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福田康夫

福田 康夫(ふくだ やすお、1936年(昭和11年)7月16日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、内閣官房長官(第67・68・69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)などを歴任した。東京府東京市生まれ、群馬県高崎市出身。大学卒業後、石油会社で17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする。父である福田赳夫の秘書を14年間務めた後、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙において旧群馬3区から出馬し初当選を果たす。第2次森内閣において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。2004年(平成16年)、自身の年金未納が発覚したため、3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。在任期間は1289日、内閣官房長官として歴代最長在任記録を残した(2016年7月、第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した菅義偉に抜かれ、歴代2位となる)。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。2007年(平成19年)9月、安倍の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補する。麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任。2008年(平成20年)9月、内閣を総辞職し、内閣総理大臣・自民党総裁の職を辞職した。1936年(昭和11年)7月16日、東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。戦時中、実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現:高崎市)に疎開していた。金古町立金古小学校(現:高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現:さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(昭和24年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、在中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった。1952年(昭和27年)3月、麻布中学校、1955年(昭和30年)3月、麻布高等学校卒業。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる。1959年(昭和34年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(昭和37年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格・量の動向の予測・判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた。このときオイルショックを経験している。1966年(昭和41年)に元衆議院議長桜内義雄の姪の嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚。政界入りはしないとしていた福田だが、父の後継者とされた次男で養子に出した横手征夫が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す。1976年11月に会社を退社し、衆議院議員秘書となり、1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。このことで、議員になる前より外務省にパイプができた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員選挙で、群馬3区から出馬して当選(小選挙区制導入後は群馬4区選出)。初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた。連続7回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。議員としては、外務政務次官、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。2000年10月、第2次森内閣でスキャンダルで辞任に追い込まれた中川秀直に代わり、内閣官房長官および沖縄開発庁長官に就任する。後任人事として小泉純一郎、尾身幸次、町村信孝が挙げられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」と考え推薦した。福田はこの時点で閣僚経験が皆無だったため、官房長官への起用には疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役を務めた。森の失言の度に福田が会見でとりなし騒動を収めるというパターンが出来上がり、「弁明長官」と呼ばれた。2000年12月の第2次森改造内閣(中央省庁再編前)において内閣官房長官に留任し、沖縄開発庁長官は退任。翌年1月に成立した第2次森改造内閣(中央省庁再編後)で内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。2001年4月に組閣した第1次小泉内閣において引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に就任した。2002年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第1次改造内閣でも、引き続き内閣官房長官および男女共同参画担当大臣に留任した。2003年9月の内閣改造により成立した第1次小泉第2次改造内閣では、内閣官房長官に留任するとともに、男女共同参画担当大臣の改称により設置された内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)に就任した。森政権に引き続き小泉政権においても2度にわたる内閣改造で留任し在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた。官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。これにより、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。騒動の末小泉は田中を更迭し、後任に川口順子を起用する。これは、引き続き官邸外交は福田に任せたい小泉の意向であった。川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、外務省との調整は官房長官の福田が事実上取り仕切ったためである。男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした。在職中は、元中華民国総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。中国や韓国等の、靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、保守派の一部から「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った。4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間のうち、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。2004年5月7日 定例記者会見の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った。年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した。2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、福田に自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていたが、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。9月23日実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選、第22代総裁に就任。2007年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。翌9月26日に、宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し(福田康夫内閣)、日本憲政史上初の親子での総理大臣就任となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)である。同年11月、福田と民主党代表小沢一郎との間で大連立構想が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。第169回国会では、問責決議が1998年10月16日の額賀福志郎以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、田中義一、吉田茂に続き3人目であり、現行憲法で参議院からは初である。2008年8月2日、内閣改造により福田改造内閣が発足した。それに併せて、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自由民主党執行部の人事も刷新した。閣僚の参議院枠は参議院自民党の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長尾辻秀久による推薦を一切無視し、福田の独断で林芳正や中山恭子らを入閣させ舛添要一を留任させた。また、副大臣も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の鴨下一郎らが起用された。また、内閣総理大臣補佐官は、渡海紀三朗が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。2008年9月1日、午後9時30分より緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」ということを述べた。2008年9月24日、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に大型国政選挙が無かったのは羽田内閣以来となる。内閣総理大臣退任後、インター・アクション・カウンシルのメンバーに就任し、2009年の総会ではヘルムート・シュミット、ジャン・クレティエンらと世界金融危機等政治経済の国際的な諸問題について討議した。また、麻生政権にて度々特派大使として各国を訪問し、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている。2009年7月の天皇・皇后北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、今上天皇、皇后に随伴しカナダやアメリカ合衆国ハワイ州を訪問した。2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人で元フジテレビ社員の三宅雪子に苦戦を強いられ一時落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした。2010年4月、世界経済フォーラムのアジア版として設立されたボアオ・アジア・フォーラムの年次総会にて、フィデル・ラモスの後任として理事長に選出された。人口問題をライフワークとすることから、アジア人口・開発協会の理事長に就任するとともに、25か国の国会議員らで構成する「人口と開発に関するアジア議員フォーラム」にて議長を務めている。同フォーラムは各国で立法作業の支援活動を展開しており、それらの活動が評価され国際連合人口賞(団体部門)を受賞した。2010年6月、福田は国際連合本部ビルに招かれ、国際連合副事務総長のアーシャ=ローズ・ミギロからメダルを授与された。2010年の防衛大学校開校記念祭観閲式には、横須賀市の市長である吉田雄人らとともに来賓として出席した。麻生内閣の退陣と鳩山由紀夫内閣の成立により福田は一介の国会議員となったが、その経験を買われ、当時の民主党政権側から助力を求められることも多かった。2010年10月には、内閣総理大臣の菅直人に助言を請われ、アジア太平洋経済協力など外交分野について指南した。2012年9月26日の自由民主党総裁選挙終了後に地元選挙区の後援会会合に出席、その後に「次期衆議院議員総選挙に出馬せず、今期限りで議員を引退する」意思を表明した。同年11月16日の衆議院解散にともない、衆議院議員を退任した。退任に際して、衆議院を解散した内閣総理大臣野田佳彦について「解散しなければいけないと分かりながら、引き延ばした。その間政治が停滞した。行政も予算編成も止まり、特に経済は相当な影響を受けた」と厳しく批判するとともに「政権交代が結果的に失敗だったことが、明白になった」と総括した。また、自身の政治活動を振り返り「『正しい政治をしたい』、そういう気持ちだけでやってきた。日本全体と多くの人に良い結果をもたらすような精神を貫いていきたい」と語った。同年11月に自由民主党群馬県第四区支部の党員大会が開催され、後任として長男の福田達夫の支部長就任が承認された。ネルソン・マンデラの死去に際し、2013年12月9日に「故ネルソン・ロリシュラシュラ・マンデラ元南アフリカ共和国大統領の追悼式に参列する特派大使」に任命された。それに伴い南アフリカ共和国に渡航し、皇太子徳仁親王らとともにマンデラの追悼式に出席した。なお、同月24日まで特派大使を務めた。2014年7月27日、北京を訪問し習近平主席と極秘の会談を行ったことが明らかにされた。2015年1月25日、サウジアラビアの6代目アブドラ国王が死去したことにより、皇太子とともに特派大使として弔問に派遣される。2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した。なお、「自立と共生」は10年前から新生党、旧民主党の理念として使われており、民主党代表の小沢一郎は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している。一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は大隈重信が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。前任の安倍晋三と比べると、多国間の協調を重視する姿勢が強いと評価されている。しかし、一方で他国に過大な配慮を行っているとの批判もあり、全方位土下座外交と呼ばれることもある。身長171cm、体重70kg。趣味はベルリオーズ、バルトーク、シューベルトなどのクラシックの鑑賞。中学2年の時にベートーヴェンの交響曲第5番のレコードを貰ったことがきっかけである。好物は蕎麦、うどん、カレーライス、肉類。ワイン通としても知られる。勝海舟が好きで、歴史小説を中心に多くの本を読む。座右の銘は「誠実に日々一生懸命」、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」(勝海舟)。スポーツが好きで、若い頃は登山、スキー、ゴルフ、ボウリングなどをしていた。現在の唯一のスポーツは速歩である。好きな映画としては『黄色いリボン』などの西部劇、俳優としては高峰秀子や藤原紀香を挙げている。愛犬家でありウェルシュ・コーギーを首相公邸で飼育している。サラリーマン時代の米国赴任の経験から英語が堪能。環境に配慮し、天然ガス自動車に乗っている。冷静沈着な風貌で、会見時の冷笑的態度がよく知られていたが、実際には瞬間湯沸かし器といわれるほど激昂家である。官房長官時代は官房副長官を務めた安倍晋三の上司であったが、日本人拉致問題で帰国した被害者をいったん帰す意向であった福田に安倍が反発。この際「余計なことはするな」と机を蹴り上げて安倍を叱責したという。その他、官邸の官房長官執務室で大仁田厚に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」と説くなど、ときに熱血漢ぶりを発揮することもある。政敵の菅直人は、官房長官時代の福田について「斜に構えているが泥をかぶってもやり遂げるというところがあった。小泉首相・福田官房長官というのは中曽根首相・後藤田官房長官を思わせる」と評している。脚本家の三谷幸喜は、当時の菅と福田を対比し、福田の物言いについて「明らかに面白いことを言おうという意思がうかがえ、しかも確実に面白いことを言っている」と評した。坪内祐三も「福田さんのブラックジョークが好きだった」としている。自民党の数少ない外交族である。政界において外交は票に繋がらないというのが定説の中、父から継いだ強固な地盤で選挙には絶対の自信を持っていたためである。田中が外相時に外交が著しく停滞する中、官房長官として外務省を直接取り仕切り破綻を防いだ。これを小泉が高く評価し、後任の川口時代も実際に外務を取り仕切ることとなった。小泉政権で福田と共に閣僚を務めた竹中平蔵は、首相就任後の福田について、クールアース推進構想での数値目標導入、公務員制度改革での内閣人事庁の新設、道路特定財源の一般財源化表明などを例示し「一カ月に一回くらい結構大きな決断をしている」と指摘し「福田総理は改革に後ろ向きであるわけではない」としている。同時に、竹中は福田政権の問題点として、福田によるプロアクティブな改革への取り組みを国民はリアクティブな改革として受け止めていると指摘し、「『政策マーケティング』に問題あり」と評している。福田政権で内閣総理大臣補佐官(社会保障担当)を務めた伊藤達也は「福田氏は厚労省改革で強い指導力をみせた」と評価した上で、福田は手柄を独り占めしようとせず「手柄を全部われわれに与えようとする」と指摘し「目立とうとしない政治家は珍しい」と評している。慶應義塾大学環境情報学部教授の福田和也は、公文書管理体制の強化を推進した福田について「あの人まじめだから、役所の記録とかを几帳面にきちんと文書化して残してるんだよ。きっと50年後の研究者はすごく助かると思う」と指摘している。言語学者の東照二は、福田は情報を伝える効果をもつリポート・トークと呼ばれる話し方を得意とする一方、他人に感情を伝え、相手との共感を高める効果をもつラポート・トークと呼ばれる話し方が「できていない、どうていいかわからない」人物であると指摘している。また東は、情報中心の言葉を多く使う福田が情緒中心の言葉を使う場面は往々にしてラポート・トークに結びつく「共感」「仲間意識」ではなく「怒り」「恐怖」「不満」を表明するときだとも指摘し、マスコミが福田の発言スタイルを「他人事節」と名付けたのは、「個人の強い思い入れ、心の底から湧いてくるような熱い思い、積極的な態度というものが浮かび上がってこない」特徴を指したものだとしている。

出典:wikipedia

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