井上 成美(いのうえ しげよし/せいび、1889年(明治22年)12月9日 - 1975年(昭和50年)12月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。海軍大将となった最後の軍人。1889年(明治22年)12月9日、宮城県仙台市でブドウ園を経営する旧幕臣・井上嘉矩の十一男として生まれる。「成美」という名は「論語」顔淵篇の一節 「子曰く、君子は人の美を成す、人の悪を成さず、小人はこれに反す」に由来し、父からそんな人間になるようにと何度も教えられた成美はこの名を誇りとした。1902年(明治35年)3月31日、宮城県尋常師範学校附属小学校高等科2年修了。4月1日、宮城県立第一中学校の分校に入学し、分校の廃校に伴い1905年(明治38年)に宮城県立第二中学校に移動。中学4年終了時の成績は「60人中1番、優科:数学、劣科:漢文、運動:不定、嗜好:音楽と細工」とある。第二中学校の同級生の回想では「井上君は恐ろしく頭が良く、数学と英語が得意だった」という。1906年(明治39年)10月31日、海軍兵学校合格に伴い中学を5年生で中退し、11月24日に海軍兵学校第37期に成績順位181名中9番で入学。入校時の成績で決まる分隊の所属は第9分隊で、同分隊三号生徒15名中では先任者であった。当時を井上は「訓練は厳しかったが、(略)国家が自分たち兵学校生徒を大事にしてくれる、と感じたし、自尊心も生まれてきて、(略)自分の選んだ道は自分に合っていたな、という気持になった」と回想している。兵学校の三号生徒(一学年、井上在校時の兵学校の在校期間は3年)であった井上は、「英語の成績の悪い生徒」として教官から名指しされた。井上は、英語が抜群と評価されていた同期生に英語の勉強方法を尋ね「英語の小説、"Adventures of Sherlock Holmes" でも原書でどんどん読め」と助言され、同書を手に入れて読んでみたものの歯が立たなかった。兵学校入校時に181名中9番の好成績だった井上は、二号生徒(二学年)に進級する時は16番に席次が下がった。しかし、二号生徒になるまでには英語力を高め、二号生徒の一学期には首席となった。1909年(明治42年)11月19日、海軍兵学校を成績順位179名中2番で卒業し、少尉候補生となる。卒業に際し、恩賜の双眼鏡を拝受。2等巡洋艦「宗谷」乗組、第一期実習が始まり、練習艦隊近海航海出発し、12月29日帰着。1910年(明治43年)2月1日、練習艦隊遠洋航海出発し、7月3日帰着。第二期演習が始まると、戦艦「三笠」、装甲巡洋艦「春日」乗組を経て、12月15日に 海軍少尉任官。兵37期の最先任者(クラスヘッド)となる。1911年(明治44年)1月18日巡洋戦艦「鞍馬」乗組。鞍馬は同年4月から11月まで英国のジョージ5世戴冠記念観艦式に遣英艦隊の旗艦として参加する。1912年(明治45年)4月24日、海軍砲術学校普通科学生となり、山本五十六から兵器学を教わった。8月9日、海軍水雷学校普通科学生となり、在校中の12月1日に海軍中尉進級。1913年(大正2年)2月10日二等海防艦「高千穂」乗組。9月26日巡洋戦艦「比叡」乗組。1914年(大正2年)8月23日第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告。「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1か月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。1915年(大正4年)7月19日、第17駆逐隊附。駆逐艦「桜」乗組。井上の、最初で最後の駆逐艦勤務となった。12月13日、海軍大尉となり、戦艦「扶桑」分隊長。1916年(大正5年)12月1日海軍大学校乙種学生。1917年(大正6年)5月1日、海軍大学校専修学生となり、12月1日に卒業し、航海科を専門とする兵科将校となった。砲艦「淀」航海長。1917年(大正6年)1月19日、27歳で原喜久代(20歳)と結婚(喜久代の係累については「親類関係」を参照)。義姉・たま(兄・井上秀二の妻)の妹婿・大平善一の親友・阿部信行の義妹が喜久子という縁であった。第一次世界大戦において第一特務艦隊に属し、インド洋方面での通商保護に従事。1918年(大正7年)5月、呉に帰投し、同年7月に「淀」は日本が占領したドイツ領南洋群島を巡航して新占領地の整備に従事し、約5か月後に小笠原諸島・父島に帰投。1918年(大正7年)12月1日、スイス駐在武官を拝命。1919年(大正8年)2月8日に長女の靚子が誕生した。靚子の誕生を見届けた井上は2月10日に神戸港を出発し、4月にスイスに着任した。毎日1時間、ドイツ人教師についてドイツ語の個人教授を受けて習得に励み、スイス到着の2か月後に「独語の日常会話は支障ない程度に達した」旨を海軍次官に報告した。しかし、スイス人のドイツ語には訛りがあり、習得の妨げとなるため、井上は早期にドイツに移ることを望んだ。1920年(大正9年)7月1日、平和条約実施委員となり、ベルリンで英仏伊の委員たちとドイツ軍武装解除に従事。井上のドイツ語は、ドイツ当局者との折衝時に通訳を要さず、イギリス将校のために通訳をするレベルに達していた。在欧中にフランス語も習得したいという井上の希望が通り、「平和条約実施委員」を免ぜられ、1921年(大正10年)9月1日よりフランス駐在となり、パリでフランス語修得に従事し、フランス人教師の個人教授を毎日1時間受けた。井上のフランス駐在は僅か3か月だったが、日本への帰国後、海軍次官代理に「仏語は、読み・書き・会話、いずれも支障ないレベルに達した」旨を報告している。井上は「海軍生活において、独語は日独伊三国軍事同盟に役に立った程度だが、仏語は、後々の勤務において外国人との付合いに使う機会が多く大変役に立った」と回想する。12月1日、海軍少佐となる。大西洋を渡り米国経由で2月に帰国した。生涯で唯一のアメリカ訪問だった。1922年(大正11年)3月1日、軽巡洋艦「球磨」航海長兼分隊長。主にシベリア出兵に伴う警備行動に従事。12月1日、海軍大学校甲種第22期入校。大尉時代に欧州に3年間駐在し、甲種学生を受験できなかった井上は、従来の規則では受験資格を失う所だったが、規則改正により受験できた。井上は同僚から「甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって言う評判だよ」と冷やかされたという。井上の甲種学生選考試験での筆記試験成績は60番で、本来なら落第だったが、海外勤務が長かったことを考慮して特例で口頭試験の受験を許され、口頭試験では1番で合格した。1924年(大正13年)12月1日、海軍大学校甲種学生卒業、海軍省軍務局第一課B局員。井上は海軍書記官・榎本重治と親友となった1925年(大正14年)、榎本重治海軍書記官に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった。それから二十数年が経った戦後のある日、横須賀市長井の井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った。1925年(大正14年)12月1日、中佐に進級。1927年(昭和2年)10月1日、海軍軍令部出仕。11月1日、在イタリア日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官。横浜港から渡欧。ローマに着任した井上は、イタリア人やイタリア軍についてネガティブな経験を重ねた。これは、井上が軍務局長時代に日独伊三国同盟に反対する理由の一つとなった。1929年(昭和4年)11月30日、海軍大佐となり12月に帰国した。帰国した井上は、妻・喜久代の肺結核が悪化して看護が必要であるため、海軍人事当局に陸上勤務を願い出て、1930年(昭和5年)1月10日、海軍大学校教官に補された。井上は人事当局の配慮に感謝し、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代の療養を優先した。井上は海大教官として甲種学生への戦略教育を担当した。井上の戦略教育は理詰めであり「戦訓を基礎としない兵術論は卓上の空論に過ぎない」「精神力や術力(技量)を加味しない純数学的な(戦略)講義をすることは、士気に悪影響を及ぼす」という批判も受けた。1932年(昭和7年)10月1日、軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局第一課勤務。海軍省軍務局長・寺島健の指名により、11月1日に海軍省軍務局第一課長に補された。海軍省軍務局は海軍軍政の要であり、井上が補された一課長は、局の筆頭課長であった。同日に妻の喜久代が肺結核で死去した(37歳没)。井上は、五・一五事件における海軍青年士官を中心とする首謀者たちが世論から英雄視されている風潮に、危機感を覚えた。井上は、この事件に刺激された陸軍の青年将校たちが「海軍に先を越された」と考え、必ず事を起こすに違いないと予想していた。井上は海軍省を「海軍の兵力」で守る準備を始めた。海軍省の構内にある東京海軍無線電信所が「官衙」ではなく「部隊」であり武装できることに気づき、小銃20挺を配備した。所長が、井上と同期の武田哲郎であったのが幸いした。さらに「軍事普及並びに宣伝用」という名目で戦車一台を海軍省内に常駐させた。1933年(昭和8年)3月、軍令部が「軍令部条例並に省部事務互渉規定改定案」を提起した際、軍令部の試案を通読した井上は、この件を自ら処理することとした。海軍省を代表する井上に対する、軍令部側の代表は、軍令部第二課長の南雲忠一大佐であり、南雲は井上を何度も「殺すぞ」と脅迫した。井上は、表書は「井上成美遺書 / 本人死亡せばクラス会幹事開封ありたし」、本文は「どこにも借金はなし。娘は高女(高等女学校)だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしめたし」という遺書を執務机に入れていた。改定案(決裁権限者海軍大臣)は主務課長の井上が決裁しないため成立せず、8月に入ると軍令部は自身で改定最終案を作り、海軍大臣・大角岑生大将に突きつけ、軍令部長・伏見宮博恭王は大角に辞職をちらつかせた。大角は伏見宮の圧力に屈し、海相以下の海軍省首脳部が改定案に同意した。9月16日朝、寺島健が井上を軍務局長室に呼び、井上に改定案へ同意するよう言ったが、井上は拒否しさらに「事態を紛糾させた責任をとって辞職する」旨返答し、軍服を背広に着替えて鎌倉の家に帰った。海軍次官・藤田尚徳中将の使者がその晩に井上宅を訪問して翻意を促したが、井上は拒否した。海軍大臣秘書官・矢牧章少佐は、週明けの9月18日に、第二種軍装の胸に勲章を吊った井上が海軍大臣室から出て来たため、井上が大角に進退を伺い、予備役編入を願い出たと解釈した。矢牧が入れ替わりに大臣室に入ると、大角は「そうまで思いつめんでええと言うんだが、井上が諾(き)かんのだ。何遍言っても諾かんのだ。困ったな、困ったな」と赤い顔をして言ったという。軍令部条例と省部事務互渉規定が大角の決裁により改正され、昭和天皇は裁可する際に「一つ運用を誤れば、政府の所管である予算や人事に、軍令部が過度に介入する懸念がある。海軍大臣としてそれを回避する所信はどうか」と問うた。これは正に井上が危惧し、反対した所だった。9月20日、横須賀鎮守府付となる。予備役編入を前提とするような辞令だったが、伏見宮が「井上くんによいポストをやってくれ」と口添えしたため、井上は予備役編入されず、11月15日付で練習戦艦「比叡」艦長に補された。井上は、「比叡」の若手士官が、国粋思想の影響を受けた会合に出席するのを禁じた。その上で「軍人勅諭」を平易に説いた冊子「勅諭衍義」を「比叡」乗組の士官全員に配布した。この「勅諭衍義」は後に井上が兵学校長に着任した際にも、教官兼幹事に参考資料として配布された。その際に井上が自らつけた説明文に「本稿記述の当時(昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代[之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり]なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」とある。井上は「比叡」の若手士官たちに「軍人が平素でも刀剣を帯びることを許されているのは、国を守るという極めて国家的な職分を担っているからである。統帥権の発動もないのに勝手に人を殺せということではない」と繰り返し諭した。1934年(昭和9年)、三浦半島の西側、横須賀市の反対側の長井町の相模湾が一望できる海岸に面した崖縁に井上の家が完成した。「比叡」はロンドン海軍軍縮条約により練習戦艦となっており、横須賀鎮守府所属の警備艦で、横須賀軍港に在泊していた。「比叡」艦内に起居する井上は、毎週末には長井の新宅に戻った。一人娘の靚子は、東京・西大久保の親戚の阿部信行陸軍大将宅に寄宿して、東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)に通っていたが、週末には長井の井上宅に戻ってきて、父娘二人で水入らずの生活を楽しんだ。夏休みには、靚子が女学校の友達を連れてくることもあった。1935年(昭和10年)4月1日、井上は大連港の桟橋に「計算尺が操艦しているようなやり方で」ぴったり接舷させて、大連港港務部長に「戦艦が本港に横付けしたのは初めてです」と操艦の腕を賞賛された。当時、戦艦のような大型艦船は入港しても沖合いに錨泊するのが普通だった。井上は、翌朝まで帰艦しない予定で上陸した。従兵長の下士官が、その隙に艦長室のベッドで熟睡してしまった。予定を切り上げて帰艦した井上がこれを見つけたが、誰にも言わなかった。懲罰を受けずに済んだ従兵長は井上の恩情を長く徳とした。また、井上は「比叡」飛行長今川福雄大尉の操縦する94式水偵にしばしば同乗した。飛行科出身でない艦長が、搭載機に同乗するのは異例であった。井上と親しく接した今川は、井上の人格に惚れ込み、井上の了解を得て、井上の名前「成美」にあやかって息子を成雄(しげお)、娘を美子(よしこ)と名付け、戦後も度々井上宅を訪ねた。井上によると、大尉の時に航海長を務めた「淀 (通報艦)」(常備排水量1,450トン)のような小さなフネなら酔わないのに、フネが大きくなるほど酔いやすかった。戦艦「比叡」艦長の時には、戦艦の艦長たる者が航海中に船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。1935年(昭和10年)8月1日、再び横須賀鎮守府付となる。少将進級直前である6年目の大佐が現職を離れるのは異例だった。11月15日、海軍少将に進級(慣例通りクラスヘッドとして同期で最初の少将)し、、横須賀鎮守府参謀長となる。12月1日、米内光政が横須賀鎮守府司令長官に着任した。この頃に井上は米内の信頼を得て以降、米内の下で活躍することになる。海軍省が所在する東京府を管轄し、麾下に実戦部隊を有している横須賀鎮守府(以下、横鎮)の参謀長となり、海軍省を『海軍の兵力』で守る」対策を十分に準備できる立場となった井上は、長官・米内の承認を得て、いざという時、即座に、十分な「海軍の兵力」を東京の海軍省に差し向けられるように、下記のように準備した。これらの真の目的を知るのは、米内・井上・先任参謀の横鎮トップ3名のみだった。井上は横鎮に着任すると、庁舎内に記者控室を作ってそこに参考図書を備えるなど、新聞記者に便宜を図った。1936年(昭和11年)2月20日頃、出入りの新聞記者から、東京の警視庁の前で陸軍が夜間演習を行ったという情報が井上に入る。井上は警戒態勢に入り、2月26日早朝、官舎で就寝中の井上に副官から電話が入った。「新聞記者から、本日早朝に陸軍が反乱を起こしたという情報が入った」という二・二六事件勃発の知らせだった。井上は、幕僚全員を鎮守府に非常召集するよう命じて、自分も直ちに登庁した。井上が、横鎮に着くと、既に幕僚たちは全員揃っていた。副官から詳細な情報を聴いた上で、かねて用意の手を打った。井上の事前準備が功を奏し、全ての措置は混乱なく実施された。。午前9時近く、長官官舎の米内から「俺も出て行った方がいいか」と電話がかかってきた。井上は「当面の手は全て打ちましたが、やはり長官が鎮守府においでの方がよろしいでしょう」と返答した。登庁した米内は、井上に、陸軍反乱部隊が宮城を占領したらどうすべきか問うた。井上は「もしそうなったら、どんなことがあっても陛下を「比叡」(横鎮所属)においで願いましょう。その後、日本国中に号令をかけなさい。陸軍がどんなことを言っても、海軍兵力で陛下をお守りするのだと。とにかく(陛下に)軍艦に乗って頂ければ、もうしめたものだ」と即答した。特別陸戦隊一個大隊を乗せた「木曽」の出港寸前に、軍令部から「待った」がかかった。警備派兵には手続が要り、横鎮長官が麾下の警備艦に管区内を行動させるのにも、軍令部総長が天皇の命令を伝達する形式を踏まねばならないという内容だった。軍令部は「横須賀鎮守府特別陸戦隊(曩<さき>に派遣のものを合せ四(個)大隊を基幹とす)を東京に派遣し海軍関係諸官庁の自衛警戒に任じしめらる」という命令を出した。この時点で横鎮が用意していた特別陸戦隊は一個大隊だったので、三個大隊を追加編成する必要が生じた。そのため、佐藤正四郎大佐が指揮する横鎮特別陸戦隊4個大隊は、その日の午後遅くにようやく東京・霞か関の海軍省(2012年現在の農林水産省本庁舎の場所)に到着した。井上にとっては不本意であったが、結果として特別陸戦隊4個大隊(2,000余名)を編成・派遣したことで、陸軍反乱部隊(歩兵のみで1,500名程度)と同規模の陸戦兵力を海軍省に配備することができた。戦後、井上は、二・二六事件当時の軍法によると、横鎮の所管区域である「神奈川県・東京府の海岸海面」上で、横鎮麾下の警備艦を行動させるのは、横鎮長官の権限で実施できた。ただし、海軍省警備のために陸戦隊を芝浦に上陸させるのは、「陸上」は横鎮の所管区域ではないため、横鎮長官の権限を越えたかもしれない。これは、横鎮長官の有する「警備」権限の解釈、すなわち『鎮守府令』第2条「鎮守府は所管海軍区の警備に関することを掌り」の解釈の問題である。結果としては軍令部の干渉に屈してしまったが、「木曽」を芝浦に回航するのは、軍令部が何を言おうが、横鎮長官の権限で出来たのだから、直ちにやるべきだった、と悔やんでいる。井上が、海軍省軍務局一課長時代に、生命と職を賭して反対した「省部事務互渉規程の改訂」により、改訂前は海軍大臣の管轄だった「国内警備艦戦部隊の派遣」に干渉できるようになっていた軍令部が、横鎮の素早い動きに待ったをかけたのは、井上の軍務局一課長時代の危惧が当たったことになる。11月16日、軍令部出仕兼海軍省出仕に転じ、兵科機関科将校統合問題研究従事。海軍大臣・永野修身大将の特命によって、海軍の長年の懸案だった「兵科将校と機関将校の一系化 (兵機一系化)」問題の解決に専念した。1937年(昭和12年)、井上は「兵科将校と機関科将校の両方の勤務をこなす少尉候補生の育成には、現在の兵学校・機関学校の修業年限4年でも不足。4年の修業年限を維持するなら、一系化を促進すべし」という答申書を、海軍次官・山本五十六に提出した。1937年(昭和12年)10月20日、海軍省軍務局長兼将官会議議員。米内光政が海軍大臣に、山本五十六が海軍次官に既に就任していた。海軍省詰めの新聞記者たちは、この三人を「海軍省の左派トリオ」と呼んだ。この頃、支那事変(日中戦争)が本格化した時期であった。揚子江流域には、英・米・仏の権益が多く存在し、それらの国との摩擦が各所で起き、海軍に関係する問題は全て軍務局長の井上へ集中した。井上によれば「(中国における軍事行動においては、常にアメリカを刺激しないように、怒らせないようにと苦心し、)航空部隊の連中には誠に気の毒だったが、その軍事行動に非常に厳しい制限が加えられ(ていた)」という。12月12日、海軍の艦上爆撃機隊が、南京付近の揚子江上で米国砲艦を誤爆・沈没させる「パナイ号事件」が発生した。井上は、米国の態度硬化を危惧し、山本と共に素早く率直に非を認め、事件を収拾すべく奔走した。日本政府は、当時の常識を越える多額の賠償金220万ドル=670万円(当時)を支払い、駐日大使グルーを通じて米国に陳謝する措置を取った。井上は「昭和12、13、14年にまたがる私の軍務局長時代の2年間は、その時間と精力の大半を(日独伊)三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、唯陸軍の全軍一致の強力な主張と、之に共鳴する海軍若手の攻勢に対する防禦だけに費やされた感あり」と回想する。ドイツは日独伊三国防共協定を軍事同盟に強化したいと日本に打診してきた。海軍部内も三国同盟に肯定的な者は多く、マスコミは、英・米・仏の「露骨な援蒋行為」を批判し、ドイツの「躍進」ぶりを持ち上げて、反英米・親独の世論を煽っていた。しかし、米内・山本・井上は、三国同盟に絶対反対の態度を堅持した。井上は「海軍で(三国同盟に)反対しているのは、大臣、次官と軍務局長の三人だけということも世間周知の事実になってしまった。山本次官が右翼からねらわれているとの情報あり、次官に護衛をつけ、官舎へ帰る途順を色々変えたり、秘書官が心配して私に、催涙弾でもお持ちになってはいかがですかと申し出たのもこのころのことであった」と回想している。ドイツ語に堪能な井上は『Mein Kampf』(『我が闘争』の原書)を読み、訳本で省かれた部分であるヒトラーが日本人蔑視を公言していることを知っており、軍務局長名で海軍省内に「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と通達した。三国同盟を主張する陸軍と、反対する海軍の交渉が進むにつれ、論点は「自動参戦義務条項」に絞られた。陸軍はこれを是認し、海軍は絶対反対であった。三国同盟を巡る陸軍と海軍の対立が頂点に達した1939年(昭和14年)8月上旬には、陸軍がクーデターを起こすのではないかという見方が、海軍省の井上らの周囲で強まってきた。14日の朝には、麹町付近で演習していた陸軍部隊が、東京・霞か関の海軍省の前まで姿を現して去った。井上は、横須賀鎮守府の参謀長、先任参謀、砲術学校の教頭と陸戦課長らを海軍省に呼んで海軍省警備の打ち合わせを行った。井上は、海軍省の建物は陸戦隊の兵力で防衛できるが、水と電気を切られた場合に対応出来るかと考え、部下の軍務局第三課長に、海軍省構内井戸の水量、小型発電機などの検討を指示した。10月10日、井上の一人娘の靚子が、海軍軍医大尉の丸田吉人(よしんど)と結婚した。10月18日、軍令部出仕へ転ず。1939年(昭和14年)10月23日に支那方面艦隊兼第三艦隊参謀長に補され、上海に在泊する支那方面艦隊旗艦「出雲」へ赴任した。11月15日、井上は中将に進級し、同時に第三艦隊の解隊で兼任は解かれた。艦隊司令部所属の軍楽隊に目をかけ、旗艦「出雲」内に、他の邪魔にならない練習場所を確保してやったり、国際都市の上海ゆえに一流の楽団の演奏会や音楽映画の上映があると、ポケットマネーで切符を買って全楽員を行かせたりと、物心双方で援助をした。琴やピアノの演奏に長けており、音楽の素養が深い井上は、軍楽隊が演奏する都度、気がついたことを楽員にアドバイスした。休日には日本人公園で野外演奏を行わせ、外国人を含む聴衆から拍手を受ける経験を積ませ、軍楽隊の士気を高めた。ある会食で、飲めぬ酒を付き合ってほろ酔い加減となった井上は、兵学校で2クラス下(井上が一号生徒の時、三号生徒)の第五防備隊司令の板垣盛大佐に「貴様の前だけど、貴様の兄貴(板垣征四郎)、ありゃほんとうにいやな奴だな。東京にいたころ、俺は軍務局長相手は大臣で、対等の勝負にならなかったが、今度は同じ参謀長だ。南京へ行く機会があったら腹に据えかねていることをうんと言わせてもらうから、ついでの時そう伝えとけよ」「貴様も陸軍へ進めばよかったな。そうすりゃ、あの兄貴の引きで今ごろ少将かもしれんぞ。惜しかったんじゃないか、おい」と絡んだ。温厚な板垣は嫌な顔もしなかったが、末席で聞いていた、支那方面艦隊の最後任幕僚(暗号担当)の市来崎秀丸大尉は、井上が三国同盟を巡って板垣征四郎に不愉快な思いを多々させられたのは分かるが、何の責任もない弟にひどいことを言うものだ、と板垣盛に同情した。日本軍が陸上から攻撃できない重慶で抗戦を続ける蒋介石政権を崩壊させるため、1940年(昭和15年)5月1日から9月5日までの約4か月間、「百一号作戦」(重慶爆撃)が実施された。陸海軍の航空兵力を結集して、四川省方面の中国空軍を撃滅し、重慶の蒋介石政権の政府機関、軍事基地、援蒋ルートを破壊するのが目的だった。従来から支那方面艦隊の隷下にあった第二連合航空隊、第三連合航空隊に、連合艦隊から増援された第一連合航空隊が加わり、漢口方面の飛行場には、陸攻・艦攻・艦爆・艦戦、約300機が集結した。井上は6月4日に漢口へ飛び、第一連合航空隊司令官の山口多聞少将、第二連合航空隊司令官の大西瀧治郎少将をはじめとする将兵を激励した。支那方面艦隊参謀長が最前線に出るのは異例で、百一号作戦に寄せる井上の期待が大きかったことを伺わせる。百一号作戦の開始当時は、重慶を爆撃可能な航続力を持つ九六式陸上攻撃機を、航続力の短い九六式艦上戦闘機が護衛できず、陸攻隊の損害が日を追って増えた。航続力が飛躍的に長く、強力な武装を備えた零式艦上戦闘機が漢口に送られ、15機が揃って8月19日から実戦に参加した。9月13日に、重慶上空で、零戦13機が27機の中国軍戦闘機隊を捕捉し、中国軍戦闘機を全滅させて零戦は全機が帰還する大戦果を挙げた。以後、重慶上空の制空権は日本側に移り、重慶爆撃の戦果は大いに上がった。井上は、支那方面艦隊水雷兼政策参謀・中山定義少佐のみを従えて、8月6日に九六式陸攻で上京し、翌日、軍令部第一部長の宇垣纏少将ら海軍省・軍令部の十数名と会談し、支那方面艦隊の現状報告と中央への要望を行った。中山によれば、井上は「われわれは海軍航空隊による重慶を初めとする中国奥地戦略要点の攻撃に重点を置いており、その成否は、当面する支那事変解決の鍵と確信している。この作戦は日露戦争における日本海海戦に匹敵するとの認識のもとに全力投球している」と述べ、陸攻の増派をはじめとする具体的な増強案を提示した。中山が、これで井上の要望は終わったかと思った所、井上は一段と語調を強めて「中央には、対支作戦を推進し、その完遂を期すとしながら、その上に第三国(米・英)との開戦に備える動きがあると仄聞するが、万一事実とすれば以ての外である。今や我が国は支那事変だけでも大変な状況に陥っており、この泥沼から抜け出す見通しが立たない状況である。この上、第三国たる大国を相手に事を構えるが如きは論外であるというのが、現地部隊である支那方面艦隊の実感である」と述べた。中央側の出席者は沈黙するのみであった。宇垣の「御趣旨はよくわかりました」という短い挨拶でこの会議は終わったという。8月18日に、軍令部から、支那方面艦隊司令部宛に「北部仏印作戦準備のため、第一連合航空隊を9月5日に内地に引き揚げさせることに手続き中」という無電連絡があった。支那方面艦隊先任参謀だった山本善雄中佐)によると、「蒋介石政権を空襲で崩壊させるため、支那方面艦隊の航空兵力をさらに増強されたい」という意見具申と「支那事変をそのままに、第三国と事を構えるなど言語道断」という意見具申を、二つとも無視された井上の怒りは大変なものだったという。井上は、支那方面艦隊司令長官の嶋田繁太郎中将の了解を得て、長官名で、軍令部次長の近藤信竹中将宛に再度の意見具申電を発したが、軍令部は「先に井上支那方面艦隊参謀長が上京して意見具申をした時、軍令部は、御趣旨はわかったとは言ったが、その通りやるとは言っていない」と井上を馬鹿にするような応対をした。井上は「軍令部に駄目押しをしなかった自分の手抜かりであった、辞職する」と言い出し、支那方面艦隊参謀副長の中村俊久少将と山本が井上を説得し、ようやく収まった。井上が支那方面艦隊参謀長の職を離れる直前の9月27日、日独伊三国同盟が締結され、北部仏印進駐と合せ、日本は対米英戦争への道を大きく踏み出した。1940年(昭和15年)6月16日にフランスがドイツに降伏したことでドイツ軍が優勢と見える状況について、中山定義が、井上に感想を求めた所、井上は即座に「ドイツ軍は必ず負けるよ」と答えた。1940年(昭和15年)10月1日に、海軍航空本部長に補される。戦後の井上は「自分は支那方面艦隊参謀長のとき、航空が最も重要だと思い、嶋田繁太郎司令長官に、航空関係への転勤希望を申し出ていたところ、これが容れられた」と希望通りの人事であったことを語っている。12月16日、丸田家に嫁いだ娘の靚子が長男の研一を産んだ。1941年(昭和16年)1月の会議において井上は「第五次海軍軍備充実計画案」(マル5計画)を「明治・大正時代のようなアメリカの軍備に追従した杜撰な計画」と批判し「日本独自の特長ある、創意豊かな軍備を持つべき」と主張した。軍令部二部長・高木武雄少将が「では、どうすればいいか」と聞くと井上は「海軍の空軍化」と答えた。井上はその後一週間で海軍大臣・及川古志郎に戦艦無用論と海軍の空軍化を説いた「新軍備計画論」を提出した(具体案は「戦略」の項を参照)当初、井上はこのような内容の意見書を個人の意見として提出するつもりだった。ところが、井上が「新軍備計画論」を起草して航空本部総務部長の山縣正郷少将に見せた所、山縣が「ぜひ航空本部長の名で出して下さい」と言ったため、1月30日付で、海軍航空本部長から海軍大臣宛に正式に提出された井上は「本省の機務に関する書類は外局たる航本(航空本部)には回って来ないので、(時局の)真相はなかなか分らなかった」と回想する。しかし、海軍次官が豊田貞次郎中将から沢本頼雄中将に交代した4月4日から約2週間、井上は海軍次官代理を兼務し、機務に触れることができた。この時に、駐米大使・野村吉三郎 が、悪化の一途を辿る日米関係の改善への必死の努力の結果、「日米了解案」を東京へ打電して来た。これに対し、日米開戦派である海軍省軍務局第二課主務局員の柴勝男中佐は、駐米海軍武官の横山一郎大佐に対し、「日米了解案について、野村大使を『慎重に補佐』すべし」という訓電を起案し、軍務局長の岡敬純少将に提示した。岡は、当初は野村の「日米了解案」に乗り気だったものの、結局は柴の意見に同意した。しかし、井上は「日米了解案」に非常に乗り気であったため、岡から上がってきた訓電案を良しとせず、海相・及川に直談判した。井上の記憶では、その日は土曜日(1941年(昭和16年)4月19日と思われる)で及川はもう帰宅していたので、井上は及川の私宅を訪れた。井上は「(柴が起案し、岡が承認した訓電案を)自分が加筆修正して軍務局につき返しますからご承知下さい」と及川に言った。井上は、加筆修正して、岡を通じて柴に電文を返した。井上は、自分が修正した訓電がそのまま発電されたものと死ぬまで考えていたようである。しかし、柴が「それでは訓電の意味をなさないので、岡軍務局長の了解を得て発電を中止してしまった」と戦後に語っている。次官代理兼任というわずかな機会を捉えて、反米・開戦への空気にブレーキをかけようと必死だった井上は、新次官の沢本頼雄が上京して着任する前日、熱海に一泊すると聞き、及川に願い出て、熱海に行き、兵学校の1期上である沢本に、井上が次官代理をした2週間の出来事と自分の考えを説いた。7月28日、日本が南部仏印進駐を行ったことで、在米英の日本資産凍結、日英通商条約廃棄、米国の対日石油禁輸などの強力な経済制裁がなされ、日米関係は一気に悪化した。南部仏印進駐が7月1日の閣議・翌2日の御前会議で決まった後の7月3日に省部臨時局部長会報(決定事項を知らせるための会議)で、沢本次官から「南部仏印進駐が閣議で決定した」と知らされた井上は「航空戦備は全く出来ていない。なぜ、事前に我々の意見を聞かないのか」と非を鳴らし、艦政本部長の豊田副武中将も井上に同調した。弁解する及川や沢本に対して、井上は「そんなことで大臣が務まりますか。南部仏印進駐に文句を言ったのは、手続き上の問題ではなく、事柄が重大すぎるからだ」と、まるで一兵卒に対するかのように怒鳴りつけた。ここまで来ても井上は諦めず、『海軍航空戦備の現状』というかなり長文の意見書を2週間で書き上げ、7月22日に、及川古志郎、沢本頼雄、永野修身、近藤信竹ら、海軍省・軍令部の首脳に説明し、航空戦備の各項目(飛行機、機銃、弾薬、魚雷など)について、充足率が著しく立ち遅れていることを示し、「戦争をしてはならない」と強く警告したが、彼らは聞く耳を持たなかった。1941年(昭和16年)8月11日、井上は第四艦隊司令長官に親補された。同期で最初に艦隊司令長官(親補職)に補されたが、井上はこの人事をマル5計画や日米開戦に反対し、南部仏印進駐に際しては局部長会報の席で海相の及川を怒鳴りつけた井上を栄転と言う形で体よく海軍中央から遠ざけるものと解釈していたという。宮城での親補式を済ませ、岩国海軍航空隊から飛行艇で8月21日にサイパン島に到着し、同島に碇泊していた旗艦「鹿島」に着任した。「鹿島」は、直ちに、司令部の陸上施設があるトラック諸島に向かった。井上は、トラックの「夏島」にある長官官邸に住み、毎朝、「鹿島」に乗艦して、午前8時の軍艦旗掲揚を艦上で迎え、午後4時に退艦して夏島の長官官邸に戻る日課だった。太平洋戦争の開戦前、第四艦隊の防備区域は、日本の委任統治領の南洋群島全域、東経130度から175度、北緯22度から赤道まで渡る東西5,000キロ、南北2,400キロの海域であった。この海域の中には、マリアナ諸島、カロリン諸島(トラック諸島を含む)、マーシャル諸島など、大小1,400の島があった。しかし、第四艦隊(南洋部隊)に与えられていた兵力は、独立旗艦の「鹿島」(練習巡洋艦として建造されており、戦闘力はない)以下、旧式の天龍型軽巡2隻(天龍、龍田)からなる第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)、旧式駆逐艦を主力とする第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将、旗艦「夕張」)、敷設艦「沖島」を旗艦とする第十九戦隊(司令官志摩清英少将)、商船改造の特設艦、旧式となっていた九六式陸上攻撃機、九六式艦上戦闘機など僅かでしかなかった。また重巡4隻(青葉、加古、衣笠、古鷹)から成る第六戦隊(司令官五藤存知少将)も南洋部隊に編入され、南洋部隊(指揮官は井上成美第四艦隊長官)の麾下にあった。トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員奥津ノブ子(当時15歳)を可愛がった。太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)夏に、邦人婦女子が内地へ送還されることになり、奥津も「ぶら志゛る丸に乗って内地へ向かったが、出港翌日に「ぶら志゛る丸」は米国潜水艦に撃沈された。1942年(昭和17年)8月5日の深夜であった。1隻のカッターと3隻の救命艇が救助した生存者は、23日もの漂流の末、日本の飛行機に発見され、救助船が向かってトラックに戻ることが出来たが、奥津は生存者の中に入っていた。生還した奥津が、井上の所に挨拶に来た時、艦隊司令長官たる井上が、一介の傭員に過ぎない奥津の前で正座して「申し訳ない」と言い、深々と頭を下げ、ポケットマネーで購入した身の回り品や当座の生活資金を与えた。井上が兵学校長に転じてトラックを去る日、奥津は長官用自動車に乗ることを許され、井上が乗る九七式飛行艇が横付けされた桟橋まで行って井上を見送った。奥津は、1943年(昭和18年)3月に便船を得て内地に帰還でき、以後は神奈川県の小田原に住んだ。奥津は、海軍兵学校長として広島県江田島にいた井上に手紙で帰国を知らせ、井上は奥津が無事に内地に帰還したことを祝う手紙を出し、以後、敗戦までの2年ほど、井上は奥津と文通をしていた。1944年(昭和19年)、井上が海軍次官として東京に戻ると、奥津は土産の梨を持って海軍省に井上を訪ねた。敗戦の混乱で井上と奥津の音信は途絶えたが、1949年(昭和24年)に、井上が奥津の戦前の小田原の住所に手紙を出してみた所、その住所に戦後も住んでいた奥津から落花生の小包が井上に届き、文通が復活した。軍人恩給の復活(1953年(昭和28年)まで、英語塾の僅かな月謝以外の収入がなく「貧民のような食生活」を余儀なくされていた井上は、栄養のある落花生の贈り物を大いに喜んだ。1963年(昭和38年)6月には、奥津が長井に隠棲する井上を訪ね、21年ぶりの再会が叶った。奥津は、井上からパラオ出張の土産に贈られた鼈甲のコンパクト、「ぶら志゛る丸」沈没後にトラックに生還した際に井上から贈られた絹の靴下(奥津は、一度も足を通さずに保存していた)を、井上の没後も大事にした。1941年9月、海大図上演習で井上は、ラバウル攻略後はラエ・サモアまで進出することを主張した。理由はラバウルを確保するにはソロモン、東部ニューギニアに前進基地を確保する必要があると考えたためである。宇垣纏中将、山口多聞少将がそれに対して消極的な意見を述べ、攻略範囲は決まらなかったが、連合艦隊はそれらを加味し、他方面が有利に展開するなら早く実行するとした。井上は、連合艦隊司令長官の山本五十六大将から「作戦打合わせのため参謀長及び関係幕僚を帯同して上京せよ」という電報を11月6日に受け取り、随員と共に11月8日にトラックを飛行艇で出発し、横浜航空隊に到着して、東京において11月5日付の「大海令第1号」と「大海指第1号」を受け取った。さらに、11月13日に岩国海軍航空隊で行われた、連合艦隊長官、各艦隊長官・参謀長並びに関係幕僚による「作戦打ち合わせ会議」に出席した。各艦隊司令部に、連合艦隊司令部から、「機密連合艦隊命令作第1号」が配布された。井上らは、往路と同じく、横浜航空隊から飛行艇で出発し、11月20日にトラックに戻った。12月8日に太平洋戦争が開始された。「鹿島」の第四艦隊司令部では、暗号電文を傍受・解読して真珠湾攻撃の大戦果を知った。通信参謀の飯田英雄中佐が、「鹿島」の長官室にこの電文を持参し、井上に「おめでとうございます」と言った所、電文を見た井上は、ただ一言「バカな」と吐き捨てるように言った。「いざという時は、内閣に海軍大臣を出さないという伝家の宝刀を抜いてでも開戦に反対すべき」と考えていた井上にとっては、めでたいどころではなかったという。開戦以降、第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当した。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。事前の上陸作戦訓練不足が指摘される。真珠湾攻撃から帰投する途中の第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将)より分派された(第二航空戦隊、空母蒼龍・飛龍)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回の攻撃(12月23日)で攻略に成功した。開戦前から第四艦隊に編入されていた基地航空部隊の第24航空戦隊は、1942年(昭和17年)4月10日の基地航空兵力戦時編制の改編で外され、第十一航空艦隊(11航艦)の指揮下に移され、第四艦隊の戦力は減少した。開戦後に新編成され、ラバウル・ソロモン方面に展開し、MO作戦に参加した第25航空戦隊も、第四艦隊の指揮下であった。同時期、南洋部隊(第四艦隊)が各方面に配備を要請していた空母「祥鳳」が南洋部隊(指揮官第四艦隊司令長官)に編入された。第二段作戦において、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当。作戦目標はポートモレスビーの海路からの攻略であった。井上は旗艦「鹿島」をラバウルに進めて指揮を執った。1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦の第1日に、米国機動部隊の攻撃で小型空母「祥鳳」(南洋部隊所属)が沈んだ時の心境を、井上は、海戦の後に書いたと推定される手記に「実に無念であった。このような時に、東郷平八郎元帥であればどうなさるだろうかと考えた。心中、 『お前は偉そうに4F(第四艦隊)長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ』 と言われているような無念を感じた」という趣旨の記述をしている。井上の下で、第四艦隊航海参謀であった土肥一夫少佐によれば、7月に連合艦隊参謀として連合艦隊司令部に着任した際に、第四艦隊司令部から提出された珊瑚海海戦に関する報告書類、当時の電報綴りに赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多くの罵詈雑言が書き込まれているのを見たという。海軍省・軍令部や連合艦隊司令部は、第四艦隊司令部の珊瑚海海戦での指揮を批判した。連合艦隊参謀長の宇垣纏は、日誌「戦藻録」の1942年(昭和17年)5月8日の項に『4F(第四艦隊)の作戦指導は全般的に不適切であった。小型空母「祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である』旨を書いている。軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐は、日誌に「4Fの作戦指導は消極的であり、軍令部総長の永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている。日本軍が南洋群島の東と南に占領地を広げると、第四艦隊の担当戦域となった。ウェーク島、南東方面(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島)など。第十一航空艦隊(11航艦。司令長官は塚原二四三中将)麾下の基地航空隊がマーシャル諸島に展開し、第四艦隊が補給を担当していたものの、手こずっていた。ミッドウェー作戦の前、トラックの第四艦隊司令部に連合艦隊参謀が説明に来て「ミッドウェー占領後の補給は第四艦隊に担当して頂く」と告げた。第四艦隊先任参謀の川井巌大佐が、空母2隻基幹の航空戦隊を附けてくれなければミッドウェーへの補給など出来ない、と反論した所、ミッドウェーへの補給は11航艦が行うことになったという。マーシャル群島に展開し、第四艦隊から細々と補給を受けている11航艦が、さらに2,200キロも先のミッドウェーへの補給を出来る訳がなかった。もともと担当していた南洋諸島全域に加えて、ウェーク島方面、南東方面を第四艦隊が担当するのは無理があった。7月14日に南東方面を担当する第八艦隊が編成され、7月24日にラバウルの陸上に長官の三川軍一中将が将旗を掲げ、統帥を発動した。ここに南洋部隊は内南洋部隊と改称され、それまで南洋部隊指揮下だった第六戦隊(重巡4隻)も外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された。1942年(昭和17年)7月に、「小松」の支店をトラック島に開業した。これは井上が横須賀で海軍料亭「小松」を経営する山本直枝夫婦に、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦から間もなく、「トラックには将兵の慰安施設が一軒しかない。士官用の施設として、小松の支店をトラックに出してくれないか」という依頼をしていたためである。その後の戦局の悪化、敗戦でトラック島の「小松」は消滅し、看護婦の仕事を手伝うようになった女子従業員が6人犠牲となった。井上は、終戦直後に「小松」を訪ね、案内された座敷に入らず、敷居の外に座って山本直枝に頭を下げ「申し訳ありません。今度の戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍を代表しておわびいたします」と謝罪した。山本は、井上の潔い謝罪に感銘を受けた。陸軍参謀辻政信中佐は、ラバウル方面の最前線を視察する途中の1942年(昭和17年)7月23日に、トラック泊地に立ち寄った。夜、辻は海軍専用の料亭で第四艦隊の招待を受けた。辻は井上について「この提督は武将という感じがしない。上品な風貌に洗練されたもの腰である。絽の羽織袴すがたで、如才ない態度からはたぶんに政治家のような感じをうける」という評価をしており、接待にあらわれた芸者達を見て「第一線の様相とかけはなれた情緒だった」とも回想している。1942年7月、中部ソロモン方面に陸上機の基地建設を検討していた井上は、ガダルカナル島の基地設定に着手した。日本軍の最前線基地であったラバウルからは直線距離で1,020キロ離れていた。飛行場建設によるガダルカナル進出は失敗に終わり、壊滅的な消耗を受けることになる。海軍に呼応して兵力を進出させ、大きな損害を被った陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍が勝手に飛行場を作ったことにあると批判している。5月3日、日本軍はツラギ島を占領。翌4日、横浜空の飛行艇がツラギに進出。ツラギ島に進出していた横浜空司令の宮崎重敏大佐から、第25航空戦隊司令官の山田定義少将に「ツラギ島対岸のガダルカナル島に、飛行場建設の適地あり」という報告があった。5月25日、25航戦と第8根拠地隊の幕僚・技術者を乗せた九七式飛行艇によって、ガ島を中心とするラバウル以南の島々の航空偵察が行われた。この偵察結果を受けて、山田は、6月1日に、第十一航空艦隊の参謀長・酒巻宗孝少将に調査結果を報告し、「急ぎ、ガダルカナル島への飛行場建設に取りかかるべし」と意見具申した。ミッドウェー海戦(6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告を受けた連合艦隊司令部は、ラバウルからガダルカナルが遠すぎることを理由に難色を示した。その理由は零戦の航続距離では、ラバウルを基地として、ガダルカナル上空の制空権を確保できず、ラバウルとガダルカナルの中間にもう一つの基地が必要になるためであった。連合艦隊の要望に基づき、25航戦は、ラバウルとガダルカナルのほぼ中間にあるブーゲンビル島・ブカ島を2度にわたり調査したが、いずれも地勢に難があり、ガダルカナルへの飛行場造成以上に日数を要するという結論となった。なお、25航戦にはミッドウェー海戦で日本が主力4空母を喪失したことが知らされておらず、この方面の制空権は容易に確保できるという考えがあった。6月19日、連合艦隊司令部は、参謀長の宇垣纏中将の名で「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度(たし)」と現地部隊に訓電した。連合艦隊司令部の訓電を受けた現地部隊の25航戦、8根、及び、この方面の総指揮を執る第四艦隊司令部から参謀が派遣され、再度のガダルカナル上空からの航空偵察が行われた。島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設に最適と結論した。連合艦隊司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊、ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊をガダルカナル飛行場建設に当たらせることを決意し、両設営隊の本隊を乗せた輸送船団は、6月29日にトラックを出港、7月6日にガダルカナルに上陸した。軍令部作戦課航空主務参謀三代辰吉中佐によれば、ガダルカナルに陸上飛行場の適地はあるが、飛行機を配備するにはまだ不足しているので水上機でやろうと考えており、飛行場の造成に関しては軍令部は知らず、現地部隊の第四艦隊が勝手に始めたものと証言している。また、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将も「飛行場建設のことは全く知らなかった」と書いている。参謀本部参謀辻政信陸軍中佐は、7月28日ラバウルで海軍側とポートモレスビー作戦について会議した際、ガダルカナル島飛行場建設中の話がはじめて出たと回想している。しかし、設営隊本隊上陸の翌日7月7日、軍令部作戦課は、参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れる文書を提示しており、その文書に「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」と記されている。10月7日、井上は連合艦隊司令長官・山本五十六に連合艦隊旗艦「大和」へ招かれた。海軍兵学校長から、10月1日付で第十一航空艦隊司令長官に親補された井上と海兵同期の草鹿任一中将が、内地からラバウルへ赴任する途中にトラック在泊の「大和」に立ち寄ったので、山本が草鹿を主賓とする夕食会を開き、井上も呼んだものである。この夕食会で、山本は井上が草鹿の後任の兵学校長に決定しており、海軍大臣の嶋田繁太郎から相談され、井上を兵学校長に推薦したのは山本自身だと告げた。この夜、草鹿の申し出によって、井上は宿舎で草鹿から兵学校長の引き継ぎを受けた。この時の心境を井上は「自分は戦が下手で幾つかの失敗を経験し、海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語っている。1942年(昭和17年)10月26日、井上は海軍兵学校長に補された。井上は10月31日にトラックから内地へ帰還した。11月5日午前10時、井上は宮城に参内して昭和天皇に拝謁、軍状を奏上し、菊花紋附木杯一組と金一封を下賜された。11月10日、広島県・江田島の海軍兵学校に着任。当時の心境を井上は、「兵学校長になったのは自らの志望ではなく、また、自分の性格から考えても適任とは思われず、初めはそれほど気が進まなかった。しかし、着任して1か月ばかりの間に、生意気盛りと思っていた生徒達の純真な気持や態度に打たれてきて 『よし、自分は生徒教育を一所懸命にやるぞ』 という気持に変ってきた」と回想する。井上の着任当時、兵学校の教官たちの間では、親しみやすい豪放磊落な人柄だった草鹿の後任として、正反対の人柄の井上を敬遠する空気が強かった。しかし、井上が着任してから日が経つにつれ、井上が教育について深い理解と識見を持っていることを知り、井上の職務遂行に対する真摯で誠実な態度に親しく接するようになって、井上を畏敬し、信服する者も増えた。空母「翔鶴」運用長として珊瑚海海戦や南太平洋海戦を戦った福地周夫中佐が海軍兵学校教官として赴任し、翔鶴の塗料で描かれた『珊瑚海々戦翔鶴奮戦図』という絵を持参すると井上は感動し、額縁をつくらせて校長室に掲げた。井上は海軍次官に転出するまで『翔鶴奮戦図』を校長室に飾っていたという。校長・教頭に次ぐ兵学校のナンバースリーである企画課長の小田切政徳中佐は、着任直後の井上から「柔道場2棟・剣道場2棟を建設中だが、4棟が隣接し過ぎており、1棟が火災を発すると、他棟に直ちに延焼するだろう。この配置は危険だ」「そもそも、こんな大道場を2棟づつも建てるより、剣道などは練兵場に出てやった方が良いだろう。見直しは出来ないか?」という旨の指摘を受けたが、既に道場の基礎工事がほとんど終わり、建築資材の搬入と加工が始まっている状態であったので「この道場は4棟とも訓育上絶対必要であり、明年(1943年(昭和18年)の75期の入校に間に合わせて欲しい、と生徒隊から強く要請されているのです」という旨を答え、何とか井上の了解を得た。しかし、1944年(昭和19年)1月-3月に完成した4棟の大道場は、同年11月15日に、第二剣道場の風呂場から発した火災で、4棟とも全焼した。小田切は「もし、井上校長の着任がもう少し早く、(武道場の)土台建設以前であったなら、なんとか取り止めにするか、道場一対(剣道場・武道場一対)だけにするか、生徒隊を説得したと思います。今も心残りに思えてなりません」と回想してる。小田切は、第四航空戦隊の先任参謀から、1942年(昭和17年)7月に兵学校に転じ、戦中の2年7か月を兵学校企画課長として過ごした。戦後の井上を、その死に至るまで支え続け、井上の死後も井上の孫の丸田研一と交誼を保った。井上は主立った教官20人ほどと会食し、井上が退席した後、教官たちが飲み直しを始め、校長官舎に電話して「校長も二次会へちょっと如何ですか」と誘ったが、井上は「そういう席へ私は出ない」とあっさり電話を切った。校内の雑用係の「ボーイ」(国民学校を卒業後に上級学校に進めなかった少年たちで、15-16歳程度だった)に、何とか教育の機会を与えたいと考え、希望者を募って20人くらいの班を2つ作り、午後3時から5時まで2時間の授業を1日おきに実施した。課目は、井上が、少年たちに一番大事と考えた数学と英語の2科目とし、講師には兵科予備学生出身の武官教官を充てた。戦後に、兵学校の元・文官教官が、「ボーイ」達が授業を受けている時に井上がしばしば視察に来ていたこと、終業式で成績優秀者に与えられる英英辞典が、井上のポケットマネーで提供されていたことを語っている。その元・文官教官は、戦後に広島大学を訪れた時に、この教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った。1942年(昭和17年)11月1日付で、兵科将校・機関科将校が「兵科将校」に統合されて、階級や服装の違いがなくなり、次いで、1944年(昭和19年)8月に軍令承行令も改正されて、制度上は、兵学校出身者と機関学校出身者の指揮権継承順位についての区別もなくなり、制度上の統合は完了した。ただし、太平洋戦争のさなかであり、(旧)機関科将校が(旧)兵科将校の配置に就くこと、その逆のいずれも非現実的であるため、「特例として、戦闘艦艇(軍艦、駆逐艦、潜水艦など)においては、従来通りに、(旧)兵科将校が指揮権継承について優先する」定めが同時に設けられた。着任前の11月初頭、海軍省に出頭し、海軍大臣・嶋田繁太郎に挨拶した井上は、嶋田に、自分を兵学校長に選んだ理由を尋ねた。嶋田は「私は君が(兵学校長に)適任だと思っているよ。その上、君が昭和12年に約1年かかって研究して結論を出した一系問題を実施しようと思うので、そのために君に兵学校に行ってもらうことにした」と返答した。井上は「解りました。一系問題ならば引き受けました。……当局は兵学校長を1年くらいで交代させていますが、それでは短すぎます。私を兵学校長にする以上は、3、4年くらいは兵学校長をやらせて下さい」という旨を嶋田に言った。嶋田が「君はあと2年もすれば大将になる。3、4年も兵学校長をやらせる訳には行かない」と言う旨を答えると、井上は「私はべつに大将になどなりたいとは思いません。その時がきたら私を中将のまま予備役に編入、即日召集して(引き続き)兵学校長にして下さい」と言った。嶋田は「私が大臣の間は兵学校長を替えない」と約束し、これで井上もようやく納得した。井上は、兵科将校の教育と機関科将校の教育を一系化するため、兵学
出典:wikipedia
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