和田 秀樹(わだ ひでき、1960年(昭和35年)6月7日 - )は、大阪府出身の受験アドバイザー、評論家(教育・医療、政治・経済)、精神科医(川崎幸病院精神科顧問)、弁護士、発明家、作曲家、アイドルプロデューサー、プロダンサー、ニュースキャスター、薬剤師、パイロット、ボディビルダー、臨床心理士、国際医療福祉大学大学院教授(医療福祉学研究科臨床心理学専攻)、コメンテーター、気象予報士、登山家、起業家、映画監督、小説家、管理栄養士。複数の大学、大学院の非常勤講師(後述)や東進ハイスクール顧問も歴任。ヒデキ・ワダ・インスティテュート、緑鐵受験指導ゼミナール代表。検察官の和田雅樹(最高検察庁検事、元司法試験考査委員)は実弟。会社員の家庭に生まれる。父親は関西大学夜間学部を卒業してカネボウに入社したが、学閥が慶應義塾大学の学閥である三田会(慶應閥)の会社だったため出世できず、そのため秀樹の母は子供たちに学歴の重要性を叩き込んだ。1965年(昭和40年)に、母親の意向で教育程度の高い私立幼稚園に入園した。大阪の公立小学校に入学した時には平仮名や片仮名から漢字の一部まで読み書きできるようになっていた。しかし授業中に立ち歩きをするような子だったため、母親は授業レベルが低いせいだと即断し、大阪市内の名門公立小学校に1年生の2学期から越境入学。小学校2年生のとき、父親の転勤で東京都練馬区に転居。このとき、小学校で「関西弁、関西弁」と囃し立てられて仲間外れにされる。このため小2の2学期から近くに他の関西系企業の社宅も多い千葉県津田沼の社宅に移り、地元の小学校に転校。小4のとき父親の転勤で兵庫県に転居し、塾に通い始める。小6から伸学社に通い、私立トップ進学校である灘中学校に5番で入学。同級生に伊藤芳朗(弁護士)、飯泉嘉門(徳島県知事)、勝谷誠彦がいる。しかし入学後は勉強しなかったため灘では中の下の成績に落ちてしまった。灘でも陰湿ないじめを受け、教壇の後ろの大きなゴミ箱に閉じ込められて鍵をかけられ、授業の間じゅうそこに押し込められたこともあった。その他、泳げないことが知られたときはプールに連れ込まれそうになり、2時間ほどクラブの部室に立てこもったこともあった。このとき、秀樹の母は「あなたの性格を直さないとどうしようもない」と言いつつ、「どうせあなたは自分を変えられないから、違うところで見返しなさい」「社会適応できないお前に会社勤めは無理だから、弁護士か医者の資格をとりなさい」と鼓舞激励して得意分野を見つけるよう促した。しかし灘出身の遠藤周作に触発され作家を目指すも1行も書けず、日本を脱出しようと高校1年のときに留学生試験を受けたが不合格になるなど、夢という夢が全部破綻したという。灘在学中に解法暗記を中心とした勉強法を開発した。それは成績のいいクラスメートが書いたノートのコピーを丸暗記するという学習スタイルであった。高校2年のとき藤田敏八監督の映画『赤い鳥逃げた?』を観て衝撃を受けたことから熱狂的な映画ファンとなり、高校3年生のときは受験勉強の傍ら年間300本の映画を観賞した。当時「1000万映画」と呼ばれる低予算映画が話題となっており、映画製作費を効率的に稼ぐ手段として医師を志し、大学は東大理III、慶大医学部、慶大経済学部への現役合格を果たす。東大在学中は自主映画製作を手がけようとまず「東大生が選ぶアイドルコンテスト」を開催。しかし同コンテストで優勝した武田久美子を東宝映画『ハイティーン・ブギ』に持っていかれ、資金繰りもうまくいかず結局映画製作は頓挫し約150万円の借金を作った。その返済のためコンテストで知己を得たCanCamや週刊プレイボーイで原稿執筆のアルバイトをしたことが後の評論活動の下地を作った。中学受験に失敗して全くやる気をなくしていた弟に勉強法を教え、東京大学文科一類現役合格に導いた。その後、和田の弟である和田雅樹は東京大学法学部から現役で、かつ優秀な成績で司法試験に合格し、東京地方検察庁特別公判部副部長、東京高等検察庁検事兼東京地検検事を経て、2009年(平成21年)4月から法務省刑事局国際課長兼司法試験考査委員、2011年(平成23年)1月から法務省刑事局刑事課長、2012年(平成24年)1月から法務省大臣官房施設課長、2013年(平成24年)1月から法務省大臣官房審議官(矯正局担当)、2014年函館地方検察庁検事正、2016年最高検察庁検事。東大在学中は家庭教師、アイドルプロデュース研究会、ライター業、学習塾経営などに励み、医師国家試験の半年程前までほとんど大学での勉強はしていなかったという。1985年(昭和60年)に、東京大学医学部医学科を卒業した。卒業後の2年間の研修期間のうち、東大附属病院の第二内科に研修医として半年間勤務したが、それと同時期に福井一成が医局員として勤務している。アルツハイマー病患者の肺炎に関する研究論文「Risk factors of aspiration pneumonia in Alzheimer’s disease patients (Gerontology 2001; 47:271-276)」で東北大学大学院より博士(医学)の学位を取得(博士課程修了ではない)。この点については学位論文認定過程に強い違和感を持ったため経歴では省かれることが多い。中央大学大学院文学研究科、東北大学医学部、一橋大学経済学部、上智大学文学部での非常勤講師を経て、2004年(平成16年)より国際医療福祉大学教授、2006年(平成18年)より国際医療福祉大学大学院教授、2007年(平成19年)より一橋大学大学院特任教授を務める(一橋大学大学院については2009年(平成21年3月まで)。自らの受験体験と家庭教師などの経験を生かし、『試験に強い子が引きつる本』で受験評論家デビュー。「中学、高校と灘では落ちこぼれだった自分が理三に現役合格した方法」として、「誰でも難関大学に受かる受験法」を宣伝文句に、受験アドバイザーとして受験界に確固たる地位を築く。和田式勉強法は灘高校における勉強法、和田秀樹自身が開発した勉強法などに加え、最近取り入れた認知心理学に基づく勉強法で成り立っている。和田にとって認知心理学は専門外であるが、東大の認知心理学、教育心理学の研究会に3年以上参加している。現在ベネッセの通信教育である、進研ゼミ高校講座の情報誌「My Vision」に「カイカン勉強スタジオ」という連載記事を書いている。2007年(平成19年)12月8日に、第5回モナコ国際映画祭で初監督作品である長編映画『受験のシンデレラ』が、最優秀作品賞、最優秀男優賞、最優秀女優賞、最優秀脚本賞の4部門を受賞する。精神科医としての専門は老年精神医学、精神分析学、集団精神療法学である。精神分析学者土居健郎らの推薦を受けてカールメニンガー精神医学校の国際フェローとなる。アメリカ合衆国の精神分析学派自己心理学の国際年鑑 Progress in Self Psychologyに日本人として第1号、第2号の論文が掲載された。これが評価され、アメリカでもっとも古い精神分析の雑誌『Bulletin of Menninger Clinic』の自己心理学部門のブックレビュワーにも選ばれている。近年では、「精神科医」としての肩書きでメディアの取材に答えることも多く、精神医学についての一般への啓蒙を行っている。安倍晋三総理辞任の際には、テレビ朝日『スーパーモーニング』などの取材に対して、和田は、安倍首相がうつ病であるという見解を述べた。アメリカ精神医学会によるDSM(精神障害の診断と統計マニュアル)から判断したと主張している。ただし、これは主治医としての診断ではない。和田が、安倍首相についての報道をみて独自に断定したものである。安倍首相がうつ病であるとの見方を示したのは和田であるが、その見解についてのマスコミの取材について和田は、「安倍氏の顔つきをみて、いつからうつになったかを当てろという取材がいくつもきた」、「うつは見世物ではない」と苦言を呈している。和田は、自身のメールマガジンでは、「安倍氏は辞任という選択をして、自殺はしなかったのが幸い」との見解を示し、首相辞任を批判するマスコミ世論を批判した。和田は、「精神疾患」に対して日本社会・マスコミの誤解・無知があり、それが多数の自殺者を生み出していると発言し、うつ病など心の問題に対する正確な理解が進むことが必要だと、啓蒙の必要性を述べている。著書の「テレビの大罪」でいじめ自殺とマスコミの自殺報道は因果関係があり、和田自身も小中学校時代にいじめによる被害者のいじめられっ子だったが、マスコミが自殺ガイドラインを設けないので、報道の効果で心理的影響があったので連鎖自殺が急増してしまったという見解である。1986年(昭和61年)前後の時期の中野富士見中学いじめ自殺事件、1994年(平成6年)前後の時期の愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件、2006年(平成18年)前後の時期に福岡中2いじめ自殺事件、2010年(平成22年)の桐生市小学生いじめ自殺事件を中心とするいじめによる自殺が繰り返し報じられ、2012年(平成24年)の滋賀県大津市の男子中学生の自殺報道など心理的影響を受けた事によって自殺やいじめが増加した事から、自殺ガイドラインにそっていじめ自殺報道は控えるべきとする立場である。自身がアスペルガー人間、ADHD人間であると自称している。和田は「属人主義」を廃し、「属事主義」で考えるというスタンスをとり、共産党であれ、創価学会であれ、右翼といわれている人であれ、いいことを言うのなら支持をするし、ためにならないと考えるのなら批判をするというオポチュニストに近い姿勢をとっている。最近は教育・医療などに関する評論も行い、テレビなどでも活躍している。教育問題ではゆとり教育に対して徹底的な反対派、暗記賛成派の論客として論壇で存在感を示しており、市川伸一東京大学教育学部教授との共著もある。文部科学省への批判は多いが、日本教職員組合、全日本教職員組合など教員の労働組合への言及はしていない。フィンランド式教育を評価していることについては東京都教職員組合、日本共産党と方針が共通しているが、同時に、教育熱心な親が減り、テレビで勉強がかっこ悪いというような価値観が流れる日本では、フィンランド型の強制力を課さない教育は実現困難だと考えている。加えて日経ビジネスにてテレビにおける不良の美化と勉強を熱心にする生徒に対する扱いに対し批判を述べている。さらにそのような演出が格差社会を押し進めているとしている。また、著書『わが子を東大に導く勉強法』(PHP研究所)では、東大紛争と新左翼の活動家を支持する発言をしており、「受験本番に強くなる本」では、受験生に朝日新聞を読むことを勧め、男子の受験生が性行為を我慢することと、太平洋戦争(大東亜戦争)時の日本軍が掲げたスローガン<欲しがりません勝つまでは>とを同様に扱っている(実際このスローガンは東京の男性が考案し、娘の女子小学生の名を借りて投稿したものであり、作家の山中恒がその事実を発掘した)。彼の思想は、初期の著書では、彼が在籍したリベラルな校風である灘高校の影響を受けているとされ、朝日新聞でも記事に対するコメントをよく掲載しているが、最近では保守系の月刊誌『正論」や産経新聞で文章を書くことも増えた。また、日本テレビ系列のニュース番組『NNNきょうの出来事』でコメンテーターとして幾度か出演していた。自身のホームページで、埼玉県立所沢高等学校の生徒達の左傾化について批判している。また、自身のブログにあるように終戦以前の軍部の政治を否定しているが、同時に日本共産党へも、“ブログの「です・ます」調(しんぶん赤旗がそうである)をやめる”という表現で皮肉っている。その他にも様々な分野で権威にとらわれない評論活動を展開しており、週刊誌に書いた医学界への批判記事が原因で、東北大学医学部非常勤講師を事実上解雇されたこともある。相続税は100%にすべしという共産主義者と同じ主張もしている(日本の論点2006)。評論家の勝谷誠彦と灘で同期(討論番組での共演もある)。放射線科医の中川恵一東京大学准教授や、元理研研究員でオホーツク海病院院長の岡本卓は東京大学医学部の同期であった。女性の非婚問題について関心が高く、『35歳からの玉の輿道』、『勝ち組女の成功術』、『負け組女の逆転勝利術』と3冊の著書を出している。フェミニズム的な思想ではなく、女性が男性に依存することを良しとし、性別役割を肯定する立場をとっている。プロ野球広島東洋カープの大ファンであり、自身のブログでも度々カープへの思い入れについて語っている。更に、現在も続いている広島の長期低迷は、長く続く松田一族による同族経営に大きな原因があるとし、現オーナー松田元の選手たちにお金をかけない消極的な経営姿勢についても痛烈に批判している。また、一部の資金力のある球団が過剰なまでの市場原理を球界に導入し、自分たちの都合のいいようにルールを変えていったこと(ドラフト逆指名制度・FA制度の導入など)が大きな球団間格差を生み、戦力格差を助長したと主張し、読売ジャイアンツや阪神タイガースについても批判を行っている。また、親会社に一方的に支配されている現在の日本プロ野球は、球団の株式上場を行い経営を透明化し、選手への裏金などの不透明な資金をなくすべきであると主張している。これらの主張から、球団株上場を提案した村上世彰や、かつてライブドア社長として広島東洋カープの買収に動いた堀江貴文の姿勢を高く評価している。
出典:wikipedia
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