鶴田にピンフォール負けを喫し王座転落、3日後の4月22日の川崎市体育館におけるトミー・リッチと組んでの天龍源一郎&阿修羅・原(龍原砲)とのPWF世界タッグ王座戦が日本での最後の試合となった。1988年7月16日、プエルトリコ・バヤモンのバヤモン・スタジアムでのWWCの興行中、レスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスと口論を起こし、ドレッシング・ルームにて腹部をナイフで刺される。刺し傷が肝臓に達し、翌7月17日、出血多量により死亡。痛み止めのために常用していたアスピリンの副作用により、出血が止まらなかったともいわれている。また、興奮剤を服用していたのが裏目に出たともいう。なお、裁判では、現場に居合わせたレスラー仲間たちが揃って証言を拒否し(脅迫を受けたり、出廷要請の通知が届かなかったりしたため)、最終的にホセ・ゴンザレスは正当防衛として無罪判決を得ている。なお、ゴンザレスは1978年にも、試合中に心臓部へ放ったパンチが原因でマイク・マーテルを死亡させるというリング禍を起こしたことがある。リング上では超獣ギミックを一貫して演じたブロディだったが、本来は家族思いの穏やかな人柄で「インテリジェント・モンスター」と呼ばれるように独自のレスリング哲学を持っており、インタビューでは彼本来のクレバーさを感じさせる発言が多く見られた(超獣ギミックについてブロディは「プロレスを初めて見る子供やお年寄りに『あのチェーンをブルブル振り回す奴は誰だっけ』という印象を与えるため」という趣旨を語っている)。また、ラフファイトの裏側に隠された緻密な試合運びはジャイアント馬場やジャンボ鶴田も認めていた。「プロレスはチェスのようなもの」と語っていた。試合だけでなく、自分の言葉と思想で自分の存在をファンに訴えかけた選手であった(生前最後に受けた1988年4月における『週刊プロレス』でのインタビューでは、事前にインタビュアーの斎藤文彦に『今回のインタビューは3週連続で掲載してくれ』と提案するなど、マスコミ向けに常に色々とアイディアを持ちかけていた。そしてこのインタビューは、ブロディの提案通り3週連続で掲載された)。ブロディは日本人選手の中でジャンボ鶴田を特にライバル視していた。初来日で鶴田とタッグで初対決した際、鶴田のスタミナについていけず、2度目の来日(1980年1月)では鶴田へのライバル意識から初来日時より20kgもウェイトを落として臨んだという(2000年春ごろのサムライTVでの鶴田追悼番組において百田光雄も証言している)。また、全日本離脱直後に行われた1985年4月掲載の『週刊プロレス』インタビューでは「長州力はしょっぱい。鶴田の方が断然優れている」とまで語っている。馬場の16文キックを最初に止めたのがブロディだった。その馬場もその後の試合でキングコングキックを止めている。馬場は鶴田と組んでハンセン&ブロディと抗争していた当時のTV解説で「この2人がいなければまだ世界チャンピオンになれる、といってもいいくらい強い」と語り、「俺を引退に追い込むのはあの2人かも知れないな」と周囲に漏らしている。一方で各地のプロモーター、ブッカーとは衝突が絶えず、WWWF時代のゴリラ・モンスーンを始めとして、WWAでのディック・ザ・ブルーザーとの大喧嘩など、その最期に至るまでエピソードには事欠かない。1984年より全米侵攻を開始したWWFへも参加を表明していたものの実現せず、その後も何度となく契約が噂されたが、ビンス・マクマホンはブロディとビジネスをしようとはしなかった。トラブルが無かったのは、若手時代に世話になったダラス地区のフリッツ・フォン・エリックくらいであった。スタン・ハンセンによれば、若手時代にトライステート地区でビル・ワットから不当な待遇を受けて以来、彼のプロモーター嫌いが始まったとされ、結果としてそれが、プエルトリコでの刺殺事件につながったという(馬場のような信頼に値するプロモーターのことも敵視していたというが、馬場を信頼しなかったのは1985年までのことで、1988年4月の『週刊プロレス』インタビューにおいて、ブロディは『馬場を裏切ったことは本当に失敗だった。馬場に申し訳ないことをした』と悔いていた)。ただ、ハンセンはブロディが新日の引き抜きに応じた理由に「彼が一番欲しがっていたのは、ギャラよりも『その団体のプロモーションのNo.1になる』という名誉だった。馬場が長州力やロード・ウォリアーズと契約したのを見て『俺がいるのに、どうして?』いう気持ちになったんだと思う」と語っている。天龍も自著において「ハンセン、ブロディからはプロレスと、プロレスラーの凄さを教えてもらった。破壊力の凄さ、たゆまぬ努力の凄さである」と評価するが、「『誰にも負けない、俺がNo.1だ』という気持ち、プライドは誰よりも凄かった。レスラーに対する好き嫌いの激しい人で、自分にスタミナの重要性を教えてくれたジャンボ(鶴田)や技を逃げずに真正面から受ける僕のことはリスペクトしてくれて、彼も僕らの技は逃げもせず受け止めてくれたのですが『俺はこんな奴は認めない』と判断したレスラーは技も受けず、ロープに飛ばされても戻らず、それこそミル・マスカラスや長州力なんてキングコング・パワーで一方的にけちょんけちょんでした」とカミングアウトしている。また、海外遠征時代にブロディとサーキットを共にした武藤敬司は「滅多に他人を褒めなかったが、アドバイスは的確で色々と教えてもらった」と当時のことを語っている。初めて会話した際にいきなり「お前の試合はしょっぱい」と言われたとのこと。なお、ブロディはアメリカ遠征中の日本人レスラー高千穂明久に「ダラスでヒールのできる日本人を捜している」とダラス転戦を助言、高千穂はダラスでヒールレスラー「ザ・グレート・カブキ」に変身し、大活躍することとなった。結果として、ザ・グレート・カブキ(およびザ・グレート・ムタ)誕生のきっかけにブロディが絡んでいることになる。アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。ブロディは試合直前にギャラアップを求めることがあり、アップしないなら試合に出ないと理不尽な要求を猪木に叩きつけていた。猪木は出られないのは困るからとそれをいつも仕方なく承諾していた。のちに猪木はブロディについて「自分の物差ししかない男」と回想している。それを物語ってか、新日本プロレス参戦時は日本人選手にシングルはおろか、タッグ戦でもピンフォール負けを許さなかった。逆に全日本プロレス参戦時はジャイアント馬場とジャンボ鶴田にのみシングル戦でピンフォール負けを喫している(馬場には2回、鶴田には1回)。新日本プロレスから永久追放された半年後の1986年8月、新日本プロレスはハワイ遠征を行ったが、遠征先にはブロディも参戦していた。その際、『週刊プロレス』と『週刊ファイト』の記者はブロディの控室前で待機してスクープ写真を撮影しようとしたが、そのことに気付いたブロディは激怒して全裸で控室から現れ、全裸のまま両記者を追い掛け回した。さらには『週刊ゴング』の記者もその現場に遭遇してしまい、最終的には3社の記者がブロディに追い掛け回された。『週刊プロレス』と『週刊ゴング』の記者はブロディから逃げ切れたものの、『週刊ファイト』の記者はブロディに捕まった挙句、カメラを破壊された。ブロディは毛皮を巻いたレスリングシューズを使用していた。一見、超獣ギミックを演出するための手法と思われるが、馬場によると、足首に傷があり、それを保護するためだったという。また、ブロディは逞しい上半身や太腿に比べて膝下が細いため、それを隠すためとも言われている。上記の試合前のギャラアップの逸話にもあるように無駄を極端に嫌う性格で、レスラー仲間で食事をするときも、見栄を張って他人に奢るようなことは決してなかったという。また、長期遠征の際には電気の無駄遣いをなくすため、家中のコンセントを片っ端から抜いて出かけたが、冷蔵庫のコンセントまで抜いて中身を腐らせてしまったことがあると夫人が自著で語っている。1982年10月の天龍源一郎とのインターナショナルヘビー級タイトルマッチでは逆さ押さえ込みでフォール勝ちしたことがある。また、巨体でありながら抜群の跳躍力をもって放たれるドロップキックも隠れた得意技の一つである。自らも「俺の体格で、これほど動けて飛べる大きな男はいない」と豪語していた。ハンセンとのダブルドロップキックもよく繰り出していた。

出典:wikipedia

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