山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1827年1月21日) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。土佐藩連枝の山内南家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室・平石氏。正室は烏丸光政の娘・正子(三条実万の養女)。子は山内豊尹(長男)、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室)。幼名は輝衛。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。文政10年(1827年)生まれ。豊信生家である山内南家は石高1,500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。13代藩主・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が相次いで急死した。豊惇は藩主在職僅か12日という短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがわずか3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる島津家などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主に就任した。候姫の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任がその後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる。藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。翌、安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし3年後の安政4年(1857年)東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用した。豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であり、単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く短期間で崩壊した。東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い欠席を続ける。結局この会議は短期間で崩壊。しかし、同5月21日には、薩摩藩士の小松帯刀の京都邸において、中岡慎太郎の仲介により土佐藩の乾退助、谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実らが武力討幕を議して、薩土密約を締結し、翌22日に乾退助によって密約の内容が容堂に報告され、大坂でアルミニー銃300挺の購入を許可している。容堂は乾退助を伴って、6月初旬に土佐に帰国した。しかるに、容堂や乾退助と入れ違いに上洛した、坂本龍馬、後藤象二郎らによって薩土密約から約一ケ月後にあたる、6月22日、京都の小松帯刀邸にて、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が議して、武力討幕ではなく大政奉還による王政復古を目標に掲げ薩土盟約を締結した。しかし、薩土盟約は約2ケ月半で早々に瓦解し、乾退助と西郷隆盛が結んだ薩土密約が次第に重視せられ、土佐藩全体が徐々に討幕路線に近付いていくことになる。容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案および「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言した。容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白した。これにより慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は朝廷に政権を返還した。しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加した。容堂は、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、大政奉還の功労者である徳川慶喜がこの会議に呼ばれていないのは不当であるなどと主張した。また、岩倉、大久保が徳川慶喜に対して辞官納地を決定したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかなどと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で決定したことに対して、徳川氏を中心とする列侯会議の政府を要求した。松平春嶽が同調したが、ただでさえ気に入らないことがあると大声で喚き散らす悪癖があり、その上に酒乱状態の容堂は「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し、権威をほしいままにしようとしている」などと発言してしまった。堪りかねた岩倉から「今日の挙は、すべて宸断(天皇の決断)によって行なわれたものであるぞ」「大失言であるぞ」「天子を捉まえて幼沖とは何事か」「土州、土州、返答せよ」と容堂は面前で大叱責されてしまった が、泥酔状態の容堂にまともな返答ができるはずもなく、会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派すなわち討幕強行派のペースで進んだ 。慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、在京の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加。同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを谷干城から報告を受けた土佐に在国中の板垣退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した。容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する板垣率いる土佐迅衝隊に寒いので自愛するよう言葉を与えた。明治維新後は内国事務総裁に就任したが、かつて家臣や領民であったような身分の者と馴染む事ができず、明治2年(1869年)に辞職。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては明治政府の将来などについて語り合ったという。本邸は新たに東京箱崎の元田安徳川家別邸を買収して居住した。隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った。また、連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという。また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいう。明治5年(1872年)、積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳(数え年)の生涯を閉じた。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井4丁目)にある。※日付=旧暦
出典:wikipedia
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