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丹波哲郎

丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。身長175cm。血液型はO型。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。オールスターの超大作に相応しい映画では常連の一人として、権力者など上層部の人物役で特別出演もした。丹波プロダクション・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけており、宮内洋は丹波の一番弟子である。心霊学と霊界の研究もし、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった。大久保町字百人町(現在の新宿区百人町)にて丹波家の三男として生誕。家柄は系図を遡ると、平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着く。祖父は薬学者の丹波敬三、父は日本画家の丹波緑川、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。在学中に学徒出陣し陸軍に入隊、立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいた (詳細は#人物を参照)。戦後は大学に復学し、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていたが実際には本人曰く「女の世話をしていただけ」であり英語はまったく話せなかったという。卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場・文化座を経て新東宝に入社。同期には高倉みゆき・中島春雄・広瀬正一がいる。1952年、セミドキュメンタリー映画『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍したが、1960年、新東宝社長・大蔵貢との対立 (詳細は#人物を参照)からフリーランスとなり、フジテレビのディレクターだった五社英雄とコンビを組み、1960年に放送されたテレビドラマ『トップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の映画『御用金』にも出演している。映画『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年のテレビ時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演。1967年にはイギリス映画『007は二度死ぬ』に出演して、国際的に認知された。1968年から放映されたテレビドラマ『キイハンター』では「黒木鉄也」で主演。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯でテレビドラマ『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS系土曜21:00の顔となる。前後して1973年には映画『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には映画『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された。1980年の『二百三高地』でブルーリボン賞助演男優賞と日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることの出来ない空間を表現し話題を呼ぶ。2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、大河ドラマ『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた。2005年2月から約2か月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。。死去する前に霊界はすばらしいところなどと遺言を残した。映画・テレビドラマで何度も共演している千葉真一は「(亡くなる) 1年ぐらい前に『キイハンター』をまたやりたいね、と話していた。お元気だったのに・・・」とTBSの電話インタビューに答え、その死を惜み哀悼の意を表した。第44回ゴールデン・アロー賞の芸能功労賞が贈られ、9月30日に青山葬儀所で行われた告別式には、安部譲二、稲川淳二、岩田廣一映広社長、京本政樹、黒柳徹子、ケーシー高峰、紺野美沙子、せんだみつお、高井英幸東宝社長、高嶋政伸、谷隼人・松岡きっこ夫妻、司葉子、鶴見辰吾、長門裕之、夏木陽介、西田敏行、原田大二郎、藤田三保子、由美かおるの他、2,000人のファンが参列した。棺の中には、「ハードボイルドらしく送り出したい」と喪主を務める長男の丹波義隆の意向で、『キイハンター』、『Gメン'75』で被っていた黒のショートハットを東映東京撮影所から京本政樹が運んできた。「これが似合うのはオレだけだ」と語った丹波の代名詞とも言うべきショートハットが、胸の上に置かれた。通夜の開始では『Gメン'75』のテーマ曲が、告別式では『キイハンター』のテーマ曲や丹波が愛した「赤とんぼ」などの葬送曲が流れた。『Gメン'75』の関谷警部補役・原田大二郎とスペシャルで結城警部補役の京本政樹、「HOTEL」の赤川一平役・高嶋政伸や鶴見辰吾らが、遺族と一緒に出棺した。義隆が「父はあの世とこの世は地続き。電車で隣町に行くようなものといってましたが、いざ、その日を迎えるとはっきり言って寂しいです」「おやじから見たらだらしない息子だと思われるかもしれないが、これから父の言う“電車の乗換駅”に父を見送りに行ってきます」と挨拶すると、弔問客からはすすり泣く声が漏れた。ファンから「丹波哲郎、日本一」「ありがとう!」の絶叫がコダマし、原田大二郎は目を真っ赤にして最敬礼のポーズで見送った。2007年7月17日、25年間交友のあった霊能者の稲川りよ子によれば、死後の丹波から、生前の約束通り霊界通信があり、「世のため、人のために尽くし明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、それに見合った素晴らしい世界があります」との旨のメッセージが送られて来たという。告別式に参列した江原啓之は、自らの棺に腰掛けて足を組み、参列者をニコニコしながら眺めている丹波さんの霊を見て、笑いを堪えるのに苦労したと『オーラの泉』で語っている。出演作を多く手がけた中島貞夫は「外見はバタくさいが義理堅い日本の男で、ワンシーンの友情出演だけなのに京都へ来てくれたこともあった。車代を渡そうとしたら『おれはそんなつもりで出たんじゃない』と泣いて怒られた」と語り、石井輝男はもっとも信頼出来る俳優のひとりとして、文句をいわず、ひたすら言われたことを黙々と演じる丹波をいつもほめていた。息子に俳優の丹波義隆と森正樹。哲郎の妻は北一輝のいとこの娘にあたる。また、妻の兄の大蔵敏彦は弁護士で、四大死刑冤罪事件の一つ島田事件で被告人の無罪を勝ち取った人物である。杉並区西荻窪に永住したが、俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。丹波が二つの家族を分け隔て無く愛したゆえの出来事と言える。1963年の映画『丹下左膳』(松竹京都)で隻眼隻腕の剣士、丹下左膳を演じる事になったが、殺陣がやりにくいとの理由から、設定上右手、右眼が無いところを左手、左眼がないことにして刀を右で持つ、という提案をし、世間を驚かせた。歴代の丹下左膳の中でも右手なのは丹波の作品のみである。『仁義なき戦い 代理戦争』では写真だけの出演(モデルは田岡一雄)もあった。『人間革命』でシリアスな宗教家を演じた時期に、石井輝男が監督をした『ポルノ時代劇 忘八武士道』にも主演していたと著書で述べている。同作の監督・石井輝男とは新東宝時代の僚友だが、お互いに東映に移ってから協業が増えて親しくなり、石井晩年の低予算自主制作作品にも付き合っている。出演依頼は「二度断り三度目に応諾する。5ページ以上の台詞がある仕事は受けない」というスタイルを守っていた。マネージャーの条件は「仕事を取って来ないこと」で、仕事を取りすぎるという理由で解雇された者もいた。台本を読まないことで知られ、自分の台詞の部分だけ切り取った紙切れをポケットに入れて持ち歩いていた。自分の役柄やロケーション、シチュエーションなどの詳細を理解しないまま撮影入りすることもしばしばで、共演する若手俳優が世話役を任されていたという。松方弘樹は自身のブログの中で、ある任侠映画の撮影中に「ところで俺は何で(どういう物語の流れで)ここにいるんだ?」と丹波から尋ねられ仰天したと述べている。この丹波の特異なスタイルのため、机の上や壁、共演者の背中あるいは小道具である手元の蜜柑にまでカンニングペーパーが準備された。「Gメン'75」等で共演した夏木陽介の著書によれば「丹波ちゃんとは、同じ警視役で対等に付き合っていた。丹波ちゃんは新東宝を辞めてお金に苦労していた頃、柳家金語楼さんの付き人をしており、この金語楼さんが全く台詞を覚えてこず、カンニングペーパーを使っていたので、それを真似るようになったんだと思う」とのことである。ただし全員がその姿勢を支持していたわけではなく、ある監督が丹波に灸を据えてやろうと、わざと極端な長台詞を用意したことがある。視線の動きが分かるアップシーンにすることでカンニングペーパーも封じ、さすがに困惑するだろうと思っていたところ、丹波は淀みなく長台詞を言ってのけ周囲を驚かせた。丹波本人は「いちいち覚えるのが面倒なだけで、苦手なわけではない」としている。ワンマン社長としてその名を知られた松竹の城戸四郎を、影でシロウちゃんと呼んでおり、不在の本社を訪ねては「シロウちゃん、いるかい」とふざけていたら、偶然本人がいたことで、城戸と言い争いになったこともある(キネマ旬報「大放言」より)。ただ、城戸を偏屈だが愛すべき人物として敬愛してもいた。著書で「軍隊時代に上官だった川上哲治からリンチを受けていた。終戦後に川上が『あのときは仕方なかった』と頭を下げて廻り、巧みな処世術をするのを見たとき、川上の本性がわかった」と述べている。丹波プロダクションに所属し、『キイハンター』『鬼平犯科帳』などで共演した野際陽子を妹のように可愛がっていた。佐野史郎はドラマ『ずっとあなたが好きだった』で野際と共演していた時に、丹波から「陽子をヨロシク!」と声をかけられている。心霊学と霊界に造詣を持ち、霊界の存在を確信していた。多数の著作をものし、年間20回以上の講演を行っていた。本人もロンドンのホテルで中国人女性の複数の霊に遭遇しており、これが死後の確信に変わる出来事だったと話す。なお、本人の公式サイトも霊界についてまとめたサイトになっている。その他、催眠術への造詣も深く、自ら催眠術を操れたという。新東宝時代、社長の大蔵貢と会食した際、彼の愛娘に対し催眠術を掛けてやると持ちかけ、慌てて大蔵に止められたことがある。これは、当時大蔵が自社の女優を手当たり次第物色していたとして物議を醸していた最中のことであり、この一件はこのような大蔵の姿勢に対し、丹波が催眠術を掛けて逆に娘を物色するぞと皮肉ったものだった。自殺をすると、あの世でその念により、半永久的に身動きが取れない罪(自殺者の森)が待っていると説いた手前、たとえ時代劇で演じた武将が本来切腹するシーンでも台本変更を要求。討ち死にする設定に変えてもらった(例:大河ドラマ「義経」の源頼政)。丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波が警察官に「Gメンの丹波だが」と対応。この時の違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波は一方通行の逆走だったと、笑っていいとものテレフォンショッキングで語っている。『人間革命』出演後、創価学会の大会に招待された際、創価学会の活動をさかんに顕揚する講演をした後で「南無阿弥陀仏」としめくくり、場内を騒然とさせた。丹波は著書に、自分のオッチョコチョイな性格を示す逸話として、この失敗談を載せている。オロナミンCの初代CMキャラクターは、当初大村崑ではなく丹波になるはずだった。事実、丹波が侍姿で製品を持った宣材ポスターが大村の資料館に残されている。嘉門達夫は丹波の発言やキャラクターをもとにした楽曲『タンバでルンバ』を発表し、それが機縁となりTBSドラマ『結婚してシマッタ!』で丹波の秘書役として共演した。

出典:wikipedia

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