t.A.T.u.(、タトゥ、タトゥー)は、1998年にロシア連邦のモスクワ市にてイワン・シャポヴァロフの主導によって結成された二人組の歌手。リェーナ・カーチナとユーリャ・ヴォルコヴァによって構成されている。初期のt.A.T.u.は、リェーナとユーリャがレズビアン・カップルであるというイメージを前面に押し出していた。しかしそれはグループのイメージの一部でしかないことが、2003年のドキュメンタリー『Anatomy of t.A.T.u.』にて明らかにされた。リェーナとユーリャはレズビアンではない。2008年8月のインタビューにてリェーナは、すべてがやりすぎだったものの、互いに偽りない感情を表現していたと述懐している。同記事にてユーリャは、十代の頃のことであり、その時はそれが本当の愛だと感じていたと付け加えている。2004年に、t.A.T.u.は当時のプロデューサーと袂を分かち、しばらく活動を休止した。2005年には、『Dangerous and Moving』と『』を発売した。2006年にはベスト盤を発売し、ユニバーサル・ミュージックとの専属契約を満了した。三枚目のアルバム『』は、2008年10月21日にiTunes、t.A.T.u.公式ショップ、モスクワのSoyuz店頭にて発売された。2009年5月21日、t.A.T.u.に専念することの休止が12月のスタッフ・ミーティングにて決定されていた旨が公式サイトにて公表された。すでに発表されていたとおり、『』から三本目の映像を公開し、映画『You and I』の宣伝の本人稼働は予定どおり行われる。また、Happy Smilesの特別盤が発売される予定となっている。2009年5月27日、リェーナとユーリャは、互いにソロ活動を開始すること、そしてt.A.T.u.はt.A.T.u.のまま継続することを公式ブログにて発表した。リェーナは、「これからt.A.T.u.としてだけではなく、ユーリャと私という独立した二人のアーティストが生まれることになります」と述べた。すなわち、リェーナとユーリャはそれぞれのソロ活動とt.A.T.u.としての活動を並行するという意味である。リェーナはt.A.T.u.制作チームと連携してソロ活動を開始する。2009年12月15日、3rdアルバムの英語版である『Waste Management』を発売。ヨーロッパで大きな成功を収めたポップ・グループとして、t.A.T.u.のアルバムとシングルの累計売上枚数は全世界で1500万枚を突破した。2011年、正式に解散を発表。イワン・シャポヴァロフと、彼の友人でありビジネス・パートナーであったアレクサンドル・ヴォイチンスキーが、ロシアで音楽プロジェクトを始める計画を立てた。この案を練りながら、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは1998年初めにモスクワで十代の女性歌手を対象としたオーディションを開催した。オーディションが終盤となるころには、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは候補者を十人に絞っていた。そこには、ニェポセドゥイ()の元メンバーであったリェーナとユーリャも含まれていた。二人の少女はとりわけ出で立ちと歌の経験について他の候補者よりも際立っていたが、シャポヴァロフとヴォイチンスキーは、ロクセットの「愛のぬくもり」(It Must Have Been Love)を歌った十三歳のリェーナ・カーティナを選出する。リェーナはデモ曲の録音を始めた。リェーナの父セルゲイ・カーチン()は優れた作曲家で音楽プロデューサーでもあり、ヴォイチンスキーとは面識があった。このときのグループ名は「」ではなく、単に「プロジェクト」だった。ちょうどその頃、ヴォイチンスキーはアライド・フォース作戦の爆撃でユーゴスラヴィア(当時)の首都ベオグラードにいた家族を失い、悲しみに打ちひしがれていた。そこでヴォイチンスキーは不条理な戦争の悲しみや憤りを込めた「ユーゴスラヴィア()」を作曲し、リェーナ・カーティナに歌わせてデビューさせたという経緯がある。しかし「ユーゴスラヴィア」はまったく売れなかった。これを不満に感じたシャポヴァロフは、プロジェクトにもう一人女の子を加えることを提案した。そして、1998年10月の終わりに、十三歳の少女であったユーリャ・ヴォルコワをグループに加えた。またボリス・レンスキーを出資者として招きよせ、プロジェクトの財務面の安定化を図った。作家陣としては、セルゲイ・ガロヤン(作曲)、ワレリー・ポリエンコ(作詞)の二人を発掘した。それまで全く無名な学生に過ぎなかったガロヤンとポリエンコは、若い才能を充分に開花させることとなる。こうして「プロジェクト」は「」に改称された。というグループ名は、ロシア語の「」(ター・リュービト・トゥー、"This (girl) loves that (girl)"の意)の略だとされている。英語盤のアルバムを発売するに当たっては、すでにオーストラリアにTatuというバンドが存在していたことに配慮して、グループ名の英語表記をt.A.T.u.とした。こうして、リェーナとユーリャはプロデューサーらとともにレコーディングを進めていった。シャポヴァロフは、当時の恋人でありMTVロシアに勤めていたエリェーナ・キーペルから、t.A.T.u.の新しい路線を決める着想を得た。キーペル自身は、スウェーデン映画『ショー・ミー・ラヴ』を参考とし、ミドルティーンの少女同士が織りなす甘く切ない物語、または性を超えて愛しあう純粋なふたつの魂の結びつきというイメージを描いていたが、シャポヴァロフはキーペルの案をより過激で煽情的に具現化させようとした。ヴォイチンスキーは、シャポヴァロフが進めたこの路線について意見の折り合いをつけることができず、プロジェクトを離脱することとなった。シャポヴァロフは、ヴォイチンスキーに代わり、キーペルをデビュー・アルバムの共同プロデューサー兼共同作家として迎え入れた。2000年9月、エリェーナ・キーペル作詞、セルゲイ・ガロヤン作曲による「ヤー・サシュラー・ス・ウマー( / 私はおかしくなった)」が大ヒットし、一躍有名になった。イワン・シャポヴァロフは「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」のプロモーション・ビデオで、ヴォーカルの二人に同性愛の演技をさせ、これがセンセーションを巻き起こした。12月、シングル「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」を発表。2001年、同じくキーペルとガロヤンのコンビで「ナス・ニェ・ダゴニャット( / 私たちはつかまらない)」がヒットし、アルバム「200・ポ・フストレーチノィ( / (時速200キロで逆走)」(5月発表)が更にヒットした。これ以降、インターネットを介してその存在が世界中で話題となり、主に東欧各国でヒットチャートを駆け上っていった。また、西欧、北米への本格進出のために英語版の製作がはじめられた。2002年、トレヴァー・ホーンが編曲した「200・ポ・フストレーチノィ」の英語版「200 KM/H IN THE WRONG LANE」がリリースされ、さらに「ヤー・サシュラー・ス・ウマー」の英語版「All the things she said」のプロモーション・ビデオがリメイクされた。また、のラテン文字表記は、従来はキリル文字をそのまま翻字した「TATU」だったが、同名のグループが既に存在していたため、「t.A.T.u.」に改名した。この2002年の後半が人気の絶頂であったと言える。しかし、このころ既にメンバーの間では激しい軋轢が生じていた。イワン・シャポヴァロフが考案した「同性愛を前面に押し出した少女二人組」と言うコンセプトは、演じているヴォーカルの二人にとっては強い抵抗があった。また、最初にコンセプトを提供したエリェーナ・キーペルにとっても耐え難いものだった。またギャラ支払いの不明瞭さの問題もあった。しかし、このコンセプトの成功に確信を持ったシャポヴァロフは、ヴォーカルの2人の入れ替えを画策したため、結局エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンは脱退し、リェーナ・カーティナとユーリャ・ヴォルコヴァは踏みとどまった。の経済的成功は2003年まで続くが、エリェーナ・キーペルとセルゲイ・ガロヤンの脱退の影響は大きく、彼らの脱退後にリリースした曲はいずれも期待したほどヒットしたと言えなかった。2003年のユーロビジョン・ソング・コンテストでは政治的メッセージ性の強い「ニ・ヴェーリ、ニ・ボイスャ( / 信じるな、恐れるな)」をひっさげてロシア代表として参加した。しかしシャポヴァロフはヴォーカルの二人に反抗的な我がまま娘の演技を指導していたため、現地会場のファンの支持を得られず、3位に終わる。実際は、これ以前からユーリャ・ヴォルコヴァは喉の障害で十分な声が出なくなっており、2002年の12月に加入したカーテャ・ネチャエヴァがユーリャのパートを歌っていた(本番ではユーリャが歌った)。2003年になってようやく人気が日本に上陸したが、この頃にはシャポヴァロフの路線は完全に破綻していた。ヴォーカルの二人はそれぞれの交際相手を隠さなくなっていたし、彼女らの家族もシャポヴァロフのコンセプトは事実ではないことを明らかにしていた。キーペルやガロヤンの脱退後も踏みとどまっていたヴァレリー・ポリエンコもこの頃シャポヴァロフと絶縁し、の成功を支えた主要な作詞・作曲者は全ていなくなっていた。それでもファンがついていたのはガロヤンやヴォイチンスキーの曲に魅力があったからなのだが、シャポヴァロフはスキャンダラスな路線をさらに過激化させていった。なお、日本での初アルバム『t.A.T.u.』は国内盤と輸入盤の合計で200万枚が売れた。シャポヴァロフは、2003年4月にイギリスでの公演を無茶苦茶な理由をつけて直前にキャンセルしたのをはじめ、各地で不条理なドタキャンを指示。日本においても2003年6月27日、テレビ朝日のミュージックステーションで、冒頭には出演したものの、その後行方をくらました。のちのインタビューで、土壇場でプロデューサーから出演禁止令が出た旨を述べている。2003年12月に再来日し、東京ドームでのコンサートを2日間実施したが、両日とも5万人の会場の半数ほどが空席(公式発表によると、初日の動員数は25,029人だった)。公演前、S席7500円・A席6500円のチケットがネットオークション等に数百円ほどで大量に出回っていた。東京ドームコンサートの日、ユーリャ・ヴォルコヴァは体調を崩して出演できる状態ではなかったのだが、その歌唱力と表現力は集まったファンを納得させるものがあった。しかし、渋谷陽一・四方宏明などの絶賛以上に、従前の事件および事後報道が影響し、日本におけるブームは完全に失速したものとなった。また、このコンサートでもシャポヴァロフはヴォーカル二人に直前のキャンセルを指示していたために、ヴォーカルのふたりとシャポヴァロフの信頼関係は完全に失われた。東京でのコンサート後、リェーナ・カーティナが脱退を示唆する。シャポヴァロフはその後も、リェーナ・カーティナ及びユーリャ・ヴォルコヴァのロシア大統領選出馬表明等、無軌道なスキャンダル路線を指示し続けるが、その一方でセカンドアルバムの製作も発表し、その製作模様はドキュメンタリーとしてテレビ放送されることになった。また、2003年12月にはt.A.T.uの劇場アニメ化が発表された。「t.A.T.u. PARAGATE」というタイトルだったが、その後進展がなく立ち消えとなった模様である。2003年12月にロシアのSTSテレビでドキュメンタリー「アナトミヤ」が放映されたのに続き、2004年1月〜3月テレビシリーズ「タトゥー・フ・パドネベースノィ( / 天空の)」が放映されるが、その内容は、内部の軋轢とシャポヴァロフの無軌道ぶりだった。セカンドアルバムの製作は遅々として進まず、シャポヴァロフからはセカンドアルバムをより良いものにしようという気も、期日(放送最終日の3月14日)までに仕上げようという気も、まるで感じられなかった。リェーナ・カーティナとユーリャ・ヴォルコヴァにとってシャポヴァロフは、自分たちを世界的スターにしてくれた人物であり、何年も苦楽を共にしてきた親友でもあったが、この期に及んでもまともに活動をしようとしないシャポヴァロフを最終的に見限り、ついにシャポヴァロフに契約破棄を突きつける(2月)。シャポヴァロフはこの危機的状況を収拾しようともせず、番組もそのまま終了した。その後の4月スポンサーたちはこの混乱の責任はシャポヴァロフにあるとして彼を解任した。新プロデューサーには、前の副プロデューサーだったエリェーナ・キーペルに就任を依頼し、キーペル側も快諾したが、リェーナ・カーティナ、ユーリャ・ヴォルコヴァらはキーペルの復活を望まず、結局メイン・スポンサーであったボリス・レンスキーが自ら暫定プロデューサーに就任することになる。シャポヴァロフの解任後はドタキャン騒動は起きていない。レンスキーは、自身の作った歌の権利について側と争っていたエリェーナ・キーペルと和解すると同時に、ヴォーカルのリェーナ・カーティナとユーリャ・ヴォルコヴァを呼び戻し、更にセルゲイ・ガロヤン、ヴァレリー・ポリエンコと再契約することに成功した。ところがユーリャ・ヴォルコヴァが妊娠出産のため仕事が出来なくなり、結局2004年の秋までは実働しなかった。なお、2004年6月に「t.A.T.u.がt.E.m.A.に改名する」というニュースが流れたが、これはTEMAというグループ(2004年5月結成。とは無関係)の宣伝のために流したガセである。2004年の冬になると、出産を終えたユーリャが復帰し、トレヴァー・ホーン音楽活動25周年コンサートやベスラン学校占拠事件追悼コンサートなどで活動を再開している。また、リェーナ・カーティナの父で作曲家兼プロデューサーのセルゲイ・カーチンによればレーナのソロ活動も同時に行われることになるという。2005年1月20日。作曲担当のセルゲイ・ガロヤンと広報マネージャーのアレクサンドラ・ティチャンコが結婚する。ユーリャは、直前まで2人の交際を誰も知らなかったと述べる。2005年セカンドアルバムの英語版とロシア語版がそれぞれヒットし、MTVruの年間最高アルバム賞を受賞した。曲風はファーストアルバムより更に重厚になり、社会性が増した。シングルカットされた「All About Us」も、アルバムタイトルとなった「ЛЮДИ-ИНВАЛИДЫ(廃人たち)」も、現代の閉塞感への抵抗を秘めたものであることが明らかにされている。最初期からはしばしば陰鬱な政治性を歌に込めているが、セカンドアルバムはそれが前面に出てきた。インタビューでもセカンドアルバムのテーマが現代社会の暴力性の告発にあることを認めている。8月18日。再来日したは、東京・横浜・名古屋でミニライブをこなし、熱心なファンとの交流が図られた。またはじめて北海道に上陸し札幌ラジオ局に出演するなど地道な活動をおこなった。名古屋のライブハウスHOLIDAYでライブの準備中、客の不入りを理由にライブハウスと管理会社が中止を決定し、日本のマスコミが「またドタキャン」と面白おかしく報道したが、実際はファンは次のライブ会場J.MAXに移動の便宜がはかられたので混乱はなかった。今回では、「All About Us」収録時から合流していたバンドメンも一緒に来日し、ステージメンバーは6人となり、その顔ぶれはより国際的になった。函館からユジノサハリンスクに移動しただったが、ここで契約解除となるはずだったバンドメンの契約更新が決まり、来年製作予定のサードアルバムまでは6人組で活動することになった。帰国後ユニバーサルとの契約を解消したことから、独自レーベルを立ち上げるのか、セルゲイ・カーチンがプロデュースするのか、様々な噂が飛び交っている。フィリップ・キルコーロフとアーラ・プガチョワが一時の権利に関心があったことから、こちらの関係もささやかれている。9月27日には初のベストアルバム「THE BEST」が発売された。おなじみ「All the things she said」「Not Gonna Get Us」「All About Us」など全20曲を収録。一時期は日本版のみボーナストラックが収録されるという事になっていたが、結局インターナショナル盤と同じトラックリストとなった。しかし、日本では2004年までの事態で人気が完全に失墜した事もあってあまり注目されず、オリコン初登場は186位に終わった。日本では、これが2006年最後のリリースとなった。2007年リリース予定とされていた3rdアルバムは当年9月になっても発表されず、2008年にずれ込んだ。一方、元々2006年10月にリリースされる予定であった「TRUTH 〜LIVE IN ST.PETERSBURG〜」のDVDがAmazon.com限定で発売されることが決定している。これは、公式サイトで延期が発表されたのち、リリースが2007年8月24日に公式サイトにて緊急発表された。amazon限定という形ではあるものの、ようやくのリリースの運びになった。ネフォルマットは、「昨年4月26日ロシアのサンクトペテルブルクで行われた1万人の熱狂ライブとドキュメンタリー映像を盛り込んだ素晴らしい内容」と紹介している。10月17日、3rdアルバム「(英訳:Happy Smiles)」発売。9月頃より解散?との噂が流れる。しかしこれはファンらによる憶測であり、実際は「がソロメンバー活動も並行して開始する」というのが正しい。12月15日、3rdアルバム英語版「Waste Management」発売。新年のあいさつのビデオで、グループ解散の噂を否定。グループ解散を発表。ソロ活動へ。スニッカーズの新CMへの起用を機に7年ぶりの来日。スニッカーズのCMに出演していた内田裕也と対談し、内田が主催するニューイヤーズワールドロックフェスティバルへの出演依頼に快諾した。スニッカーズのCMは、同年9月に戸田市の野球場で収録された。しばしば、ヴォーカルのリェーナ・セルゲーエヴナ・カーティナとユーリヤ・オレーゴヴナ・ヴォルコヴァの二人組のみがt.A.T.u.であるかのように誤解されているが、厳密にはプロデューサー・作曲者・作詞者・各マネージャーを含むプロジェクト全体の名称である。ヴォーカルの二人だけを指すときは(タトゥーシュキ)と呼ぶのが正しい。片方だけを呼ぶときは単数形で(タトゥーシュカ)と呼ぶ。これはロシア語における「」の愛称形(指小語)であるが、このような言語学的解説は理解されにくいため、ニェフォルマット社では「」(タトゥーシュカ)は「」(タトゥー・ジェーヴシュカ、"の意)の略というより単純な説明をしている。
出典:wikipedia
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