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山岡久乃

山岡 久乃(やまおか ひさの、1926年(大正15年)8月27日 - 1999年(平成11年)2月15日)は、日本の女優。東京府東京市大森区馬込(現東京都大田区)生まれ。身長162cm、体重49kg。趣味は乗馬、手芸。特技はスキー。「日本を代表するお母さん女優」と称され、TBSホームドラマで不動の地位を築いた。過去の出演作品については、権利継承者である養女から、オフィス天童に委任されている。1942年、33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。男役志望で、清澄あきらの芸名も予定していたが、第二次世界大戦勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、一度も舞台に立つことなく1944年に音楽学校を中途退学。終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし、1946年に俳優座入団、同年の『文化議員』で初舞台を踏む。初出演映画は1953年の『やっさもっさ』である。1954年には、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子、初井言栄らとともに劇団青年座を結成。その後、日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、青年座創生期は屋台骨として、劇団を支える。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍。1956年、同じ青年座創立メンバーだった俳優・森塚敏と結婚するも、1971年に離婚。離婚と同年、青年座を退団。その後は終世独身を通した。 テレビドラマ初出演は、1953年、NHK『竜舌蘭の誓い』とされる。本名・山岡比佐乃での主演作であった。以後、脇役を中心に、多くのテレビドラマに出演する傍ら、契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演した。1966年には、主演映画『こころの山脈』も公開され、女優としてステップアップしていった。そして、1970年の『ありがとう』で役者としての人気を決定付けた(娘役は水前寺清子と共演)。ドラマは水前寺とのコンビで視聴率50%を突破し、怪物ドラマと呼ばれた。この作品を契機に森光子や京塚昌子らとともに、白い割烹着が似合うような「日本を代表するお母さん女優」として地位を確立。以後、多くのホームドラマで母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として慕われた(特にTBS系列の作品で演じる役柄は人気が高く、代表作といえるものも多い)。面倒見のよさ、事務所の掃除員やスタッフへ手料理を振舞うなど気前も良く、「お母さん」と慕われていた。森繁久彌とのコンビによる作品も多く製作され、左とん平からは「(芸能界の大御所である)森繁先生を叱れるのは山岡さんしかいなかった」とコメントされている。どちらかといえば「準主役級の脇役」としての印象が強いが、1970年代は主演が多かった。プライベートでも親交が深かった杉村春子・奈良岡朋子・八千草薫・池内淳子らとは共演が多かった。石井ふく子プロデュース作品に起用される機会が多く、「石井ファミリー(石井組)」の一員と見なさせていた(同時に石井と盟友である橋田壽賀子脚本作品にも登場しており、「橋田ファミリー」にも数えられていた)。「ミス・マープル」シリーズの吹き替えも好評で、山岡が新劇出身であることを改めて印象付けた。1998年10月1日、晩年の代表作とも言える1990年から続いてきたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』シリーズの主役・岡倉節子役を降板。番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、世間で数々の憶測を呼んだ。TBSは山岡の降板にあたり、異例の「山岡降板説明記者会見」をマスコミに対して開いている。第3シリーズ終了後、次シリーズへの出演拒否の意思を貫く山岡に対し、橋田や石井は何度も出演要請をするが、山岡の意思は変わらなかった。これに対し橋田はTBSに「山岡さんなしではドラマが成り立たないので、もうこのドラマはやめましょう」と打ち切りの方針を伝えたが、TBSは納得せず、節子を死亡した設定にして脚本も作り変え、製作することとなった。TBSは先述の会見で「ああいう(急死の)形にしたことは山岡さんにも了解してもらっています」と説明した。これに伴い、小島五月役の泉ピン子が主役に昇格した。理由のはっきりしない山岡の突然の降板は、民放各局のワイドショーや週刊誌などを中心に、世間を騒がすことになった(実際の降板理由は下記の通りで山岡の既定路線だったのだが、これに触れたメディアはない)。(山岡の)認知症発症説や山岡と橋田の確執説、山岡の橋田への報復説なども噂されることとなった。また、当時メディア出演が多くあった橋田が「山岡さんは私のことがよっぽどお嫌いなんでしょうね」などと山岡への不用意な発言を度々行ったことも騒動に火に油を注いだ。第4シリーズ放送開始後、山岡は胆管癌であることを公表。癌公表前の第3シリーズ出演中の時点で次シリーズの出演意思はなかった。実際の降板理由は、「パート3撮影時に発覚した石井の脱税騒動で自分の名前が脱税のために勝手に利用されていたことによる石井への不信感と、(肝菅癌発症前に)総胆管結石および肝機能障害のため体調を崩し、自身の年齢も考えて、今後は自分の好きな仕事だけをしていくと決めたためだった」と山岡の死去後に週刊誌に報じられた。また、これと時を同じくして、東京にあった住まいを引き払い、愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、引っ越しの準備もパート3が放送された時期には既に始めていたという(その際、財産整理という意味合いから姪と養子縁組を結んでいる)。藤岡琢也のみ今シリーズ限りで降りると話していたという。1998年12月、自らが胆管癌を患っていることを告白。同月15日に所属事務所を通じて、山岡は「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください」というコメントを発表した。この発表を聞いた橋田はそれまでの自分の発言を悔い、神社へお百度参りし、山岡の回復を祈ったという。しかし、上記のコメント発表から僅か2ヶ月後の1999年2月15日、胆管癌による心不全のため、親族や池内、長山、石井らに看取られ神奈川県川崎市の病院で死去。亡くなる前年の1998年1月6日に放送された、日本テレビ開局45周年記念ドラマ「嫁とり婿とり大騒動」への出演が山岡にとっての遺作となった(DVD等は発売されていない)。。同年7月8月に芸術座で予定されていた単独座長公演『月の光』の舞台を踏まぬままだった。山岡の代役は、親友の池内が務めた(池内は『月の光』による演技により菊田一夫演劇大賞等を受賞)。なお、山岡の死去は、各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショーなどでも大きく報道された。一部スポーツ紙では、一面トップ記事扱いにもなった。築地本願寺で行われた通夜・葬儀には、「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほど多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参列者も多く訪れた。喪主は養女が務め、通夜・葬儀の演出は石井ふく子が担当し、弔辞は森光子と長山が読んだ。棺の葬儀場入りの際は、棺を乗せた車が1時間をかけて明治座、帝国劇場、芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。戒名は「華徳院妙伎日久大姉」。遺体は渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。同年2月19日にTBSが放送した追悼番組は、18.6%の視聴率を獲得した。晩年は八千草薫、黒柳徹子、池内淳子、永六輔、夏木陽介らその他の仲の良い芸能人と皆で一緒に有料老人介護施設へ入居して隠居生活をしようと約束をしていたそうで、「そこで皆で仲良くのんびり過ごしたいわね」という話があったと語っている。宝塚歌劇団の先輩でもあった乙羽信子とは昔からドラマなどで共演が多く仲が良かったという。演劇評論家の藤田洋は山岡の演技力と存在感を認め、「“お母さん女優”として、温かさと厳しさを併せ持った母親役をうまく演じてきた」と評した。

出典:wikipedia

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