米子電車軌道(よなごでんしゃきどう)は、かつて鳥取県米子市に存在した路面電車路線である。皆生温泉の開発会社皆生温泉土地(現、皆生温泉観光)は1921年11月に優秀な温泉源を掘り当て、これにより1922年から温泉旅館が次々と開業した。米子への連絡道はまだ拡幅整備中であったが、同年7月より米子駅前から温泉地まで一日15往復のバスの運行をはじめた。しかしこのフォード製12人乗り幌型自動車はよく故障し、1日1便という日もあり会社を悩ませた。はやくも翌年3月には赤字により車両全部を山陰タクシーに売却してしまった。1923年皆生温泉土地社長の有本松太郎の政友会同志である遠藤光徳が県会議員に当選した。遠藤は会社の取締役に就任し、米子-皆生間の新道(皆生通り)を県費で建設することを実現させた。これに便乗して新たに企画されたのが電気軌道であり、7月には軌道敷設の特許が下付された、この設立した子会社が米子電車軌道である。1925年に初の路線を開業させ、翌年に米子駅前までの乗り入れを果たし、さらに1928年には市街地の買収が難航していたため迂回していた加茂町 - 角盤町間の短絡線も開通した。しかし皆生温泉の知名度が当時低かったことや、昭和恐慌の影響で湯治客が減るなど、赤字経営が続いた。親会社の皆生温泉土地も1931年には減資の憂き目に遭い、1934年には経営陣が変わるほどであった。その後、陸軍の命令で陸軍米子飛行場(現・陸上自衛隊米子駐屯地)が建設されることになり、そのための資材を運搬する道路と軌道が交差し貨物輸送の障害になるという理由で、1938年に軌道は撤去された。車両は小倉電気軌道(のちの西鉄北方線)に譲渡され、13 - 17となった。なお会社は米子交通というバス会社に改められ、1949年には日ノ丸自動車に合併した。廃線当時1933年7月6日改正当時米子駅前 - 茶町 - 東町 - 加茂町 - 西町 - 公園前 - 錦海 - 荒神社前 - 境街道 - 後藤駅前 - 錦町 - 女学校前 - 角盤町 - 富士見町* - 米川 - 四軒家 - 前地 - 上福原 - 大境 - 新田 - 皆生温泉加茂町 - 米子銀行前 - 角盤町大正14年度は鉄道省鉄道統計資料、昭和元年度以降は鉄道統計資料より(国立国会図書館デジタルコレクション)開業時には梅鉢製の木製単車(1号)と岡山電気軌道より譲渡された木製単車(2号)の2両が用意された。1926年度には木製単車2両(3.5号)を梅鉢に注文した。さらに1928年度に木製単車(6.7号)を新製し計6両となった。1937年度に1両が廃車され、残った5両は廃線後小倉電気軌道に譲渡され13-17号となった。
出典:wikipedia
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