メジロマックイーンは日本の競走馬、種牡馬。中央競馬で菊花賞、宝塚記念、天皇賞(春)(2回)などに優勝、1991年春の天皇賞では祖父メジロアサマ、父メジロティターンに続く父子3代天皇賞制覇を成し遂げた。同年秋の天皇賞で、日本におけるGI競走史上初の1位降着も記録している。獲得賞金10億1465万7700円は、当時の世界最高記録。獲得賞金額が10億円を突破した最初の馬である。1991年度JRA賞最優秀5歳以上牡馬。1994年、顕彰馬に選出。名前の由来は、馬主の冠名「メジロ」とアメリカの俳優スティーブ・マックイーンの組み合わせである。愛称は「マック」。半兄に1986年の菊花賞、1987年の有馬記念を制したメジロデュレン(父フィディオン)がいる。※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一する。1987年、北海道浦河町の吉田堅牧場で生まれる。母メジロオーロラはメジロ牧場からの預託馬であり、離乳後の9月に同場に移動し、馴致・育成が行われた。幼いころは病弱な馬であり、高熱を出したり怪我をすることもたびたびだった。この年のメジロ牧場の同期馬は特に「メジロ87年組」と呼ばれ、後に宝塚記念を制するメジロライアン、宝塚記念と有馬記念を制するメジロパーマーなどがいる豊年であり、その中で本馬は2番目ないし3番目の評価であった。競走年齢の3歳に達し、栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入る。500kgをはるかに超える大型馬であり、調教を積んでもなかなか体重が絞れず、さらに骨膜炎(ソエ)も発症したため、デビューは4歳と遅れた。1990年2月、阪神の新馬戦でデビューし、初勝利を挙げる。2着には1馬身強の差だったが、3着以下には10馬身以上の大差を付けた。池江が東京優駿(日本ダービー)を視野に入れたというほどの楽勝だったが、その後は骨膜炎が完治しなかったこともあり、3戦続けて惜敗を続ける。これを受け陣営は秋の菊花賞に目標を切り替え、マックイーンは休養に出された。9月に復帰して緒戦を2着としたあと、2週間後の木古内特別(500万下条件戦)で2勝目を挙げると、翌週も連闘で大沼ステークスに出走し、連勝する。このあとは菊花賞に向け、兄メジロデュレンと同じく嵐山ステークスに出走した。しかし先行してレースを進めながら、直線で進路を失う不利もあって2着に敗れる。これにより賞金不足で菊花賞への出走が危ぶまれたが、回避馬が出たことで出走にこぎつけた。前走の敗戦は鞍上・内田浩一のミスとされ、本番に向けて誰を騎乗させるかが焦点となったが、メジロの総帥・北野ミヤの取り計らいにより、引き続き内田での臨戦となった。重賞初出走の条件馬であったが、長距離向きと見られる血統的な特長と、前走の追い切りで当日1番人気のメジロライアンに先着するなど調子の良さが考慮され、4番人気に支持される。レースでは終始先行すると、最終コーナーでスパートをかけてゴールまで押し切り、2着ホワイトストーンに1馬身1/4差をつけ優勝した。1番人気のライアンは3着となり、フジテレビ系列放送で実況アナウンスを務めた杉本清は「メジロでもマックイーンの方だ!」という言葉を残した。重馬場での競走ながら、優勝タイム3分6秒2は菊花賞史上3位(当時)の走破タイムだった。この後は「有馬記念はライアンに獲らせたい」という馬主の意向もあり、年末の有馬記念を回避、休養に入った。休養明け初戦は阪神大賞典から始動。ここから内田浩一に替わり、鞍上に武豊を迎えた。レースも危なげなく勝利し、かねて目標としていた天皇賞(春)に向かう。メジロライアン、ホワイトストーンとの「3強」の争いという前評判であったが、当日は単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持された。レースでは菊花賞と同様に先行、直線で抜け出して、2着のミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝。1984年に死去したメジログループ前総帥・北野豊吉の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成し、口取り撮影(競走後に行われる記念撮影)では、武が馬上で豊吉の写真を掲げた。続く宝塚記念 も単勝1.4倍の1番人気に支持されたが、直線で先に抜け出したメジロライアンを捉えきれず、2着に敗れた。休養を経ての秋初戦は京都大賞典に出走、2着に3馬身半の差を付け勝利する。しかし、タマモクロス以来の天皇賞春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では、プレクラスニーに6馬身差をつけて1位入線するも、スタート直後に内側に斜行、プレジデントシチー(18位入線)の進路を妨害したことで、18着に降着となる。GI競走での1位入線馬の降着処分は日本競馬史上初めてのことで、一般紙でも武豊の騎乗が大きく取り上げられた。(レースの詳細については第104回天皇賞を参照のこと)その後はジャパンカップでゴールデンフェザントの4着に敗れ、年末の有馬記念では先行押し切りを図るも、15頭中14番人気のダイユウサクにゴール前で差し切られ、2着に終わった。秋はやや精彩を欠いたものの、通年の安定した走りが評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牡馬に選出された。1992年は前年と同じく阪神大賞典から始動、同競走連覇を達成し、天皇賞(春)に向かう。このレースは、前年のクラシック二冠馬で、デビュー以来7連勝を続けるトウカイテイオーとの「世紀の対決」が大きな話題となった。このレースは鞍上に武豊が騎乗しているレースで唯一の2番人気である。レースでは先行策から抜け出してトウカイテイオーを5着に退け、史上初の春の天皇賞連覇を達成した。また、鞍上の武豊は1989年のイナリワンから天皇賞(春)4連覇となった。しかし、次走予定の宝塚記念に向けた調教中に骨折(左前脚部第一指節種子骨骨折:全治6か月)が判明し、長期休養を余儀なくされる。1993年、復帰戦の大阪杯をコースレコードで優勝し、天皇賞(春)3連覇に挑んだ。しかし、前年ミホノブルボンのクラシック三冠を菊花賞で阻んだライスシャワーに徹底マークされ、直線半ばで交わされて2着に敗れた。次走の宝塚記念では勝利を収め、GI競走の連続年度勝利記録となる4年連続GI制覇を達成した。秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7という当時のコースレコードで、レガシーワールドに3馬身半差をつけ優勝。この結果、獲得賞金が史上初の10億円突破となった。しかし、天皇賞(秋)4日前に左前脚部繋靱帯炎を発症、そのまま引退・種牡馬入りが発表され、約1か月後の11月21日、京都競馬場で引退式が行われた。競走馬引退後は、一株1200万円・総額7億2000万円のシンジケートが組まれ、社台スタリオンステーション早来で種牡馬として繋養された。ノーザンダンサーやロイヤルチャージャーなど、当時の主流血脈を持っていない異系血統という点で配合選択肢の幅広さが注目され、初年度にはシスタートウショウ(桜花賞優勝)、同世代のユキノサンライズ(重賞3勝)、宝塚記念でマックイーンの2着となったこともあるイクノディクタス(同4勝)などを含む、100頭近くへの種付けが行われた。中でもイクノディクタスとの交配は、同馬が牝馬の賞金王であったことに加え、マックイーンが競走馬時代に想いを寄せていたという、関係者からのエピソードが紹介されていたこともあり、特に注目された。先に初年度産駒がデビューしたメジロライアンがGI優勝馬を2頭出し、マックイーンにも同様の期待が寄せられた。しかし、初年度産駒にクイーンカップ優勝、エリザベス女王杯3着などの成績を残したエイダイクイン(母ユキノサンライズ)を出したものの、以降は散発的に重賞勝利馬を出すに留まり、当初の期待度ほどの成績は収めていない。2012年10月にホクトスルタンが予後不良となり登録を抹消されたことで、JRAに登録しているメジロマックイーン産駒はいなくなった。母の父としては、中央競馬のGI競走を3勝したドリームジャーニーと中央競馬クラシック三冠馬のオルフェーヴルの全兄弟や、2012年クラシック二冠馬(皐月賞、菊花賞)のゴールドシップなど、ステイゴールドとの配合に顕著な実績を残している。産駒の活躍により2011年にはリーディングブルードメアサイアーとして5位に入っている。また、2012年もオルフェーヴル、ゴールドシップなどの活躍により、リーディングブルードメアサイアー6位となり、2013年も9位となった。2004年に社台スタリオンステーション荻伏に移動したあと、2006年4月3日に同場で心不全のため死亡。北海道洞爺湖町のメジロ牧場に墓が建てられている。2016年時点でメジロマックイーン産駒で種牡馬登録されたことがあるのはグランアクトゥールとギンザグリングラスのみ。前者は繋養先が乗馬クラブということもあり、血統登録された産駒は2頭のみでいずれも競走馬としてはデビューせず、既に種牡馬を引退。後者は2007年に中央競馬でデビューし、2008年の地方競馬転厩後、メジロマックイーン産駒最後の現役競走馬として2014年まで出走し、109戦3勝を記録。2015年に種牡馬入りを果たした。2016年には2頭の産駒が血統登録され、僅かながらメジロ3代の系譜を繋ぐ。また、同馬は2016年時点で種牡馬登録されている唯一のパーソロン系種牡馬でもある。「無尽蔵」とも言われた豊富なスタミナから、ハイペースの長距離戦でも先行押し切りというレーススタイルで、一般的にステイヤー(長距離得意の馬)と認識されており、「史上最強のステイヤー」とも評される。しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ」「マイルのGIレースでも勝負になった」「マイルでも走ったと思うよ。“安田記念に使ったら?”って言ったぐらいだから」と発言している。また、一般に見られる例とは逆に、加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今のマックイーンに3200mは長すぎます」とも語っていた。武豊は初めて本馬に跨った際、1200mの実戦的な調教で、息ひとつ乱れていない様子を目の当たりにし、心肺機能に優れた馬との第一印象を持っている。操縦の面でも「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった」と語り、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ」と評している。競走成績全体を見ても、掲示板(5着以内)を外したのは5歳時の秋の天皇賞のみで、1位入線しながらの降着によるものであり、実質的には掲示板を外したことは1回もない。また、管理調教師の池江は「精神的にタフで無駄な神経を使わない。2000m以上がいい馬で先行もできるし、騎手にしたら実に乗りやすいタイプ」と評している。一方、関係外部からは瞬発力の不足が指摘されており、特に1991年のジャパンカップ、有馬記念において、レース後半の瞬発力勝負で敗れたことは欠点の露呈に他ならないとして、この年のフリーハンデ評価にも影響を与えた。評論家の大川慶次郎はこれを根拠に、短・中距離でも勝負になったという武の見解に疑問を呈している。1991年春の天皇賞を勝った時点では、武はその能力について、「平成三強」と呼ばれたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワン (いずれも武が騎乗した)と比較する段階ではないと語っていた。その後、7歳の大阪杯で初めて「三強のような凄味が出てきた」と評し、結果的にラストランとなった京都大賞典の後には「今さら僕がどうのこうの言うレベルじゃない。本当に凄い馬ですよ」と絶賛した。当時、7歳は一般に衰えが見られる年齢とされており、その成長曲線の特殊性が指摘されている。関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている。担当厩務員の早川清隆は、こうした様子から「強い馬のメンタルな部分も勉強になった」と述べている。他方、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった。また、引退が決定してから引退式のまでの間に、急速に老け込んだ様子を見せたという。これについて武は「あの馬のことだから、周囲の雰囲気から自分の競走生活が終わったことを分かっていたんでしょうね」と語っている。ギャンブルの対象という側面では、全21戦中で単勝2番人気以下に落ちたのは3戦のみ、2度出走した京都大賞典ではいずれも71.8%という単勝支持を受けるなど、常に大きな信頼を置かれていた。全戦の平均では43.97%の単勝支持を受けており、これは同年代で屈指のアイドルホースであったトウカイテイオーの36.87%を大きく上回る。武は「クリークにしてもオグリにしても、この馬ほど勝って当たり前、とは思われていなかったでしょう」と述べている。一方、キャラクターという側面では、同期馬のメジロライアンが惜敗続きで判官贔屓的な人気を博していたのに対し、マックイーンは「強いばかりで面白みがない」とも評され、強さの割に人気がないと見られていた。しかしファンが少なかったわけではなく、6歳時に骨折した際には、回復を祈るファンからの何万という折り鶴が厩舎に送られ、涙ながらに応援の電話をかけてくる女性ファンも存在したことを池江が明かしている。また、タマモクロス、オグリキャップと続いた芦毛の最強馬、さらに祖父メジロアサマ、父メジロティターンより続く芦毛の系統という事実から「芦毛伝説第三章」というフレーズと共に応援するファンも存在した。種牡馬入り後の1994年には、前年秋に創刊したばかりの『週刊Gallop』のテレビCMにメインキャラクターとして起用されている。2011年には、JRAの天皇賞(春)のテレビCMに起用されている。日本中央競馬会が2000年に実施した、ファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では、13419票を集め第12位に選出されている。また、雑誌『Sports Graphic Number』が1999年に競馬関係者に対して行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」という企画でも、やはり12位に選ばれている。社台スタリオンステーション早来に繋養されていた時期、非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスと仲が良かったと伝えられている。早来では両馬の放牧地は隣同士に設えられており、当初マックイーンは同馬からしきりに威嚇を受けていた。これに対してマックイーンは無視を続けていたところ、サンデーも次第にマックイーンの側では落ち着きを見せるようになり、後には「恋人」と言われるほどの仲となった。サンデーの死後、マックイーンは社台スタリオンステーション荻伏に移されたが、こちらではサンデーサイレンス産駒のロサードに慕われていた。なお、当時の社台スタリオンステーションでは、ファンサービスの一環で内国産種牡馬は見学可能であったが、サンデーサイレンスの隣の放牧地だった時期は見学不可であった。祖父メジロアサマは名牝ラトロワンヌの子孫だが、授精率が極端に低く、一時は種牡馬失格の烙印を押された馬だった(詳細は同馬の項参照)。また父メジロティターンも授精率に問題があり、もっとも産駒が多かった年でも40頭強しか産駒を送り出していない。曾祖父のパーソロンは本来マイルから中距離を得意とする血統であり、父方の血統は本質的にはステイヤーではなく、メジロマックイーンのスタミナは、長距離に強さを見せたリマンド、ヒンドスタンなどを父祖に持つ母方から受け継いだとする意見がある。祖母メジロアイリスの孫(本馬のいとこ)にスポーツニッポン賞金杯、京都記念の優勝馬で、天皇賞(春)と宝塚記念で2着の成績があるメジロトーマスと、函館記念優勝のメジロマーシャスがいる。牝系は1906年に小岩井農場がイギリスより輸入した牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)の一頭アストニシメント〜第二アストニシメント〜オーグメントの流れを汲み、とくに曾祖母のアサマユリから一大牝系が広がっている。その子孫には 高松宮記念優勝馬ショウナンカンプ、川崎記念優勝馬のリージェントブラフなど数々の重賞優勝馬がいる。メジロマックイーンは5代までアウトブリードであるが、母メジロオーロラは2000ギニー優勝馬テトラテマTetratemaのS5×M5、仏オークス優勝馬UgandaのS5×M5がインブリードされている。
出典:wikipedia
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