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C・W・ニコル

クライヴ・ウィリアム・ニコル(英: Clive William Nicol、1940年7月17日 - )は、ウェールズ生まれの日本の小説家、ナチュラリスト。1995年に日本国籍を取得し、本人の言によれば「ウェールズ系日本人」。キラメッセ室戸鯨館の館長も務める。妻は作曲家で日本画家のニコル麻莉子(1980年に結婚)。スペインのガリシアに別荘を持ち、日本での仕事が多忙になると黒姫にある自宅の留守を助手に任せ、家族と一緒にスペインに滞在して仕事に専念することが多い。また、旅行することが多く、このことをエッセイにまとめる著本を多く発表している。ウェールズの首都カーディフの西方にある町ニースに生まれる。母はイングランドに憧れたウェールズ人。母方の祖父である元炭鉱労働者のジョージ・ライスを尊敬している。自身のエッセイによると、ライス家はケルト化したノルマン系の家系だという。幼い頃に、やはりノルマン系イングランド人の軍人であった実父が太平洋戦争中にシンガポールで日本陸軍の捕虜となって処刑され、母とイングランド東南部のイプスウィッチに住んでいた。当時はナチスドイツの空軍の空襲に怯えていたと懐古している。後に母の再婚相手である、スコットランドのスカイ島生まれのイギリス海軍士官、ジェームス・ネルソン・ニコルの養子となってニコル姓(ニコル家もやはりケルト化したノルマン系スコットランド人という)となる。その後、異父弟のエルウィン・ジェームス・ニコルが誕生した。この頃に祖父から様々なことを教わり、自然を初めとして、生物・植物・宗教・歴史・哲学・音楽などを学び、また祖父に連れられて狩りを覚えた。小学校に入学した時には病弱で体も小さかったため、同級生に苛烈ないじめを受けた。また、教師から理不尽な体罰を繰り返して受けたため、学校嫌いになった。男子校の文化では告げ口は卑怯なことと考えられていたため、いじめの助けを求められなかった。ニコルは死のうとは思わなかったが、その代わりに相手を刺した。相手は腹の右側をかすり、警察沙汰になり学校が移転するほどの大事件となった。だが、それがきっかけでようやくいじめが明らかになり、ニコル少年が咎められることはなかった。同時に義理の叔父である元軍人のグウィン(母の妹である叔母オリーヴの夫)からも「軟弱な小僧」と嘲笑され、激怒した祖父のジョージはグウィンと対決を繰り返した。これがきっかけでニコルは叔父に復讐するため格闘技に興味を示した。ある時に、臨終間際の自分の愛犬のことで、イングランド国教会の牧師に「僕の犬は天国に召されますか?」と訊いた。牧師は「魂がない犬ごときは天には召される資格はない」と言い、それに反論したニコルは怒った牧師に殴られた。そんな少年時代の過酷な環境の中で、ニコルは自然、動植物と触れ合うことで癒しを見出していった。初等教育期の学習障害を克服し、名門進学校のグラマー・スクールに進学、ここで後輩のブライアン・ジョーンズと出会う。14歳の時に生物学教師であったピーター・ドライヴァーに出会い、さまざまな影響を受ける。柔道と格闘技を始め、ピーターもその影響を受けた。15歳の時に交換留学生としてフランス中西南部アキテーヌ地方のボルドーにあるガロンヌ川付近のある村に住んだことがある。高校を卒業後、大学院で生物学の博士号を取得するために教員を辞職したピーターの誘いを受けて、反対する両親に無断でカナダに渡り、17歳で極地探検を行なった。数年後に帰国し、両親の説得にしぶしぶ応じて、チェルトナムの教員養成(師範)大学であるセントポール教育大学に進学した。だが大学が嫌いでレスラーのアルバイトに専念した。ニコルが20歳のときに、祖父ジョージが祖母の後を追って他界する。ライス家の財産相続に関して叔父のグウィンと揉め事を起こし、叔父がニコルに殴りかかったので、既に屈強な体格を持っていたニコルは叔父の顎を強烈に蹴り返した(そのために叔父は脳震盪の後遺症が残った)。彼はそれまでの怒りを爆発させ、「俺はあんたが死んだら、必ずあんたの墓標に小便を引っかけてやるからな! 憶えとけ」と言い残して、グウィンの息子である従弟のエドウィン(後にオーストラリアに移住)と一緒に故郷のウェールズを立ち去り、それ以降30年以上戻らなかった(しばらくして叔母が病で亡くなり、叔父は再婚しライス家の全財産を売却した)。ニコルが20歳の時の出来事である。ニコルはこの叔父に対して「僕は今まであんなに人を憎んだことはなかった。叔父は僕の良き思い出のウェールズを滅茶苦茶にしてしまった許し難い存在だ。しかし、僕の叔父に対する憎しみは僕をタフにする作用も働いた。何ともいえない皮肉だね」と述べている。間もなくフィールドワーカーとなる夢を果すために大学を中退、ウェールズの北方にあるランディ島で恋人と暮らしたが、破局したために再び極地調査のスタッフの道を選ぶ。以降も数次にわたる極地探検で、カナダのイヌイットと一緒に暮らすなど交流の経験を繰り返した後、エチオピアの野生動物保護省の狩猟区管理官を務め、密猟者との戦いも過酷を極めた。その後、再びカナダで水産調査局や環境保護局での技官などを歴任した。1962年に空手道を学ぶために来日した。日本大学で日本語を学ぶ。この来日期間中に日本人女性と最初の結婚をしている(数人の娘をもうけた後に離婚、長女はカナダ人男性と結婚し、カナダ在住)。また、空手道以外に杖道も学んでいる。カナダ国籍を取得した後、1975年、35歳で沖縄国際海洋博覧会のカナダ館副館長として再来日する(翌年母親が58歳で他界した報を弟から受けたが、事情があってなかなか帰国ができなかったと本人は語っている)。1978年、カナダ政府の官職を辞任し再来日する。捕鯨の物語を書くため、和歌山の太地に1年余生活した(これは、太地の鯨取りの猟師が海での遭難からカナダに渡り、その子供たちにまで及ぶ海に生きる男たちを描いた『勇魚(いさな)』の参考となった)。1979年には子供服のCM曲として使われ「ニックとともだち」として出場した「りんごの木にかくれんぼ」が、第17回つま恋本選会で入賞している。この「りんごの木にかくれんぼ」は1991年にファンハウスからCDシングルとして発売され、EMIミュージック・ジャパンから発売されたアルバム『Sail Down the River』にも収録されている。その後、現在の妻に出会い(後に末娘をもうける)、親友の谷川雁の紹介で1980年に、谷川が創設したラボ教育センターの拠点であるラボランドのある長野県黒姫山の麓に居所を定める。また、ラボ教育センターのテキストのいくつかを執筆。ラボ教育センターの分裂時は谷川と行動をともにし、谷川が創設した「十代の会」「ものがたり文化の会」に参加・協力している。1981年、第6回創作テレビドラマ大賞に「日時計」で佳作受賞した。以降、現在に至るまで作家活動を続けている。1995年に念願の日本への帰化を果たし、同時に英国籍とカナダ籍から除籍されたという。小説『風を見た少年』(講談社)は、2000年に大森一樹監督でアニメ映画化された。また、自然環境の保護活動でも知られ、1986年、長野県黒姫高原の荒れた里山の一部を購入し「アファンの森」と自ら名づけ、親友で専門家の松木信義と共に里山の再生運動を展開し、エコツーリズムを実践する。ナチュラリストとして高名である。2005年10月28日に英国政府から日英関係発展に寄与した功績で、名誉大英勲章5位(MBE)を贈られた。2007年2月には大分県内で開催された日本教職員組合の教育研究全国集会の全体集会で「森を育むもの」と題して講演を行った。日本の捕鯨史を学んだ関係で、日本の食文化・漁業文化・生活文化を守る必要性から捕鯨推進論者であり、信頼できるデータが揃い、きちんとした形で行うならば、捕鯨もかまわないとしている。反捕鯨国で占められている国際捕鯨委員会やグリーンピースやシーシェパードの活動に対して苦言を呈している。同時に、捕鯨問題が人種問題であるという点に関しては否定している。ただし、現在ではグリーンピースとは和解しており、グリーンピース・ジャパンとは友好関係にあるという。また日本の沿岸捕鯨に関するデータが信憑性に欠けるため、現在「日本の捕鯨を全面的に支援する立場にはない」とも語っている。ニコル本人も、現在でも環境問題に取り組んでいるが、2016年6月6日に、公務でアファンの森を訪れた天皇陛下と美智子皇后の散策の案内役をつとめた。翌月に天皇陛下が生前退位の意向を示すと、ニコルは「天皇陛下にかけていただいた言葉は一言も忘れない。自然に包まれた両陛下はお幸せそうだった。退位されて体を休め、お好きなことができるのなら、私も日本人としてうれしい。愛し、尊敬していきたい」と述べている。

出典:wikipedia

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