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近鉄18200系電車

18200系電車(18200けいでんしゃ)は、1966年に登場した、近畿日本鉄道の元特急用車両で、その後の団体専用車両である。団体専用車両当時は「あおぞらII」の名称を名乗っていた。本項では、同じ用途に製造された18400系電車(18400けいでんしゃ)も含めて述べることとする。解説の便宜上、本項では18200系の場合は賢島寄り先頭車の車両番号+F(Formation=編成の略)を編成名として記述する(例:モ18201以下2両編成=18201F)。また、18400系の場合は大阪難波寄り先頭車の車両番号+Fを編成名として記述する(例:モ18401以下2両編成=18401F)。また、18400系解説用の画像は、あおぞらII増結用への改造後の画像を適時用いる。そのほかに、大阪上本町に向かって右側を「山側」・左側を「海側」と記述する。18200系は、モ18200 (Mc) - ク18300 (Tc) の2両固定編成で、前面貫通型となっている。5編成10両が製造された。もともとは京都線・橿原線系統用で、同年に運行開始した京都 - 宇治山田間の特急(京伊特急)に対応した車両で、京都線系統の特急では初めての完全な新車であった。大阪と名古屋を結ぶ名阪特急は東海道新幹線の開業で利用客が減少したが、代わって京都や名古屋を起点とした奈良大和路・伊勢志摩方面への特急利用者が増加し、京都から伊勢志摩への直通列車の必要性が高まってきたことから製造されたものである。当時は伊勢特急車または電算記号(編成記号)の「i」から取ってi特と呼ばれた。京都線や橿原線は、当時車両限界が大阪線などに比べて小さく、また架線電圧が直流600V(大阪線は1,500V)であったことから、車体は小さくし、両方の架線電圧に対応させる必要があった。性能面でも電動車 (Mc) と制御車 (Tc) のMT比を同数としながら、高速性能を保つなどの工夫も施された。このようなこともあり、1967年には鉄道友の会からブルーリボン賞を授与されている。車体幅は前年に登場した18000系に準じて2,590mmに抑えられ、全長も18,640mmとなっており、車体形状も18000系を基本としている。大和八木駅で大阪発着の阪伊特急との併結運転を行う関係で、従来の特急標識では連結・解放時の取り付け・外しが不便なため、増解結の所要時間短縮を目的として特急標識のデザインが大幅に変更され、貫通扉にはX字のシルバーエンブレムを取り付け、両側の窓下に電照式で平行四辺形の特急標識(運転席側)と方向板差し(車掌台側)を取り付け、スピード感も強調した。このスタイルはのちに10400系の車体更新時や、10000系10007の事故復旧時にも採用されている。また、側面には方向板(サボ)差しが設置されている。1次車(18201Fと18202F)と2次車では正面形状に若干の違いが存在する。1次車は正面窓が1枚形のパノラミックウィンドウで、2次車は縦桟が入り、2分割された。また、貫通扉のX字エンブレムが1次車は下寄りで2次車は若干上に位置する。なお、後年、排障器が取り付けられ、顔の印象が変わった。2両編成で電動車を1両としたことから、主電動機(モーター)は当時の在来線電車用としては最大出力の三菱電機製MB-3127-Aを採用し、これにより125kW級電動機による全軸駆動の10100系や145kW級電動機によるMT比2:1の11400系といった新造当時の大阪線特急車群と同等の走行性能を実現した。起動加速度は2.5km/h/s、1,500V区間での33.3‰上り勾配均衡速度98km/h、平坦線釣合速度は160km/hであった。定格速度は全界磁時67km/h、弱め界磁最終段(37%)で122km/hに達する。制御装置は三菱電機製の多段電動カム軸式制御器であるABFMで、製造当時の奈良・橿原・京都線で用いられていた600Vと、大阪線の1,500Vの双方に対応する複電圧車として設計されていた。後述のとおり抑速制動を備える。台車は初回製造の18201 - 18301・18202 - 18302編成では近畿車輛製のシュリーレン式KD-63(モ18200形)・63A(ク18300形)が装着されていたが、それ以降では小改良が施されてKD-63B(モ18200形)・C(ク18300形)へ変更された。いずれも揺れ枕上にベローズ式の空気バネを置いた従来方式ではなく、車体直結のダイヤフラム式空気バネを採用し、その横剛性を利用することで揺れ枕釣りを廃止した新タイプである。これは18000系第2編成用KD-59で取り入れられた新しい設計をさらに一歩進めたものであり、前述の主電動機とともに以後20年以上に渡る近鉄標準軌特急車のスタンダードを確立した。ブレーキ(制動)方式は発電制動併用電磁直通制動のHSC-Dで、大阪線の青山峠越えに存在する33‰の連続勾配に対応するため、抑速制動を装備する。パンタグラフは編成にPT-4207-A形を2台搭載するが、屋根面積と分散式冷房装置の冷凍能力の関係上、680系以来の設計を踏襲し、モ18200形の運転席側とク18300形の連結面側に1台ずつ分散して搭載している。また当時の京都・橿原線の縮小車両限界の制約から、その部分の屋根は低く設計されていた。冷房装置は、11400系や18000系などと同じく当時の近鉄特急車で標準の東芝製のRPU1103分散式ユニットクーラーを各車に5基ずつ搭載する。1966年の竣功当初の諸元に基づく編成表。当該系列は在来京都・橿原線特急車の仕様を踏襲したため、大阪・名古屋線系統の特急車両とは異なり、制御電動車が伊勢(橿原神宮前)寄りに連結されている。車内設備は、車両限界による制約が厳しいため回転式クロスシートを断念し、転換式クロスシートを採用したが、構体の側構部分の設計を工夫してその厚さを60mmにし、通路幅を許容可能な限界ぎりぎりまで削ることで座席そのものの幅は11400系並を確保してある。なお、座席モケットや化粧板など内装の色彩は当時の他の特急車に準じている。なお、後年は12400系に準じてモケット張り替え、カーテン、床材の交換が実施された。車端部は、モ18200形に車内販売の基地、ク18300形にトイレ・洗面所が設置された。1966年11月に2編成が竣功、同年12月20日より京都 - 宇治山田間の直通特急2往復にて運用を開始した。1967年12月20日、当該系列の増備車3編成が竣功したことに加え、新ノ口連絡線が完成したことでダイヤ変更を実施。京都 - 宇治山田間の直通特急は5往復に増発された。加えて、大和八木駅にて上本町から宇治山田へ向かう特急を併結する運用が組まれ、11400系や12000系をはじめとする多様な系列との併結運用が実現した。1969年9月21日より奈良線、京都線の架線電圧が600Vから1500Vへ昇圧され、電圧切替装置の運用を停止した。翌1970年3月19日をもって電圧切替部分の撤去工事の竣功届が提出された。1973年9月21日、橿原線の軌道中心間隔の拡大工事が完了したことを受けて、この日より12200系等の大型車が京都線、橿原線を走行開始した。これで18200系の製造目的であった異なる電圧と建築限界をまたぐ京伊直通の意味は消失した。しかし、当該系列はその後も引き続いて京都 - 伊勢志摩間をはじめ、大阪 - 伊勢志摩間の特急を中心として運用された。本系列は京伊特急を中心に運用されたが、1975年から1981年頃まで、当時は利用が低迷していた名阪甲特急(ノンストップ)にも使用されることもあった。その後も数回、名阪特急に起用されている。また運用の都合で名伊乙特急にも充当されていたこともあった。1989年3月17日のダイヤ変更を機に定期特急の運用を退いた。6月より団体車両化の工事が開始されるまでの間、臨時特急として連日、小学生の遠足用として運用された。1989年に、それまで修学旅行や団体専用に使用してきた20100系あおぞら号が老朽化と冷房装置がないなどの理由から淘汰されることになり、18200系が後継の団体専用車に改造されることになった。18200系が選ばれたのは、21000系の就役開始で余剰になったことや、車体幅が小さくリクライニングしない座席設備など特急車としての居住性には難があったことと、10両と少数ではあるがまとまった数が在籍していて改造しやすかったことに由来する。2両4編成を4両2編成に組換え、残った1編成は単独で改造された。改造内容は、中間に挟まる車両は運転台の撤去、先頭車となる車両は、前面形状の改造、車内内装の全面変更、座席の取り替え、トイレの改修、テレビ・ビデオ装置の設置や、運転席には前面展望を映すカメラも装備されるなど、団体車両にふさわしい設備となった。また改造に合わせて電算記号が「i」から「Pi」に変更されている。塗色についてもホワイトを基調にライトブルーの帯を配した色合いに変更。塗装は違うものの塗り分け自体は20100系から踏襲している。運転席側前面窓の下に「あおぞらII」のマークが入れられた。近鉄では団体専用車は厳密には特急車ではなく、利用時にも特急料金が不要であるが、性能面では以後の近鉄特急車の基本となった車両であり、走行機器にはほとんど手が加えられなかったため、特急車と何ら変わるところがなかった。修学旅行団体を中心に、各種イベント列車にも使われてきたが、中型車体ゆえに定員が少なく、老朽化も進んできたことから、2005年12月より12200系を改装した15200系新あおぞらIIを投入することとなり、本系列は2006年1月いっぱいで営業運転を終了した。その後しばらく18201・18203編成は高安工場、18202編成は塩浜工場で留置されていたが、結局2006年4月までに10両全車が順次塩浜工場で解体された。改造にあたり編成の組換え、および、運転台の撤去を行なった。組換え前と後の車番は下記対照表の通りである。18400系は18200系の後継増備車で、モ18400 (Mc) - ク18500 (Tc) の2両固定編成・前面貫通型となっている。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)を目前に控えた1969年から車両限界拡大工事完了直前の1972年にかけて10編成20両が製造された。基本的なデザインや車内設備は、同時期製造の大阪・名古屋線用特急車である12200系スナックカーに準じたものとし、ミニスナックカーと呼称された。京都線の車両限界拡大工事はすでに完了していたが、橿原線の工事が完了していなかったため、18200系同様に奈良・京都・橿原線系の縮小車両限界に準拠する狭幅車として設計された。それでも橿原線の曲線緩和工事の完了などにより、車体幅は2,670mm、全長は20,640mmと当時の施設で許容しうる限界ぎりぎりまで拡大が図られている。なお、初期車は不燃基準がA基準であったが、18403F以降は地下線走行を考慮しA-A基準に変更されている。主電動機は18200系と同じ三菱電機製MB-3127-Aである。制御装置も三菱電機製ABFMで18200系に準じるが、第1・2編成のみ600/1,500Vに対応する複電圧仕様の回路構成となっていた。これに対し、昇圧後に投入された第3編成以降は当然ながら8400系や12200系と同様に1,500V専用として竣工している。台車は18200系のKD-63系を改良した近畿車輛製KD-63D(モ18400形)・E(ク18500形)、ブレーキ(制動)方式はHSC-Dで、大阪線で運用される特急車の原則通り、青山峠越えに備えて抑速制動を装備する。パンタグラフは18200系同様にモ18400形の運転席側とク18500形の連結面側に1台ずつ設けてあり、またその部分の屋根は低くなっているが、屋根の最大高そのものは限界拡大工事の進展の恩恵で18200系に比べて60mm高く変更されている。なお、18200系までの京都・橿原線系特急車では、奈良電気鉄道以来の慣習で電動車のパンタグラフが橿原神宮前寄りにレイアウトされ、制御車は京都寄りに連結されていた。また大阪線では電動車のパンタグラフは大阪寄りにレイアウトされるのが原則であったため、京伊特急運用で阪伊特急との併結時に運転台側にパンタグラフのある電動車同士が連結する際にはパンタグラフが極端な隣接配置となり、押し上げ力過剰で架線に悪影響を及ぼす危険性があったことと、昇圧・限界拡大工事完了後は大阪線特急車と共通運用されることを考慮して、本系列では編成の向きを反転して京都寄りに電動車、橿原神宮前寄りに制御車、という大阪線の12200系と共通の仕様に変更されている。冷房装置は、分散式ユニットクーラーである。新造当初の諸元に基づく編成表。後年のスナックコーナー撤去により定員の変更が生じた車両については、本文の解説を参照のこと。車内設備は、車両限界が厳しいなか、側構を18200系の60mmからさらに薄くして50mmにして、新しく考案された偏心式の回転リクライニングシートを採用した。この新機構は、一旦座席を通路側にスライドさせてクリアランスを確保した上で回転し、その後座席をスライドさせて着座時のポジションに戻すもので、この方式のリクライニングシートは以後の特急車各系列にも採用されている。ただし本系列は車体幅が狭いことから、窓側の座席のひじ掛けは側窓のテーブルの下に位置され、ひじをのせることはできない。さらに、ひじ掛け内蔵式テーブルも窓際の場合、側窓のテーブルに邪魔されてテーブルセットが不可能である。なお、座席幅は12000系比-35mmの1,015mmである。インテリアの色彩は当時の他の特急車に準じている。モ18400形にはスナックコーナーが設けられた。なお、1972年製造の第9・10編成は同時期製造の大阪・名古屋線向け12200系の仕様変更に準じてスナックコーナーを廃止し、これに代えて連結部に車内販売基地を設置している。このため、定員は64名で、スナックコーナー省略型のモ12200形と比較して4名少ない。ク18500形の連結部に和式と洋式トイレ・洗面所が設置されている。1972年に列車無線アンテナの設置を行なった。1977年からスナックコーナーの撤去が行われた。先に改造した第4 - 第8編成はスナックコーナーを撤去した跡に8人分の座席を設置した。一方、第1 - 第3編成はスナックコーナー跡に車内販売基地を設け、余ったスペースに4人分の座席を設けた。また、車体更新工事を1984年から開始し、車内内装色の変更の他、12000系譲りの3分割による特徴的な構造の前面特急標識と、標識灯一体型の種別・行先表示板を撤去し、これらに代えて貫通扉への12400系などに準じた電動方向幕の設置と、前面左右下部への独立型の標識灯設置を実施した。しかし、第9・10編成はスナックコーナーが当初からなかったことから更新工事は行われず、登場時のスタイルを守りつづけた。このほか、全編成とも座席のモケットをエンジ色からオレンジ色のものに取り替えている。1980年には、電気連結器を持たない10100系の全廃を受けてジャンパ栓撤去が行われた。当系列は12200系と同様に、製造時から将来の120km/h運転を見越したブレーキ制御圧切替装置を搭載していたが、21000系の登場に伴って1988年3月から名阪甲特急に限って実施された120km/hへのスピードアップ対応工事から外されていた。その後、山田線の改良による速度向上が可能となったことで、1991年から1992年にかけて当系列にも最高速度120km/h対応工事が行なわれた。京伊特急用増備車として万国博開催直前の1969年3月に第1編成が竣工し、以後橿原線限界拡大工事完了までは京伊特急の主力車として重用され、その後も長く京伊・京橿特急を中心に使用された。車体幅が狭いことによる居住面の問題から、まず車体更新を受けていない第10編成を皮切りに順次廃車され、1999年から2000年にかけて第9編成を残して全て廃車となり、廃車となった車両から発生した制御装置を30000系に転用している。特急利用客の減少によって車両運用に比較的余裕が生じてきた1998年頃から予備車状態となり、第1・第3・第5編成については高安検車区に所属変更されていた。当該系列の特急車としての引退を記念して、2000年8月20日、同時引退する12000系(12003F)と18400系(18408F)が併結して、近鉄名古屋 - 五位堂間でさよなら運転を実施した。第9編成のみは1997年に団体専用車に用途変更され、18200系「あおぞらII」と同様の塗装変更を施し、特急標識・方向板差し・側面方向幕を撤去した。車内は新造以来の偏心式リクライニングシートのままであり、転換クロスシートの18200系に対して座席設備では優位であったが、内装も特急車時代のままで維持されており、更新工事は実施されていないオレンジ系の座席モケットで木目調の化粧板であり、デッキも設けられていない。2012年時点の近鉄車両の中でこの組み合わせの内装を備えるのは本編成のみであった。電算記号は「K09」から「PK09」に変更され、所属検車区も西大寺検車区から明星検車区へ変更されている。基本編成の全廃以降は当該系列において1編成だけ残った18409Fが団体列車として18200系と共用で運用され、本編成の増備によって繁忙期には6両編成2本での運転を可能とした。2006年3月の18200系引退以降は15200系の増結用として運用されていた。なお、2013年11月30日をもって18409Fは15200系15204編成(PN04)の追加投入により引退し、同年12月24日付で廃車された。引退に際し特急車時代の塗装に復元された。

出典:wikipedia

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