土器(どき)は、土を練り固めて成形し、焼き固めることで仕上げた器である。「土器」とは、一般に胎土が露出した状態のいわゆる「素焼き(すやき)」の状態の器であって、磁器のように化学変化を起こしてガラス化していないため粘土の不透明な状態がそのまま残っているものを称している。広義には陶磁器も「土器」に含むことが出来るが、一般には粘土を窯で焼かず、野焼きの状態で700–900℃の温度で焼いた器のことを指し、区別することが多い。この場合、野焼きを行う穴を「焼成坑」と呼ぶ。また、古墳時代より製作が始まった日本の須恵器のように窯で焼成したものであっても胎土として使用された本来の粘土の性質が露出しているために、陶器とみなしえないものも土器に含まれる。この場合、須恵器は陶質土器として位置づけられている(朝鮮半島でも陶質土器の表現を用いる)。土器の器壁の内部には、気孔が多く残っているため、透水性が著しく、陶磁器と比べて比重が軽く、胎土の密度が小さい。したがって、脆くて壊れやすい。中国江西省の洞窟遺跡で世界最古と思われる2万年前の土器が見つかっており、北海道の大正遺跡群の調査によって土器が最初に料理に使われたのは1万4000年前であるとされている。土器の出現はオーストラリアの考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドによれば「人類が物質の化学的変化を利用した最初のできごと」であり、物理的に石材を打ちかいてつくった石器とはまた異なる人類史的意義を有している。ことに日本にあっては、それが煮炊きのために用いられたところから小動物の狩猟に依存していた生活や自然の恵み(植物の実・根、貝・鳥獣・魚)に依存する食料採集生活ではあまり土器が使われなかった。彼らの中で比較的定住する傾向を持つ集団が土器を使った。土器を使用することによって加熱によるアク抜きや煮沸、煮炊きが可能となった。(日本では)ドングリ・クリなどの堅果(木の実)、貝類を含めた魚介類、山菜、根菜など多種多様な動植物が食糧として活用される契機となって定住化がすすみ、各地で竪穴住居より構成される縄文集落が形成された。生業として採集や漁労が採り入れられ、沿岸部では、土器を用いた塩づくりも広くおこなわれて広汎な交易がおこなわれるようになった。土器は現在でも世界各地で実用民具や土産物として製造されている。日本でも素焼き鉢やテラコッタなど、園芸用品として利用されている。土器は、メソポタミア、インダス、黄河、ギリシャなどの各文明でみられる彩文土器のように、彩色される場合もあるが、この場合、彩色具は、あくまでも表面を彩色するのみであり、釉薬(うわぐすり、またはゆうやく)のように胎土を覆ったり、透水性を変化させたりなどの物理的、化学的な変化を器本体にもたらさないことを前提としている。ただし、その区別は微妙であり、メソアメリカで後古典期にみられる光沢のある釉薬がかかったような焼成のよい器であるPlumbate Wareを鉛釉土器と呼ぶ場合などもある。土器に残された痕跡を観察することによって、その製法を復原することができる。縄文土器や弥生土器においては、土器が輪積みによって作られていることは、土器面に残された輪積みの痕跡や粘土紐の合わせ目に沿って割れた破片の断面などによって確認することができる。それに対し、須恵器や陶質土器はロクロを用いて作られたことが、ロクロ台からの切り離し痕跡(糸を使う場合とヘラを使う場合がある)や土器面の指頭痕などによって確かめられる。一般に、土器はという工程を経てつくられる。破損したときの接着剤として、漆やアスファルトその他が用いられる場合がある。アスファルトは、日本の縄文時代においては、秋田県沿岸部の油田地帯産のものが北海道南部から東北地方にかけて広く交易されていることが確認されている。ケイ酸塩(主にカオリナイト、つまりアルミニウムのケイ酸塩)を加熱すれば不可逆的に水酸基が還元されて水分が奪われて立体構造が変化する。 また石英を573℃まで加熱すると結晶構造が変化することで、体積が膨張し冷却によって収縮する性質を持っている。 土器とは加熱によって、強度を増すことを目的とした、主に上記二つの物理化学的変化を応用した焼結物である。 乾燥させた粘土を加熱すると、残った水分が蒸発した後、カオリナイトが還元され、573℃で石英の結晶が変形して全体が膨張する。更にカオリナイト以外のケイ酸塩の還元が進んだ後、冷却することで石英の収縮によって全体がしまって、強度が高められて、焼結が完了する。 土器は石英のガラス化が始まる前に冷却してしまうので、空気や水分の抜け穴や微細な隙間が数多く残った、比較的多穴質な素材と言える。 土鍋や湯のみの使いはじめにおかゆを煮たり、入れたりするのは、水漏れ防止のために、これらの穴やすきまを澱粉の粒子でふさぐ作業に相当する。北京大学、米国などの研究チームが世界最古(約2万年前)の土器片を発見したと発表。場所は中国・江西省の洞窟で、調理に使用されていたと見ている。日用品として使用される土器は、時期によって、用途や成形技法、形状が変化するため、型式学的研究がなされ、時間を計る物差しとして考古学上の編年の指標や研究の対象とされる。日本において、層位学的研究を用いて、ひとつひとつの地層から出土した土器の編年研究を、ねばり強く進めたのが、山内清男、八幡一郎、甲野勇らであった。それは1920年頃からはじまり、1935年頃には縄文土器の編年の見通しが立てられ、1937年、山内清男による全国的規模の「山内編年表」が発表された。大木10式(中期)、加曽利B式(後期)、田戸下層式(早期)などの型式名は、発掘調査をおこなった遺跡から出土した土器に、その遺跡の地名をとって名づけた。たとえば、大木10式土器とは、宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚から出土した土器を古いものから順に数字を付したものである。大規模な遺跡では、広い調査区にいくつかの種類の遺物や遺構が混在するため、調査地点を細分する必要がある。加曽利B式土器とは、千葉市の加曽利貝塚B地点出土の土器を標準として名づけたものである。田戸下層式土器は横須賀市の田戸遺跡の層位が命名の由来となっている。このように、土器型式名は層位学的研究を土台としており、型式命名のもととなった遺跡を標式遺跡と呼んでいる。この手法は、弥生土器、土師器、須恵器の分野における土器研究でも応用された。また、土器は胎土中の岩石や鉱物の組成と出土周辺地域の地質を比較すること(胎土分析)によって、在地的な土器であるか外部から搬入されたものであるか産地を推定すること(産地同定)がある程度可能であり、土器製作集団の活動や移動を示す大きな指標にもなっている。胎土分析、産地同定ともにデータの増加にともない、精度は近年、格段に向上している。土器の年代は、今ではおおむね炭素14年代測定法が受け入れられている。世界各地(日本や東北アジア以外)では土器は当初より貯蔵用土器が古く、多くの場合、農耕(農業)のはじまりと結び付けられて理解されている。時代によって生業や生活様式が異なることから、単純に形態から用途を類推することはできない。縄文土器は、当初煮炊きの道具として生まれたことが土器の表面にこびりついた煤状炭化物や吹きこぼれの痕跡によって確かめることができるが、その多くは深鉢の形状をなしており、これら深鉢形土器は縄文時代を通じて貯蔵、場合によっては子ども用の墓(土器棺)など多用途に用いられた。それに対し、稲作農耕が本格化して、米粒食が普及すると甑(こしき)、鍋、甕などが炊飯や煮炊き具として普及し、供献用ないし食器として椀が登場する。ただし、甕形の土器は縄文時代よりすでに液体などの貯蔵用として用いられており、弥生時代には棺としても用いられており、ここでもやはり形態と用途との対応は一義的ではない。用途に関しては、煮沸用土器、貯蔵用土器、供献用土器に大別されることが多い。日本列島においては、縄文時代より海水を煮詰めて塩をつくる製塩土器があるが、これは煮沸用土器にあたる。塩はさかんに内陸部に運ばれたであろうと思われる。煮沸用土器があることで、生水ではなく煮沸した水を飲料に供給できたことは、中毒症の罹患や感染症の蔓延を防ぎ、人びとの定住化をおおいに促進させたものと考えられる。歴史的には、原始的な陶磁器が土器である。日本では縄文式土器や弥生式土器が有名で、弥生式土器の系統は古墳時代以降土師器に受け継がれる。大陸より製法のもたらされた須恵器が支配者階級に好まれたのに対し、土師器はより一般的な容器として広く用いられたが、のちに独特の意義を認められ、中世ではかわらけとして酒杯として用いられた。現代でも一部の神社などの祭祀で御神酒をいただく際の使い捨ての酒杯として残っている。
出典:wikipedia
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