初夜権(しょやけん)とは、主に中世のヨーロッパにおいて権力者が統治する地域の新婚夫婦の初夜に、新郎(夫)よりも先に新婦(妻)と性交(セックス)することができたとする権利である。世界各地で散見されたという伝説や伝承は多く残っているが、その実在については疑問視する声もある。初夜権(しょやけん)とは、領主や酋長などの権力者、または神官や僧侶などの聖職者、あるいは長老や年長者といった世俗的人格者などが、所有する領地や統治する共同体において、婚約したばかりの男女や結婚したばかりの新婚夫婦が存在した場合、その初夜において新郎(夫)よりも先に新婦(妻)と性交することができる権利を指す。または、成人(大人)の年齢や結婚適齢期を迎えた女性と何らかの性行為を行い、その処女性を奪うことができる権利なども指す。初夜権について記録された文献は古今東西に多く存在しているが、伝聞や伝承の記録に留まることが多く、その真偽については「形骸化された儀式や儀礼(セレモニー)」や「結婚税などの徴収理由として方便化したり風聞化したもの」、あるいは「成人への通過儀礼を拡大解釈したもの」などと見なすが多い。後述の「真偽」も参照のこと。初夜権の語源は、ラテン語の「ユス・プリマエ・ノクティス(Jus Primae Noctis)」が最初に意訳された言葉として知られる。「Jus」は「権利」、「Primae」は「最初の」、「Noctis」は「夜」である。現在はフランス語の「ドゥワ・デュ・セニエル(Droit du Seigneur)」が初夜権を意訳する言葉として世界各国で知られており、直訳は「領主の権利」といった意味である。英語では「ゴッズ・ライト(God's right)」で「神の権利」や「ローズ・ライト(Lord's right)」で「領主の権利」などとして初夜権を意味したり、「ローズ・ファーストナイト(Lord's first night)」で「主の初夜」や「ライト・オブ・ザ・ファーストナイト(Right of the first night)」で「初夜の権利」とする場合が多い。初夜権の日本における類語には、「初婚夜権(しょこんやけん)」や「処女権(しょじょけん)」などがある。また、ごく少数ではあるが「股の権利(またのけんり)」や「股権(またけん)」という隠語が使用されることがある。なお、女性の処女喪失や処女性が失われるような性行為は、古くは「破瓜(はか)」や「破素(はそ、はす)」などと呼ばれた。また、主に四国地方の古い方言とされる「新鉢」は、「あなばち」や「あらばち」と読み、「あなばち割る」や「あなばち破り(わり)」、「はち割り」などが処女喪失の儀式を意味するなど、様々な類語が存在している。初夜権の時代と地域は、主に中世(5世紀頃から15世紀頃)のヨーロッパで存在したとする説が多い。また、インドのヒンドゥー教や東南アジアの仏教を信仰していた民族、北極圏のエスキモーや南米のインディアンの中に存在した祈祷師(シャーマン)を頼っていた人々などにも散見されたとする説が多い。1921年に博物学者の南方熊楠が、雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支(干支)考」の項目「鶏(酉)に関する伝説」では、カール・シュミット(Karl Joseph Liborius Schmidt, 1836-1894)による1881年の著書「初婚夜権」が引用されている。なお、この著者はドイツの法学者カール・シュミットとは別人である。この著書は、「フライブルヒ・イム・ブライスガウ(現:ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州にあるフライブルク市、Freiburg im Breisgau)」の役所がカトリック教会と共に出版した当時の歴史調査書であるが、この中では、ヨーロッパの他にインド、アンダマン諸島(インドのベンガル湾地域)、クルディスタン(クルド人居住地域)、カンボジア(チャム族)、チャンパ(ベトナム中部沿海地域)、マラッカ(マレー半島西海岸南部)、マリアナ諸島(ミクロネシア北西部)、アフリカ、南米や北米の原住民などに散見されたとしている。なお、初夜権を題材に取り入れた著名な物語に、フランスの作家カロン・ド・ボーマルシェが1775年に発表した「セビリアの理髪師」の続編として1784年に書き上げ、1786年にオーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがオペラ上演した戯曲「フィガロの結婚」が知られている。この「フィガロの結婚」は、新郎フィガロから新婦スザンナを強引に奪い取ろうとする浮気者のアルマヴィーヴァ伯爵が様々に邪魔をして、初夜権を復活させようと企む喜劇である。権力者の所有権として、処女の女性や初婚の女性が土地や年貢と同一視されていたとする説がある。または、結婚税などと称して徴収されていた税金に対する反感が、「支払うことができれば妻の処女を権力者から取り戻せる」といった風説として変化しながら初夜権になったとする説などがある。なお、これらの税金は「処女税(しょじょぜい)」や「肌着金(はだぎきん)」と呼ばれたという。また、フランス語の「Droit du Seigneur」が広く知られるようになったのは、フランス国王があらゆる所有権を持つと制定されていたものの、これを完璧に個別行使することは不可能であり、転貸として地方の領主や富裕層などへ譲渡することで代行役として認め、この中に初夜権があったとされるためである。処女の血を忌み嫌う風習や迷信があったため、出血の可能性がある処女喪失の際、これを回避できるのは神の代理人や悪魔払いが可能な聖職者や祈祷師(シャーマン)、または神と同等と見なされた権力者だけだったとする説がある。また、16世紀から17世紀に盛んだった迷信に魔女狩りがあり、悪魔が処女の血を好むため、同時期の初夜権には新婚夫婦が厄災に見舞われないように代行する意味が込められていたとする説などがある。なお、処女に対して重要な意味を持たせた宗教や呪術は古今東西に多く存在しており、11世紀のカトリック教会では、処女であることを見極めるために視診や触診による糾問法(きゅうもんほう、検査法)が定められていた。15世紀のフランスで「聖処女」と呼ばれたジャンヌ・ダルクも、ベッドフォード公爵とその夫人がこの糾問法に従って検査を実施している。また、地域や時代によっては、処女に死刑判決が出た場合、執行までに第三者が性交を済ませておくことで神や悪魔からの厄災を避けるような風習もあったという。後述の「初夜の忌(トビアの晩)」も参照のこと。あるいは、性的経験が豊富な年長者などがその女性の成人(大人)への通過儀礼を担当していたことなどが初夜権に発展したとする説などがある。また、その女性の貞操よりも、子孫繁栄を維持できる体に成長しているかどうかを重視して、これを確認する儀式だったとする説も多い。前述した初夜権の意義に反し、新婚夫婦が拒否する場合は様々な罰金や罰則が課されたという。事例として、1538年に発行されたスイス北部のチューリッヒ州議会の布告によると、初夜権を拒否する場合は新郎が4マルク30ペニヒ(1マルク Mark = 100ペニヒ Pfennig)の罰金を支払わなければならないと定められていた。また、ドイツ南部のバイエルン地方では、初夜権を拒否した新郎は「上衣か毛布」を、それと合わせて新婦は「自分の尻が入るサイズの大鍋」か「自分の尻と同じ重さのチーズ」を罰則として納めなければならない習わしがあった。ただし、これらがいわゆる「形骸化した儀式や儀礼(セレモニー)」であった可能性は高く、結婚税に相当する税金の徴収理由や呪術的な厄払理由として都合よく正当化されたり通俗化された方便に過ぎなかったとする説も多い。古今東西で初夜権について言及した文献は多いが、風聞や又聞き、伝説や伝承を記録したものがほとんどである。1931年の「ウルトラ・モダン辞典」(一誠社)では「婚姻史の教ふ所に拠れば、初夜権は必ずしも花婿の専有でなく、或は神主、或は媒酌人その他がそれを有した時代もあったさうである」と、伝聞形式でそのまま解説として掲載している。なお、この「婚姻史」とは、1928年に民俗学者の中山太郎が発表した著書「日本婚姻史」を指すが、この本の第一節に「初夜権の行使は団体婚の遺風(いふう、名残り)」とする章がある。中山は「(農村や漁村などの)部落の共有であった女子が共同婚(複婚や乱婚)から放たれて、一人の特定する男子の占有に帰するために科された義務」と述べているが、その書き出しには「本書の埒外(らちがい、範囲外)に出るので省略するが、私見を素直に言えば」との但し書きも加えている。「日本婚姻史」は貴重な民族史の記録であるが、このように信憑性が検証できるような専門家による文献でさえも、「聞いたことがある」や「そうだったのではないか」程度の推測に留まるものが多く、一般的に解釈される初夜権の実在についてはほとんどの文献で真偽が断定されていない。また、風聞や又聞きであった場合は、かなり恣意的な誇張表現や拡大解釈に過ぎた記述も多く、それらの「実在した」とする説は信憑性を疑わざるを得ない。ただし、実際に時間を遡ることは不可能であり、過去の歴史文献に頼らざるを得ず、また、非常にプライベート性の高い風習であるがゆえに確認が困難であるといった要素なども多々ある。ただし、少なくとも、民俗学の基本であるフィールドワーク(現地調査)によって実際に「初夜権の行使」あるいは「同等の性行為」を「著者自身が見た」とする文献はごくまれである。そのためか、社会学者の井上吉次郎などは、「中世初期の無法時代」などに「たまたま行われたことはあったかもしれない」が、「人非人(ひとひにん、人で無し)の貴族」または「暴力的俗王と同じ範疇の俗僧の神の名による詐術(さじゅつ、詐欺)」の範疇であり、権利と称して公式に認められるような性行為の史実はなく、「永久に西欧史上の神話かと考えられる」と、ほぼ完全に否定している。日本における初夜権の存在は、古代の神事や祭祀を起源としたり、は多いものの、存在の有無まで断言している文献は少ない。ただし、世界各国のあらゆる宗教や風習と同様に、成人(大人)になる若者を年長者が祝福し、それを村や町などの共同体の人々に紹介するような通過儀礼はごく日常的に存在していた。また、処女の女性、あるいは成人に達していない未婚の女性の所有権が神にあるとする考え方が存在していたため、結婚した最初の数日間は神に敬意を表する意味合いで性交を禁じる風習(後述の「初夜の忌」を参照)や、新婚夫婦に厄災が降りかからぬように第三者の男性が新婦や処女との性交を代行した事例は散見されている。したがって、これらの風習や儀式を拡大解釈するという前提であれば、初夜権またはそれと同等の性行為が過去の日本に存在したのではないかと推測するは多い。また、神事や祭祀であることから、あくまでも形骸化した儀式や儀礼(セレモニー)へ変化し、近代になるにつれ実際に処女を奪うような性行為そのものは衰退していったとするも多い。古代の神道において、神と交流できるのは、男性であれば神主、女性であれば巫女のみであった。したがって、まだ精通経験のない男性や童貞の男性、初潮経験のない女性や処女の女性は、神や共同体の所有物であり、彼らを成人の社会へ導けるのは神主や巫女のみとされた。ここから、処女や新婦の女性を臨時的に巫女と同等に見なし、神の代行役である神主や媒酌人が性交することで神の怒りや厄災を回避したとする説がある。また、こういった考え方を受け継いだ風習が近代前後まで各地に残っていたとする説も多い。なお、前述した中山太郎の著書「日本婚姻史」では、奈良時代の「日本書紀」(允恭紀)や平安時代の「本朝文粋」(意見十二箇条)などを事例に挙げ、神主や「座長(かみのくら)が処女を要求できた」とする説を紹介しつつ、「一種の呪術として処女膜を破る儀式」などが、現代では一般的に解釈される初夜権と同一視されがちだが「似て非なるものであることを注意されたい」と述べている。一方で、民俗学者の折口信夫は1926年に雑誌「人生創造」(人生創造社)に発表した「古代研究」の中で、少なくとも奈良時代以前の神主は初夜権と見なしてよい権利を持ち、現人神(あらひとがみ)と見なされた豪族などは「村のすべての処女を見る事の出来た風(確認することが可能だった世情)」が、近代まで残っていたと述べている。また、朝廷に従える采女(うねめ)や「巫女の資格の第一は神の妻(かみのめ)となり得るか」どうか、つまり処女であるかどうかが重視されており、たとえ常世神(とこよのかみ、神の代理役)であっても現実的に貞操を守り続けることは困難であったため、処女や新婦は一時的に「神の嫁として神に仕へて後、人の妻(ひとのめ)となる事が許される」ような儀式へと変化し、これらが「長老・君主に集中したもの」が初夜権と同等であっただろうと述べている。また、「神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方」などもあったため、当時の性に対する感覚や処女の立場、初夜権の発生原因などを理解しないと「古事記・日本紀、或は万葉集・風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多い」とも述べている。近代以前を1900年頃よりも前として定義し、初夜権やその名残りとして記録された主な事例を北から南の地方順に挙げる。なお、文末括弧にある名前は、(中山)が民俗学者の中山太郎、(折口)が民俗学者の折口信夫による著書からの抜粋である。近代以降を1900年頃よりも後と定義して、初夜権やその名残りとして記録された事例を挙げる。映画倫理委員会(映倫)事務局長を務めた阪田英一の回想録に、1970年に警視庁防犯部が猥雑性を指摘したピンク映画の中に「初夜権」というタイトルの作品があったと述べられている。この作品の内容や制作会社、上映認可の可否などは不明である。あらゆる学問において博識であり、フィールドワーク(現地調査)を盛んに行った博物学者の南方熊楠は、自著の中で何度か初夜権について言及している。その中で特筆すべきなのは、南方自身が「見たことがある」として述べた著書が存在することである。これは、1925年に発表した自伝的随筆「履歴書(矢吹義夫宛書簡)」の中の項目「僻地、熊野」で述べられており、文中の書き出しに「紀州の田辺より志摩の鳥羽辺まで」とあることから、故郷の和歌山県から三重県辺りを指す地域と考えられる。また、「二十四年前に帰朝した」時期とあることから、留学先の欧米諸国から帰国した1900年頃の出来事であったと思われる。「割ってもらう」とは破瓜を意味し、「おりしを見」とは「折り敷き(おりしき)」と呼ばれる姿勢で「片膝立ちになってみせて」という意味である。ただし、これを以って南方自身が初夜権であると指摘しているわけではなく、当時の性交経験の年齢が現在よりも格段に低かったことなども考慮すると、くじ引きに当たった男性が犯した「十七、八の女子」が処女だったのかどうなのかは疑問も残る。実際、この記述の直後に、「十四、五に見える少女」が赤子を背負いながらに若い少年に「種臼(たねうす)切ってくだんせ」と頼む様子も見たことがあると述べている。「種」は「子種(こだね、男性器)」であり、「臼」を「女陰(にょいん、女性器)」として、仏典の事例から「悟り申した」と推測している。一方、 1921年に雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支考」の項目「鶏に関する伝説」の中では、カール・シュミットの「初婚夜権」を手初めに様々な初夜権の事例を挙げている。これは、南方が「読んだ」ことのある古今東西の文献から紹介されており、文中で雑多に列挙しながら「奇抜な法じゃ」や「処女権の話に夢中になってツイ失礼しました」と茶化すような記述もあって、その直後には続けて「女の立ち尿(たちいばり、立ち小便)」の歴史について脱線してしまうような破天荒な構成にもなっているため、その真偽までは不明である。以下、「鶏に関する伝説」で紹介された初夜権の事例を、大まかな地域ごとに整理して抜粋する。なお、漢数字による出典は南方自身のものである。初夜の忌(しょやのい)とは、日本において結婚初夜(または数日間)、新婚夫婦の性交を禁じた風習である。処女や新婦は神の所有物であり、また、処女の血を忌み嫌う風習が存在したためである。社会学者の江守五夫は、「古事記における大国主命と沼河比売」の求婚譚、「万葉集における大津皇子と石川郎女」の贈答歌などにもその片鱗が認められ、「女が男の求婚を受け入れながらも、一夜、(新郎を)家に入れず外に待たせる」風習などが起源ではないかと述べている。また、ヨーロッパ圏では「トビアの晩(Tobias nights)」と呼ばれる風習がドイツやスイスなどの一部地域で存在しており、やはり結婚初夜の性交を禁じる風習だったという。これは、「経外書(ラテン語のウルガータ版とギリシア語のアルドゥス・マヌティウス版から抜粋して再編した聖書)」や「トビト記」などに登場する伝説上のユダヤ人男性「トビト」に由来し、彼の娶ったサラという女性の前夫たちはいずれも結婚初夜に悪魔アスモデウスによって殺害されていたため、これを回避しようとした故事に倣っている。初夜権を題材にしたり、その存在について言及した作品などを挙げる。
出典:wikipedia
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