足利競馬場(あしかがけいばじょう)は、栃木県足利市にあった地方競馬の競馬場。足利競馬場は、1930年に開設された旧足利競馬場(足利市岩井町周辺、現在は渡良瀬川の河川敷内)が水害被害を受けたのを機に、1969年に足利市西部の五十部町に移転した。開催終了時点で競馬開催の主催を行っていたのは足利市で、関東地方では当時唯一の市営開催のみの競馬場であった。なお、かつては栃木県営競馬も開催されていたこともある。また、昭和末期には当時の北関東を代表するトップジョッキーであった福田三郎の本拠地としても知られていた。しかし、福田は全盛期の1991年に調教中の落馬事故で下半身付随となり引退(後、2011年3月死去)、足利競馬もこの年をピークに売上を落としていった。末期の数年間は「北関東ホット競馬」と題し、宇都宮競馬場、高崎競馬場と会場の開催日程を調整して行っていたが、市営競馬の慢性的な赤字の他、ダートグレード競走が全国的な展開になってゆく状況になるも、所属する競走馬の全体的なレベル及び経営状態からはそれに本格的に参画していくことも到底不可能な状況であった。かくて、売上低下の回復の目処も立たず、同時に繊維産業などの地場産業の低迷や地域のメーンバンクであった足利銀行の経営不振の余波などもあって地元経済が低迷の一途を辿り続けた影響は重く、足利市自体の財政面が切迫した状況になってきたこと、やはり地元経済低迷による馬主の減少なども一因となって預託馬不足の状況にも悩まされる状況になったことなど、地域経済もまた競馬場を到底支えられない状態となり、競馬の開催の継続がいよいよ困難になったことから、2003年3月の開催をもって競馬の開催をひとまず廃止し、宇都宮競馬場の場外発売会場として利用されていた。しかし、足利競馬場における一日平均の売得金は、地方競馬開始時からほぼ一貫して他の北関東競馬場よりも多額であった。ただ、後年、足利市の単独開催である故か、開催回数が他の競馬場に比して少なく、末期は年間に8開催しかなかった。市場的優位性が、開催規模の制約のため、経営に活かされなかったきらいがあったと言えよう。2005年3月に宇都宮競馬場が廃止されるまでのしばらくの間、足利競馬場の厩舎は宇都宮競馬場に移管され、コースを使用した調教も行われていた。なお、国内全ての競馬場の中で、最後(1998年3月)までシングルユニット式投票券が使用されていた(公営競技全体で見ると、その後も門司競輪場などで使用されていた)。払戻金の計算もこの時まで完全手動式であり、払い戻しごとに従業員がそろばんや電卓を使い手動で計算し、払い戻しを行っていた。コースは1周1100mであり直線距離は237m、フルゲートは10頭。レース施行距離は800m、1300m、1400m、1700m、1800m、1900m。極端なスパイラルカーブとなっており、1・3コーナーは非常に緩かった。コースとスタンドの間が非常に狭く、僅か数メートルしかなかったことや、コースとパドックが隣接していたことも特徴。○…発売 ×…発売なし廃止後は3連複・3連単が追加され、枠単は廃止された。同競馬場で活躍した、メルセデス・ベンツのトラック「ウニモグ」は当初廃車する予定だったが、競売に出され、101万円の高値で落札された。足利競馬場廃止以降は栃木県営宇都宮競馬場や南関東公営競馬の場外発売場として運営されていたが、2005年3月の宇都宮競馬場廃止とともにその場外発売場・トレセンとしての利用も廃止され、馬券も含めて栃木県から競馬の蹄音が絶たれることとなった。観客席(スタンド)は2006年に解体され、跡地の整備が進んだ結果、2009年現在では跡地の一部に五十部運動公園が整備されている。また旧本馬場の西半分は足利赤十字病院が移転し、2011年7月に開院した。東半分は日本医療薬科大学(仮称)が設置される計画であったが、これは2006年8月頃に頓挫し、現在は「高等教育機関誘致計画中」の状態になっている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。