白木屋(しろきや)は、東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店の一つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在の一つである。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続しており、1967年(昭和42年)に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年(平成11年)1月31日に閉店し、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されて2004年(平成16年)3月30日に開業した。初代大村彦太郎可全が慶安年間に京都の寺の内に材木商として白木屋を開いたのが始まりである。初代大村彦太郎の母方の河崎家は近江の国の材木商であり、その商売を手伝った後、白木屋の屋号をもらって独立して開いたものであったが、独立・開業した直後は白木屋をの名乗っていなかったとされている。また、初代大村彦太郎の父である大村道与も同様に河崎家の支援を受けて京都で「菊屋」の名で材木商を営んでいたとされており、その再興を図る形にもなっていた。この京都の白木屋は材木商の傍らで木綿類や日用品の販売も手掛けており、このことが後の呉服店へ繋がることになった。初代大村彦太郎は江戸の繁華街へ出て商売を行うことに早くから強い意欲を燃やし、1662年10月6日(寛文2年8月24日)に日本橋通り2丁目に間口一間半の小間物商としての白木屋を開いた。開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていった。また、寛文8年(1668年)には羽二重地の販売を始め、延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等の販売も手掛けるようになり、延宝7年(1679年)に晒木綿、天和元年(1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目を拡張して呉服太物商の仲間入りを果たした。その後、貞享元年(1684年)には店を拡張したほか、貞享3年(1686年)には高級品とされていた郡内縞を売り出し、宝永元年(1704年)には贅沢品の毛織物を含めた一般呉服物を売出すなど江戸の町人文化の開花に合わせて販売品目を広げ、越後屋(現・三越)や大丸屋(現・大丸)と並んで江戸三大呉服店の一つに数えられる大店に成長した。1878年(明治11年)に建設された土蔵造り2階建ての店舗を増改築して、1903年(明治36年)10月1日に和洋折衷の3階建ての店舗として新装開業した。この新装開業の際に、木馬やシーソーなどを備えると共に蕎麦屋や汁粉店、寿司店などの飲食店も出店する遊戯室を設けており、販売方式の面で百貨店化すると共に、飲食店を併設するという面でも百貨店の先駆けとなった。その他にもこの新装開業に際して電話受付係として女性店員を採用したほか、1911年(明治44年)10月1日に一部5階建てに増築して新装開業した際に伝統的な呉服店の営業形態だった座売りを廃止して全面的に陳列式に切り替えたほか、少女音楽隊が常設されて演奏を行うなど様々な新機軸を他の百貨店に先駆けて導入している。1893年(明治26年)には大阪・心斎橋筋に大阪出張店を設置して大阪進出を図り、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビル1階に182m²の梅田出張店を開業し、1921年(大正10年)10月1日には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3,075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗展開するようになり、この大阪支店では床面を木タイル張りにして日本の百貨店として初めて一般客の土足入場を行った。このうち阪急電鉄から招致されて出店した梅田出張店は食料品や日用雑貨の販売を行って好調な売り上げを上げたが、この出店契約は売上歩合制とすることでその売上実績を把握し、ターミナルデパートの経営成功するかどうかを判断する材料とすることを狙った小林一三の考えによるものであったため期間満了を理由として契約が解除され、1925年(大正14年)4月30日限りで閉鎖し返還することになった。阪急梅田ビルには同年6月1日に2・3階に自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態の阪急マーケット、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し、1929年(昭和4年)4月15日には鉄道会社直営=電鉄系百貨店として初の阪急百貨店を開業しており、ターミナルデパートに繋がるものとなった。1923年(大正12年)5月15日には神戸市湊川の神戸実業銀行内に神戸出張店を開設し、関東大震災で被災した日本橋本店の営業再開までの間には大阪と神戸に本店から58名を転勤させて営業力の強化を目指すなど関西での営業にも力を入れた。しかし、神戸出張店の業績が伸び悩んで1927年(昭和2年)3月に撤退する際に約16万円という当時としては巨額な損失を出したほか、大阪支店も赤字が続いたため1932年(昭和7年)7月に閉鎖して関西から全面的に撤退することになった。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で本店が全壊する大きな被害を受けることになった。震災から2ヵ月後の同年11月1日には日本橋本店の仮建築を完成させて再開するなど早期の再開を目指した。ところが、その後東京市の復興計画の遅れから日本橋本店の区画整理の決定が遅くなったため仮建築の期間が長期化し、業績の低迷が長期化することになった。その為、1926年(昭和元年)と1927年(昭和2年)の2年連続で赤字に陥るなど経営に致命的な打撃を受けることになった。白木屋は先述の通り、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビルや東京・丸の内の海上ビル(現・東京海上火災ビル)にも丸の内出張所を開設するなど早くから小型店舗の展開を進めていた。1923年(大正12年)3月には東京・丸の内の丸の内ビルヂング(現・丸の内ビルディング)の竣工に伴って同ビル内に丸の内出張所を開設して従来の海上ビルの店舗を海上ビル出張所に名称変更したほか、同年5月15日に神戸実業銀行に出張所を出店するなど関東大震災前から積極的な多店化が進められていた。また、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の直後も、同月15日に東京・丸の内の丸ビル出張店の営業を再開すると共に同月20日から一階正面左角の三菱商亊跡の一角を借り受けて新営業所を開設したほか、九段下牛が淵公園前や四谷塩町停留所前に出張店を開設して日用雑貨などの販売を行って好調な売り上げを上げた。ただし、1926年(大正15年)に丸ノ内と四谷出張店を閉店したほか、阪神電気鉄道梅田駅に出店した出張店なども短期間で閉鎖されるなど、店舗の閉鎖も少なくなかった。だが、その一方では、先述の通り日本橋本店の再建が遅れることになったため、業績を維持するには仮建築での営業だけでは不可能な状況となっていた。そして、2年連続で赤字に陥ったこともあり、1928年(昭和3年)2月の日本橋本店の本建築による再建第1期工事の落成に前後して分店と呼ぶ小型の店舗をチェーン展開し始めることになった。しかし、一方では先述の通り1927年(昭和2年)3月に神戸出張店を閉鎖した際に約16万円という当時としては巨額な損失を出していたため、不動産を取得して出店することなどの危険性も痛感させられていた。その為、まず実験的に池上電気鉄道のターミナル駅ビルを賃借して約3万円を投じて五反田分店を出店して、分店を出店することの成否を1か月間で判断することになった。この五反田分店が順調に立ち上がったことから分店の多店舗展開が進められることになった。1929年(昭和4年)2月に大森分店を日本橋本店の仮建築の資材を流用して出店し、同年3月に日本橋通2丁目に売店を開設したほか、1930年(昭和5年)に東京では錦糸堀や神楽坂、関西では京都に分店を出店している。この他にも、東京では麻布十番や大塚、錦糸堀(本所区(現・墨田区)江東橋)、大久保、大井、帝大等に分店を出店したほか小田急電鉄新宿駅の構内に小田急売店を開設している。東京の分店・出張店・売店は比較的順調に売り上げを伸ばしたとされているものの、日本橋通2丁目の売店は開設からわずか半年の9月に閉店となったほか、大久保分店も業績不振で短期間に閉鎖になるなど必ずしも全店が順調に売り上げを伸ばしたわけではなかった。また、関西では天神橋筋六丁目の天六分店や梅田の阪神出張店、天満橋の京阪出張店等のターミナル駅やその駅前に出店したほか、福島や玉造、京阪の香里等にも分店・主張店を出店していたが、大阪支店閉店前後までで全店閉鎖して関西からは全面的に撤退する形となった。1931年(昭和6年)に日本橋本店の再建工事第2期が完成して全面的に復興することになったが、1932年(昭和7年)7月には大阪支店閉店、同年12月16日に発生した火災で多数の死傷者を出すなど、困難な状況が続くことになった。また、分店開設の一環として、京浜電気鉄道(現在の京急線)の品川乗入に伴て出来る高架下に品川分店を開設する計画を立てたが、日本百貨店協会が支店などの開設を自粛する自制協定を発表したことに伴い、それに抵触するとしてこの構想は実現できなくなるなど出店戦略も行き詰まることになった。この京浜電気鉄道品川駅などへの出店計画自体は当社の取引先の問屋と京浜電気鉄道が出資して設立した株式会社京浜デパートが継承して実現したものの、当社は出資できなかったため、その利益を享受することはかなわなかった。また、戦時体制へと進む中で資材調達にも抑制が掛かり、大森に建設する映画館の鉄骨使用が禁じられて木造建築となるなど統制による営業への影響が徐々に表れ始めた。しかし、一方では1937年(昭和12年)に五反田分店と錦糸堀分店、大塚分店の増改築が行われて増床が実現し、当店の分店の営業面積は大幅に拡大することになった。また、関連会社として白木貿易を設立して戸越や西荻窪、立川市、平塚市、水戸市、前橋市、太田市など関東各地に分店を置いて日用雑貨の販売を行う営業戦略も展開している。その後も政府による統制強化が続き、輸入の制限・公定価格制導入による価格統制などが相次いで施行されて自由な営業が難しくなり、店舗などの建物の供出命令なども受けたため、事実上開店休業状態に陥ることになった。そのため、配給所の運営などで辛うじて存続を図ることになったが、空襲で日本橋本店や大塚分店、大森分店、錦糸堀分店等の主要店舗が全焼すると共に、その際に当店店員も死亡するなど大きな被害を受けることになった。第2次世界大戦後も1946年(昭和21年)8月に本店が進駐軍向けの配給所であるPXとして供出させられてすぐに通常の営業に戻れなかったため、同年10月にキャバレー「クラブシロキ」として営業したほか、1947年(昭和22年)に日本放送協会に一部をラジオ劇場として賃貸するなど、百貨店以外の事業で辛うじて存続する形となった。ソニーが1946年(昭和21年)5月7日に日本橋本店の3階で創業したのも、こうした百貨店営業が出来ない状況下での貸室が行われていたことによるものであった。また、1942年(昭和17年)2月に日本光学工業(現・ニコン)に供出させられていて同社の本社機能などが入居していた大森駅前にあった大森分店は、1945年(昭和20年)11月に東京海上火災保険本社が入居していたため、訴訟を起こして裁判所から立ち退き命令を出してもらっている。こうした売上が伸ばせない状況下で、仕入れ商品の値上がりも続いて利益を圧迫されたため、1948年(昭和23年)8月に大塚分店を運輸省に売却することになった。1952年(昭和27年)5月には日本橋本店が全面的に返還されたため本格的に営業を再開し、同年9月に資本金を2億円に増資するなど財務面の強化も進め、同年12月に中央線高円寺駅北口の駅ビルに高円寺分店を開設するなど小売事業の本格的な復活に向けてようやく動き出すことになった。この様な日本橋本店の営業再開が困難な状況が続いたために業績の低迷が続いたことから、横井英樹と堀久作が株式の過半数を握ることになった。そして、この買収騒動の収拾策として東急電鉄が株式の過半数を取得したため、当社は1956年(昭和31年)1月に東急の傘下に入ることになった。この東急グループ入りの直後に第2次百貨店法の施行が決まったため、分店の運営に制約がかかることを警戒して五反田と大森、高円寺の3店は白木興業として分社化され、同社が1957年(昭和32年)4月1日に東横興業(現・東急ストア)に合併してチェーン店の一部として継承されることになった。1958年(昭和33年)8月に東横百貨店を吸収合併して株式会社東横に商号変更したことで法人名から白木屋は消えることになり、1967年(昭和42年)10月に日本橋本店の名称を東急百貨店日本橋店へ改称したため、日本国内から白木屋の店名を名乗る店舗が消えることになった。しかし、1959年(昭和34年)10月にはアメリカ合衆国のハワイ州に「シロキヤ・インコーポレイテッド」を設立してシロキヤの店名で「アラモアナ店」など4店舗を出店するなど、伝統ある屋号の活用も模索された。そして1999年(平成11年)1月31日には当店の後身である東急百貨店日本橋店が閉店し、江戸時代から続いた歴史に終止符が打たれることになった。当社日本橋本店跡地には日本橋一丁目ビルディングが建設され、2004年(平成16年)3月30日に店舗面積約10,000m²の商業施設「コレド日本橋」が開業し、当社の小型店を継承した東急ストアが地下1階に高級スーパーマーケットの「プレッセ日本橋店」を開設した。百貨店としての白木屋の商標はもはや国内では見ることができないが、ハワイ・ホノルルにあるショッピングセンター「アラモアナセンター」では、現地法人によって今も Shirokiya が営業を続けており(#沿革を参照)、広重の絵にも描かれた、手斧を斜めに交差させた図案のロゴシンボルも、いまだ健在である。初代彦太郎の時代は、江戸が大きな都市として膨らむ時期で、水の悩みが絶えなかったらしく、それから50年後の正徳元年(1711年)に、二代目安全は日本橋一帯の良水の乏しさを救うため、白木屋の店内に井戸を掘ることを思いついた。これはなかなかの難工事で、途中で挫折しそうであったが、ある日、井戸掘りの鍬の先に手応えがあって、一体の観音菩薩像が出現し、これを機に良水がこんこんと湧き出してきたと伝えられる。そこで白木屋は店内に祠を建て、観音像を祀ったところ、人々の参詣はひきもきらず、四万六千日ご開帳当日の賑わいは「東都歳時記」にも登場するほどの江戸名物となった。この霊水は良水の不足に悩む付近の人々を潤したばかりでなく、この水のおかげで長年の病気が癒えたという人も出たと伝えられてきた。閉店にあたり、観音像は浅草の浅草寺 淡島堂(せんそうじ あわしまどう)に遷座することとなり、白木名水は湧き出してから数百年の時を経て白木屋と共に建物の取り壊しにより消失した。江戸城下の歴史を理解する上で重要な遺跡として東京都指定旧跡に指定されており、日本橋一丁目交差点角にあった「名水白木屋の井戸」の石碑は2004年(平成16年)にCOREDO日本橋アネックス広場内に移設再現されている。日本の都市災害史に残る大火災の一つ。1932年(昭和7年)12月16日午前9時15分頃、4階の玩具売り場で火災が発生。地下2階、地上8階の建物の4階から8階までを全焼して。火災による死者が1人、墜落による死者が13人、傷者が67人という、日本初の高層建築物火災となった。当時、白木屋は歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていた。開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見し、開店直後に男性社員が修理しようとした時、誤って電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火。火は山積にされたセルロイド人形やおもちゃに燃え移り瞬く間に猛烈な火炎をあげた。この社員は消火活動をしているうちに煙に巻き込まれ一酸化炭素中毒で死亡した。4階にいた55人の客や店員は驚いて避難を開始したが、火の勢いは益々大きくなり、エレベーターや階段が煙突の役割をして4階から最上階の8階までが猛煙に包まれた。日本橋消防署の望楼勤務員がこの火災を発見し、ポンプ車29台、ハシゴ車3台などを出動させて消火活動にあたったが、ハシゴ車は5階までしか届かず、ポンプも送水圧力が上がらないため5階以上への放水はできなかった。一部の客や店員らはパニックに陥り、売り場にある布やカーテンを結んでロープ代わりにしたり、女性店員の帯を結んで脱出を試み、途中で切れて転落死した。。これを教訓に、神田消防署に特別救助隊の前身となる「専任救助隊」が編成される。この火災によってセルロイド製玩具の危険性が社会問題となり、各百貨店の玩具売り場からセルロイド玩具が一斉に姿を消した。しかし、他に代替できる素材が存在しなかったため、しばらくするとセルロイド玩具は再び販売されるようになる。火災以降、セルロイド不燃化や代替素材の研究開発が進められたが、実現したのは戦後になってからだった。この火災では、逃げ遅れた高層階の女性店員が転落死している。和服を着ていた女性店員たちはズロースを着けていなかったため、陰部が野次馬に晒されるのを防ぐため風でめくれる裾を押さえようとして、思わず命綱を手放し転落死したとされている。また、この悲劇を教訓として女性へズロース着用が呼びかけられたことで、ズロースを履く習慣が広まり、洋装化が進んだとされている。ただしこの通説には疑問が呈されている。まずズロースが原因で転落死したという点について、白木屋専務の山田忍三が23日の朝日新聞で避難活動の様子を談話の形で発表し、5階、4階と樋や命綱を伝わって降りてきた女性店員が2、3階まで来たところで野次馬に見られていることに気が付き、羞恥心から裾の乱れを直そうとして墜落してしまったケースがあったため、今後は女性店員にズロースを履かせることにしたと述べている。ただし、ここでいう女性店員とは低層階の店員のことで、転落死した高層階の店員のことではない。しかし、28日の都新聞の記事では両者が結びつけられ、女性店員が転落死したのはズロースを履いていなかったからだと報じ、読者にズロース着用を呼びかけた。以降、この都新聞の記事の内容が他の新聞でも反復されている。火災がきっかけでズロースが広まったとする点についても、火災から1年半後の福岡日日新聞の1934年6月22日の記事にて、90%以上の女性がズロースを履いていないことを報じている。同記事では、都新聞の内容を反復しており通説が浸透しだしているが、それがズロースの着用率を高めるには至っていない。そもそも、災害を教訓にしたズロース着用の呼びかけは関東大震災の際にもあったが、このときもズロースの普及は実現しなかった。白木屋火災をきっかけとしたズロースの着用率増加はせいぜい1%程度とみられており、ズロースの本格的な普及が始まるのは火災から10年ほど経ってからである。当時の日本人は腰巻の習慣が長く、ズロースを着用するようになるにはかなりの時間が必要だった。のちにズロースが普及したのは、女性が男性と同じ職に就くようになるにつれ、職業婦人としての洋装が定着したからである。日本の経営史上に残る経営紛争の一つ。1949年(昭和24年)、日本橋交差点の好立地にありながら業績が伸び悩んでいた白木屋に対し、当時繊維関係の商社を経営していた横井英樹が株の買い増しを開始。経営権の獲得を目指し買い占めを行っていたが、1953年(昭和28年)に日活社長の堀久作の持株と合わせると同社の過半数の株式を掌握することが判明したため、両者は共謀。白木屋に対し両者の役員就任等を迫った。間もなく堀は白木屋株を山一證券へ売却してこの一件から手を引いたが、1954年(昭和29年)遂に白木屋経営陣と横井は全面対決をすることとなり、両者がそれぞれ株主総会を実施して役員を選出するといった異常事態になった。当時横井を金融面で支援していたのは堀とも繋がりを持つ千葉銀行であったが、1955年(昭和30年)千葉銀行は横井が金策で行き詰まってきたため、東急グループ総帥の五島慶太に支援を要請。五島は熟考の末事態の収拾に当たることとし、横井および元々堀が保有していた株式を買収して経営権を掌握。結局横井は白木屋から手を引き、東急が業績不振の白木屋を再建する目的で買収する形を取ることとなり、乗っ取り騒動は一件落着した。横井はこの一件で当時「希代の仕手屋」(グリーンメーラー)としてその名を轟かせることとなる。1999年(平成11年)1月31日、白木屋以来336年の歴史を誇ってきた東急百貨店日本橋店が売れ行き不振で閉店。正月2日から始まった閉店セールは新聞・テレビなどで大きく報道されたこともあり初日から押すな押すなの大盛況。店として過去最高で前年の5倍以上の10万7000人が訪れ7億円強を売り上げた。社会現象とも言われ、店じまいした1月末(1月31日)までの来店客は204万人。年商の約半分の165億円を売り上げるほどの大盛況に終わった。大正時代に開催した角力(すもう)展覧会がきっかけで、相撲界との密接な関係が生まれ、「白木屋という店名が白星につながる」ということで、大相撲の力士の化粧回しの注文を一手に引き受けてきた。営業最終日の閉店セレモニーでは大相撲、第27代木村庄之助が特設舞台で「本日をもって千秋楽でございます」と結びの触れを行い、旭鷲山昇らの三本締めで336年の歴史を閉じた。
出典:wikipedia
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