赤羽線(あかばねせん)とは、東京都豊島区の池袋駅と東京都北区の赤羽駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。1985年(昭和60年)9月30日以降は運行系統の名称である埼京線と呼称・案内されている(後述)。山手線と東北本線とを結ぶ5.5kmの路線である。「赤羽線」は当該区間の正式名称で、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていた。しかし、東北新幹線の上野延伸の見返りに建設された当時の仮称通勤新線と、同時に電化した川越線との一体運行が実施された1985年(昭和60年)9月30日以降、ここを通るすべての旅客列車は埼京線と案内されるようになった。現在では、旅客案内などの営業上では「赤羽線」と呼ばれることは一切ない。なお、JR東日本の公式サイト(「埼京線」と併記)や、池袋駅 - 赤羽駅間の踏切、定期券や回数券、マルス端末発行による乗車券の経由表記においては現在でも赤羽線と稀に表記されることがあるが、埼京線と併記されることがほとんどである。また市販の『JR時刻表』の埼京線のページでは、「池袋-赤羽間は赤羽線」との表記がある。現在は全線が旅客営業規則の定める電車特定区間、同規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。湘南新宿ラインの池袋 - 赤羽間の実際の運転経路は山手貨物線・東北貨物線経由であり、本来の運賃および料金の計算は池袋 - 田端 - 赤羽という経路をとるものとするが、旅客営業取扱基準規程第110条における「当該記号の末尾のかつこ内上段の区間を乗車するときは、規則第67条の規定にかかわらず、○印の経路の営業キロによつて旅客運賃、急行料金及び特別車両料金を計算することができる。」との条文により、この間を赤羽線(板橋)経由で運賃・急行(特別急行を含む)料金および特別車両料金を計算することができる(列車特定区間)。しかし、必ずしも赤羽線(板橋)経由で計算しなければならないわけではなく、旅客の選択にゆだねられる。全区間が東京支社の管轄である。本節では、運行系統の名称として案内上「赤羽線」が使用されていた時期について記述する。案内上の運行系統名称が「埼京線」となった以降の車両については「埼京線#車両」を参照。すべて電車である。■の色は車体色。行き先表示は101系と103系低運転台車は2段の両終点表示(上段「池袋」、下段「赤羽」)、103系高運転台車は線名(「赤羽線」)を表示していた。なお、1985年(昭和60年)に製造が開始された205系は、その当時、首都圏共通の行先表示幕を使用していたため、「赤羽線」・「赤羽」・「池袋(これは山手線として使用)」の行先表示を装備していたが、埼京線化される前に運用されたことは無い。103系の編成については、前述の通りMMユニット(編成中間の電動車)とサハ車(編成中間の付随車)が山手線からの捻出車でかつ非冷房車であり冷房電源が通ってなかったため先頭車両が冷房を搭載しているクハ103形ATC車にもかかわらず冷房が使用できず、10連化用のMMユニットであるモハ103-787+モハ102-2044…(ランボードが201系量産車タイプとなり塗屋根及び冷房装置がSUSカバーのAU75G/E系という点が同時期に落成した九州用1500番台及び185系200番台と同様である)の落成まで待たねばならなかった。非冷房のクハ車(制御車)の転出で、山手線編成のまま編成中間のMMユニットがAU75B/S/H/M系冷房装置搭載(サハは非冷房車)の8連で転入して来たのが当線唯一の冷房車であった。最終ユニット車が到着すると、優先的に2・3号車と8・9号車へ組み込まれクハ103形の冷房電源スイッチが使用できるようになるが、当線用のカナリア色(黄色)車として長くは続かず埼京線開業と川越線電化開業の準備対策としてウグイス色(黄緑色)へ変更された。最終ユニット車も2年余りでウグイス色へ変更されて埼京線・川越線の車両基地である川越電車区へ転属した。現在の東北本線などを敷設した日本鉄道が、現在の東海道本線との連絡線として1885年(明治18年)に敷設した赤羽駅 - 新宿駅 - 品川駅の路線(品川線)が起源である。つまり、赤羽線は山手線の元の本線だった。現在も池袋駅では山手線のほうが東にカーブを描いているのはそのためである。1903年(明治36年)、同じ日本鉄道の路線だった常磐線(こちらも当時は、田端駅 - 三河島駅間が本線だった)へ線路をつなげるために、池袋駅から田端駅へ支線(豊島線)が造られた。1906年(明治39年)に日本鉄道が国有化された後、1909年(明治42年)に赤羽駅 - 品川駅間、池袋駅 - 田端駅間を山手線とした。しかし電車は品川駅 - 池袋駅 - 田端駅 - 上野駅と運行するようになり、また1925年(大正14年)に山手線が環状運転を行うようになったときも、環状運転をする電車は池袋駅 - 田端駅間を運行したため、実質的に池袋駅 - 赤羽駅間の方が支線のような状態となった。以降、池袋駅 - 赤羽駅間での区間運転のみの列車が運行され、赤羽線、赤チョンなどと呼ばれる。1972年(昭和47年)、線路区間表示等が変更された際に、正式に池袋駅 - 田端駅間の方が山手線の本線となり、池袋駅 - 赤羽駅間を山手線から分離、それまで通称として使われてきた「赤羽線」が正式に線の名称となった。国電として101系・103系電車が路線ごとに特定のカラーリングを導入し、新性能化に際して山手線の黄色(カナリア色)の101系が転用されたため、黄色が赤羽線の路線色となった。しかし、101系運用時より黄緑色(ウグイス色)の山手線の103系による代走がたびたびあったほか、関西地区から借り入れた朱色の101系が走ったこともあった。また、1978年(昭和53年)に101系が山手線から転用の103系に置き換わった後も、転用直後あるいは一時借り入れで黄緑色の車両が多かったうえ、1編成を山手線との共通予備として黄緑色(一部の車両は黄色から黄緑色に戻した)としたため、黄緑色編成および黄緑・黄色の混色編成が多く見られた。浦和・大宮方面と池袋・新宿といった、山手線の西側を結ぶ短絡線として、利用が多い路線であったが、1985年(昭和60年)に東北本線別線(赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅)が開業し、同時に川越線の電化も行われ、赤羽線との直通運転が開始され、この時から赤羽線と東北本線別線は「埼京線」として案内されるようになった。なお、埼京線は山手線と同じ黄緑色のラインカラーとなり、埼京線開業までに黄色の車両はすべて黄緑色に塗り替えられた。貨物輸送を行っていた当時は、板橋駅までのセメント輸送と砂利輸送があり、日本全国の国鉄各線のほかに東武鉄道葛生駅と西武鉄道所沢駅・吾野駅・東横瀬駅への砂利運搬列車が存在し、東武の無蓋車トキ1形と西武の無蓋車トム形の姿も見られた。東武は池袋駅 - 北千住駅 - 東武伊勢崎線・佐野線 - 葛生駅間、西武は池袋より西武池袋線・西武秩父線直通で所沢・吾野・東横瀬への運用が主であった。西武車は武蔵野線が開業すると秋津駅 - 新秋津駅間の連絡線経由となり発着駅も中央本線酒折駅となったことで消滅。東武車は廃止されるまで葛生への運用があった。そのほかに、東武鉄道向け新車輸送も行われ、車両メーカーから池袋経由板橋(途中の東上線下板橋駅で引き渡しするための連絡線が存在していた)で輸送されていた。旧型電車から東武8000系電車初期車までがこれにあたり、下板橋のほか川越駅でも新車引き渡しが行われていたので、少なからずも現在の埼京線にあたる区間において東武向け電車が甲種輸送ながら走っていたことになる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。