やせうま(痩馬、八瀬馬)とは、小麦粉で作る大分県の郷土料理。または、その原型と考えられる、涅槃会に供える上新粉または小麦粉の団子。小麦粉で作った平たい麺をゆでたものにきな粉と砂糖をまぶした食べ物。形状は麺に分類されるが包丁は用いず、水で練った小麦粉(薄力粉であることが多い)の塊から指で引きちぎるように作る。麺類の系統からいえば、切らずに手で押し広げて作られた餺飥(はくたく)の系統に入る。やせうまと同じ麺を、野菜などとともに味噌仕立ての汁に入れたものがやはり大分県の郷土料理として有名なだんご汁である。やせうまは一般におやつとして、そのまま、もしくは、冷やして食べる。大分県の一部地域では、お盆や七夕にやせうまを供える習慣があったり、学校給食でしばしば出されるほど地域に根付いた料理である。現在でも家庭で麺を作ることは多く、手で伸ばすが、スーパーや土産物屋などで売られている麺は製麺機で製造し、切り分けた「ほうとう」状であるものが多い。形状も材料も似るが、大分県では山梨県の「ほうとう」をおやつとして使うことは少ない。素朴な庶民の食べ物として現在もよく食べられていて、別府市などで、店頭で食べさせる店も多い。手で握った形が馬に似るところから痩馬(やせうま、やしょうま)と呼ばれたものとされる。20世紀に日本各地の方言を調査して編纂された『日本方言大辞典』には「痩馬」という項目があり、類似の名前をもつ、日本各地のいくつかの食品が記載されている。また、江戸時代の柳亭種彦の随筆『用捨箱』(ようしゃばこ)には「古くより白糸餅といふあり。細くねぢりたる物にて、馬の形にはあらざれど、異名を痩馬といへり。これもしんこ馬に対しての名なるべし」とあり、当時からこのような食品が食べられていたことがわかる。大分県における通俗的な口承では、大分のやせうまの「やせ」は京都の「八瀬」であるといわれるが、大分での局地的伝承を裏付ける確実な文献は旧挾間町(現在の由布市)の挾間町誌のみである。以下では口承を中心に、挾間町誌の説明を補いながら説明する。平安時代、都から藤原鶴清麿という幼い貴族が豊後の国に下向し、黒野(挾間町誌では古野下原、現在の由布市挾間町古野地区、由布市医大ケ丘地区および大分市東野台地区)に隠れ住んだ。鶴清麿の身の回りの世話をする女は、京都の八瀬出身だったらしく「八瀬(やせ)」と呼ばれた(挾間町誌では、大原八瀬とフルネームで記載されている)。八瀬は信仰深く、鶴清麿と共に妙蓮寺の地蔵菩薩を参詣していた。その時、鶴清麿はお腹が空くと、八瀬は、ときおり小麦粉をこね、長く伸ばして麺状にしてゆで、これにきな粉をまぶしたものを作って、鶴清麿に食べさせた。鶴清麿はこの食べ物が欲しい時、「八瀬、うま、八瀬、うまくれ」(「うま」は食べ物の幼児語。まんま)といい、これが「やせうま」の語源となったとする。現在でも妙蓮寺では、お盆の二十三日には御施餓鬼会の行事の一環として、やせうまが作られている。これが習慣化され、現在に至るとされている。また、この妙蓮寺の地蔵菩薩がある、由布市挾間町古野に、挾間町誌を抜粋した『やせうま発祥の地由来』の看板がある。
出典:wikipedia
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