アブー・ヌワース()ので知られるアブー・ヌワース・アル=ハサン・イブン・ハーニィ・アル=ハカミー・アル=ディマシュキー()は、イスラーム黄金時代のバグダードを中心に活躍した、アラブ世界で最も著名な詩人の一人である。生年は西暦757年頃、没年は810年以降と推定される。『千夜一夜物語』にも登場する。ペルシアのアフヴァーズで生まれ育ち、文学を志してバグダードへ渡り、ユーモラスな詩で有名になる。風刺や性的な作品で名高かった。また、イスラム教が禁じているものに関して大っぴらに書くことで世間を驚かせることを好んだ。過激な作風のために追放を受け、エジプトへ逃亡することを余儀なくされた時期もあり、809年にバグダードへ戻った後も投獄されることがあったという。アブー・ヌワースの最期は伝記により異なるが、獄死した、または毒殺されたとされる。父はマルワーン2世の軍にいたアラブ人の軍人で、ハーニィという名であった。母はペルシア人の織工でゴルバーンという名であった。若い頃はバスラの食品店で働いていたという。父ハーニィは、アッ=ジャッラー・ブン・アブダッラー・アル=ハカミー(al-Jarrâh Ibn Abdallah al-Hakamî)という人物が属する南アラビアの部族の客だったことがあり、アブー・ヌワースの「アル=ハカミー」というはこれに由来する。「アブー・ヌワース」という通り名の由来には、いくつかの説があり、伝統的なものでは3つの仮説が流布されている。第1の仮説では、「ヌワース」とはある山の名前であるという。第2の仮説は、彼が長い髪の毛を房飾りのように垂らしていたので隣人が「アブー・ヌワース(房飾りの男の意)」と呼んだのであろうと推測する。第3の仮説は、かつて存在したヒムヤル王国最後の君主、に自分自身を重ね合わせて、彼が自分でそう名乗ったのであろうとするものである。アブー・ヌワースは、母がバスラの食料品雑貨屋アル=サアード・ヤシラで売り子をしていた頃、まだ小さい子どもだった。その後、クーファへ行き、そこで当時の高名なの何人かに一対一で基礎的な教えを授かった。彼はワーリバ・イブン・アル=フバーブとハラフ・アル=アフマルといった詩人たちに保護される前にはひどい環境で暮らしていた。最初の師ワーリバは、単に訓練させるだけでなく、、アラビア語の詩、リベルタンといった内容も教えた。師弟はしばしばクーファのリベルタン("Mujjân al-Kûfa")として一緒に行動した。伝承によると、アブー・ヌワースは、砂漠における詩情を追求するため、ワーリバの許可を得て師と別れてベドウィンのところへ去ったという。その後、アブー・ヌワースが最後の師と仰いだのは詩人で高名な翻訳家であったハラフ・アル=アフマルであった。伝承では、師は何千行にも及ぶ古典詩を暗記し終えるまでは、一行も詩を詠んではならぬと命じたという。アブー・ヌワースがすっかり暗記してしまい、詩作の許可を師に求めたところ、ハラフは駄目だと言い、今度は覚えた詩をすべて忘れることを命じた。アブー・ヌワースはすべて忘れた。そして詩を作ることが出来るようになった。この忘却を強いるエピソードは、アブー・ヌワースの詩人としての形成期を象徴するエピソードであり、Zakharia (2009)が引用するイブン・マンズールの『アフバール・アビー・ヌワース』("Akhbâr Abî Nuwâs" d'Ibn Manzûr)などで見ることができる。おそらくはワーリバ・イブン・アル=フバーブに従って、アブー・ヌワースは、アッバース朝が建設したばかりの首都、バグダードに行く。カリフのハールーン・アッ=ラシードに「"madîh"」を献上したところ、カリフに気に入られ、お目通りが許される。同時に、当時権勢を誇ったというペルシア系の有力な一族のワズィールの家族ともつながりができる。もっとも、このつながりはバルマク家お抱えの詩人になったことを意味するのではなく、バルマク家のアバーン・アッ=ラーヒキー()が自分たちの庇護者たるカリフから、ライバルとなりうる詩人アブー・ヌワースを引き離しておこうとする打算の産物だった。ともあれ、アブー・ヌワースは、エスプリとユーモアにあふれた詩情により、すぐに有名になった。砂漠の伝統を受け継いだ主題は扱わなかった。都会生活を語り、葡萄酒の悦楽("khamriyyat")と少年愛("mujuniyyat")を卑近なユーモアを交えて謳った。のちにカリフとなる若いアミーンと親交を結んだのもこの時期である。しかしながら、バルマク家のワズィールたちのようなメセナたちとの交流は、何かよからぬことをたくらんでいる雰囲気を醸し出したも同然で、カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの疑心暗鬼を招いてしまった。バルマクの権勢家は失脚、カリフに誅戮された。このときアブー・ヌワースは、バルマク家の運命を悲劇と捉える詩を作ってしまい、身の安全のためエジプトへ逃げることにした。エジプトに亡命している間には、ディーワーン・アル=ハラージュの長である、アル=ハティーブ・ブン・アブデゥル=ハミード()を讃える詩を作っている。上述のように、アブー・ヌワースは、というペルシアの有力な一族を悼む詩を吟じてしまったため、アッバース朝の第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードが亡くなる西暦809年までの間、エジプトで亡命生活をすることを余儀なくされた。バルマク家はハールーン・アッ=ラシードが倒し、滅ぼした一族だった。ハールーン・アッ=ラシードの跡を継いだ息子アミーンは、22才の享楽的な若者で、前にアブー・ヌワースに教えを乞うたこともある。アブー・ヌワースにとっては願ってもない幸運だった。ほとんどの研究者がアブー・ヌワースの詩作の大部分がアミーンがカリフを務めていたころ (809-813) になされたと考えている。アブー・ヌワースが宮廷の求めに応じて吟じた詩の中でもっとも有名なものの一つが、アミーンを讃えたである。アブー・ヌワースと同時代のアブー・アムルという人物は、葡萄酒を詩にすることにかけては当代随一とした詩人の名前を三人あげたが、そのうちの一人がアブー・ヌワースだった。また、メッカ生まれのアブー・ハティームという人物は、思索の奥底にある深い意味をアブー・ヌワースが掘り当てて言葉にしてくれることで、初めてその意味に気づくことがよくあると評した。しかしながら、アブー・ヌワースが酔っぱらって欲望のおもむくままの行状を繰り返すので、さすがのアミーンも腹に据えかね、アブー・ヌワースを牢屋に入れてしまった。そしてアミーンは、異母兄のマアムーンとの内戦に敗れる。マアムーンは潔癖なところがあり、アブー・ヌワースに一切容赦がなかった。一説によると、アブー・ヌワースは牢屋に入れられることを恐れるあまり、過去の行いを反省し、とても信心深くなったという。一方で、悔悛の詩は、単にカリフの許しを得ようとしただけだとする説もある。アブー・ヌワースの最期に関する伝承は、不確かである上、矛盾しているが、いずれも悲劇的であるという点で共通している。ある伝承では次のような顛末である。マアムーンの側近のゾンボルという男が、アブー・ヌワースをたばかって、彼に正統カリフのアリーを風刺する詩を作らせた。アブー・ヌワースはそのとき酔っぱらっていて、言われるままに作ってしまい、ゾンボルは抜け目なくその詩を皆に聞こえるように大きな声で公表した。これでアブー・ヌワースは、牢屋から抜け出せなくなってしまった。その後、イスマーイール・ビン・アブー・セフルという男に牢屋の中で、毒か何かによって殺されたという。別の伝承では、アブー・ヌワースは酒場で死んだということになっている。また別の伝承では、ナウバフトというシーア派の、学のある有名な一族の家で殺されたということになっている。アブー・ヌワースは彼らと親交を結んでいたが、彼らを軽んじるような内容の詩をいくつか吟じてしまい、身の破滅になったという。アブー・ヌワースが亡くなったという噂話(、アラブのアネクドート)が飛び交い、友人たちが何人も家に押しかけ、彼の本を探したが、言葉の使い方に関する注意書きが手書きで少しばかり書いてある巻物一つを除いては、他に一巻も残っていなかったという。また、昔からユダヤ人の墓地であったという丘に葬られたと伝えられている。アブー・ヌワースは自分自身の詩作をまとめて後世に伝えるというようなことは一切しなかった。彼の詩集()は、アッ=スーリーによるものとハムザ・アル=イスファハーニーによるものとの、二種類の校訂本により、こんにちに伝わる。前者が偽作として扱った詩や断章であっても、後者は収集した作品の真正性を問わないため、ハムザ・アル=イスファハーニーの校訂本はアッ=スーリー校訂本の三倍を超える分量があり、13,000行、1,500作以上の詩を収録する。アブー・ヌワースが生きた時代から数百年時代は下り、おそらくは近世のエジプトにおいて成立したとされる『千夜一夜物語』には、アブー・ヌワースが、同じく作中の登場人物の一人であるハールーン・アッ=ラシードの取り巻きの一人として登場する。『千夜一夜物語』には特定の作者がいるわけではないが、匿名の作者によりアブー・ヌワースには「やくざな無頼漢」という性格が与えられている。実在のアブー・ヌワースにはハールーン・アッ=ラシードの寵を得たという確かな記録はないが、民衆の想像の世界では、時にはお忍びで冒険に繰り出す同カリフの宮廷の道化師、あるいは愉快な仲間という役どころが与えられている。東アフリカのスワヒリ文化では、アブー・ヌワースがアブヌワシ (Abunuwasi) の名でよく知られており、あたかも中東・アナトリアにおけるナスレッディン・ホジャばなしのように、アブヌワシが数多くの民話の中に登場する。アブヌワシはさらにキブヌワシ (Kibunuwasi) と名前がスワヒリ語化されることもあり、また、キャラクターも擬人化した野ウサギとなることもある。ザンジバルのスワヒリ語詩人が説明するところによれば、西洋ヨーロッパによる植民地支配下のスワヒリ都市においては、東洋的な主題を持つ書籍の出版が一切禁止されたが、その中で唯一出版された非西洋的な主題を持つジャンルが、伝統的な昔話だったという。そして、植民地時代にスワヒリ世界に浸透したイスラーム世界の民話がアフリカの口頭文芸と混淆し発展する中で、千一夜物語の一登場人物であるアブー・ヌワースのキャラクターがスワヒリ民話に多くのインスピレーションを与えたという。アフリカの角地域においては、1940年代にエリトリアで収集された民話に、アブナワス (Abunawas) の名前がみられる。これは、物書きの前職を買われてアメリカ軍により元イタリア植民地、エリトリアの宣撫工作に送り込まれたハロルド・クーランダーが同地で収集したもので、1950年にエチオピアの昔話として英語で出版された。収集に際しては、エリトリアの大人が話した民話をイタリア語を話せる子供たちがクーランダーに通訳した。1963年には日本語にも翻訳されて『山の上の火』の題で岩波書店から出版されている。その中の一話「アブナワスは、どうしておいだされたか」 で、主人公アブナワスは「とてもかしこい男」であり、王や商人といった権威者を頓智や屁理屈できりきり舞いさせる。スワヒリ諸都市に地理的文化的に近いコモロ諸島においても、民話口頭伝承の各種テーマの中で、「アブヌワの物語群」が、動物に関するアフリカ起源の民話口頭伝承と並んで、最もよく話されていることが1970年代に書かれた小著の中で報告されている。
出典:wikipedia
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