河内家 菊水丸(かわちや きくすいまる、男性、1963年2月14日 - )は、日本のタレント、伝統河内音頭継承者、音頭取り。元・新聞詠み(しんもんよみ)河内音頭家元。菊水丸を名乗る前は、本名の岸本 起由(きしもと きよし)名義で活動していた。所属事務所はよしもとクリエイティブ・エージェンシー。此花学院高等学校(現在の大阪偕星学園高等学校)卒業。師匠は実父でもある河内音頭の音頭取りの河内家菊水、母はピアノ講師。大阪府八尾市出身。現在は京都府相楽郡南山城村に在住。「音頭取り」としての活動と並行しながら、一般社団法人・日本ストリートダンス認定協議会の特別講師や、同府池田市の「池田音頭大使」などを務める。かつては、大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科の客員教授でもあった。1963年2月14日に大阪警察病院で出生。1972年3月に9歳で家元を継承し東大阪市弥刀東で初櫓に上がる、小学1年の時に両親が離婚、小学生の頃から盆踊りの櫓で太鼓等を演奏、浪曲の初代京山幸枝若の伴奏や生駒一や天童よしみのバックで太鼓を叩いていたこともある。高校時代はバンド活動もしていた。1980年、なんば花月が初舞台であるが、デビュー前は自身のアイドルで節に心酔していた松竹芸能の劇場で活躍していた鉄砲博三郎門下の音頭取りの生駒の元に足を運び、河内音頭の口説き(舞台芸としての音頭)のいろはを学ぶ。新世界新花月でも生駒のギター伴奏を務めていた。尚、菊水丸のヘアースタイルは生駒のヘアースタイルを尊敬を込めて意識し真似たものである。1984年、新しい流派『新聞詠み』を興し、以来大阪を拠点に歌う。エレキギター、シンセサイザーなどを用いて、「グリコ・森永大事件」や「阪神タイガース日本一音頭」(以上は『菊水丸の河内音頭秘蔵コレクション』収録)、「大リクルート事件・江副浩正半生記」や「豊田商事最後の日・永野一男一代記」、「天才漫才師・横山やすし物語」、「浪花の喜劇王・藤山寛美青春編」、「美空ひばり物語」(以上は『河内家菊水丸大全集』収録)、「アントニオ猪木一代記」(『新聞詠み河内音頭 バッド・ニュース アントニオ猪木一代記』収録)など、世相・事件を題材にした曲を発表。1984年、グリコ・森永事件の犯人が書いた「江崎グリコゆるしたる」という江崎グリコへの脅迫収束宣言にメロディをつけた曲「グリコ事件終結宣言音頭」(上記の「グリコ・森永大事件」とは異なる曲)をカセットテープで発売した。そのテープは1994年時点で約1万5000本を売り上げ、ワイドショーなどでも多用された。2000年時点で作詞印税だけで約130万円に達するが、菊水丸は「作詞者はグリコ・森永事件の犯人」として日本音楽著作権協会(JASRAC)に登録しており、作詞印税を受け取っておらず2015年現在もJASRACが全額を保管しているとされる。なお、この曲を作った際、脅迫収束宣言のメモ書きを道に落としたことにより警察からグリコ森永事件の犯人と疑われ取り調べを受けたことがあると、後にラジオ番組で告白した。1990年代前半は海外でのライブも多く、イラク、北朝鮮、ソ連、エジプト、ギリシャ、イタリア、チュニジア、フランス、キューバ、ガダルカナル、北方諸島などで行っている。イギリスのテレビ局では特集が組まれ、それを見たBBCからも出演依頼が来た。音楽番組「イースタン・ヒット」に出演。1991年、リクルートのアルバイト情報誌「フロム・エー」のテレビCMソング「カーキン音頭」が8万枚以上を売り上げる大ヒット、全国区進出を果たす。リクルート事件をモチーフにした曲を発表したこともあるにも関わらず、同社刊行のアルバイト求人誌「フロム・エー」の仕事を受けるという一見信じられないような珍事であり、当然リクルート側が「えっ? 菊水丸…、なんかしませんでしたか?」と問い合わせたが、吉本側は「いいえ、全然関係ありません」と言い張ったそうである。またCMが関東ローカルだったこともあり、地元大阪では「なんで菊水丸が急に売れ始めたのか?」と疑問に思った人も多かったという。同年ソ連崩壊3日前に赤の広場でゲリラライブ敢行。音楽・お笑い・政治を融合した新聞詠み河内音頭という横断的なジャンルであったため、全国区進出後は出演番組も「ミュージックステーション」「NHK紅白歌合戦」などの歌番組、「さんまのまんま」「笑っていいとも」「徹子の部屋」「ライオンのごきげんよう」などのトーク・バラエティ、「朝まで生テレビ」「おはよう!ナイスデイ」などの政治・ニュース番組などと多岐にわたった。1998年、東大阪市の架空住民登録容疑事件に絡み逮捕された市長の進退をめぐり、市役所前で「東大阪市長 やめさらせ!音頭」を披露した。2002年、日韓ワールドカップの日本対チュニジア戦で国歌斉唱の依頼があったが、辞退したため各紙で物議を醸した。辞退理由として「僭越である」と述べた。結局この試合の君が代は演奏のみとなった。2005年1月24日、東京都渋谷区のNHK放送センター前の路上で、漫才師の西川のりおとともに、海老沢勝二NHK会長(当時)の解任を求めるゲリラライブを行い、海老沢を痛烈に批判する「怒りの河内音頭」を披露した。2006年8月19日、大阪府貝塚市での盆踊りで、「通算8,888櫓」を達成する。2005年→2006年、2006年→2007年、2007年→2008年は兵庫県洲本市の商店街「コモード56」で年越しを迎えた→「ニューイヤーフェスティバル」。2007年の「YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜」では、自身の少年期を描いた「田中徳三監督 少年河内音頭取り物語」で、クレジット上ながら映画監督デビューを果たした。実際には、田中徳三監督の作品(「座頭市」「悪名」など)が好きだったことから、タイトルにある通り大部分の撮影を田中徳三に依頼。また、キャンディーズ時代からのファンだった縁で、田中好子の出演を実現させた。ちなみに、田中徳三は、同作品公開直後の同年12月27日に逝去。同作品が事実上の遺作になった。2007年11月1日、パーソナリティーを務める、MBSラジオ「さてはトコトン菊水丸」により自身のMBSラジオでのパーソナリティ出演が「冬眠返上菊水丸」から数えて1,800回を迎えた。2007年11月30日、自身初となる中国・上海講演に菊水丸一座で出発。メインパーソナリティを務める、MBSラジオ「さてはトコトン菊水丸」は前日に録音したものを放送。連続出演記録は出陣式を行った関西国際空港より電話出演でつないだ。2008年4月15日、大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科客員教授(日本文化史)に就任。2009年2月3日に、「さてはトコトン菊水丸」を同年3月27日で終了(自主降板)させるとともに、盆踊りシーズンが終わる同年9月末で「新聞詠み河内音頭家元」を返上することを発表。今後は、「伝統河内音頭継承者」という肩書きで、正調河内音頭の音頭とりとして伝統の保存と継承に専念することを明かした。なお、同番組が終了してからは、公式ブログを開設。古典、古い節回しの発掘、他流派の師匠連への稽古通いなどをしながら、ブログで近況を報告している。2009年8月23日、衆議院議員総選挙をネタにした新聞詠みを発表。この時点では、「新聞詠みとしての最後の作品」としていた。しかし、東日本大震災発生後の2011年6月に、「新聞詠みネタ」の封印を自ら解くことを表明。同月22日に兵庫県姫路市で開かれた「姫路ゆかたまつり」へ出演した際に、同震災からの復興を祈願する目的で、「姫路から、がんばろう日本音頭」を披露した。同曲については、CDも制作。売上金の一部を、被災地域への義援金に充てることを表明していた。2012年10月に受診の人間ドックで、甲状腺乳頭癌発症の疑いが浮上。その後の精密検査で、甲状腺で発症した癌細胞が気管支やリンパにも転移していることが判明したため、同年12月25日にリンパ節郭清などによって以上の癌細胞を摘出する手術を受けた。18日間入院。一時は音頭取りの生命線である発声が危ぶまれるほど癌細胞の湿潤が見られたことから、退院後は体調を考慮しながら、2013年春から音頭取りとしての活動を再開。同年3月2日にKBS京都テレビで放送の『とっぴもナイト』(手術直前まで12年間にわたってレギュラーを務めてきたトーク番組)で、本格的に復帰した。奇しくも手術を受けた病院は、へその緒が首に3周半巻きついた状態で生まれた大阪警察病院であった。2015年には、(吉本興業へ所属してからの)芸能生活35年目記念のシングル曲「本日は晴天なり」を6月24日によしもとアール・アンド・シーから発売。同月28日には、盆踊りの出陣式・同曲のお披露目を兼ねて、芸能生活35周年記念パーティーを開催した。また、母校の大阪偕星高校硬式野球部が全国高等学校野球選手権大会に大阪府代表として初出場を決めたことを受けて、7月31日には「大阪偕星学園応援音頭」を即興で制作している。大の相撲好き、レコード収集家としても有名。なんば花月の閉館直後には、同劇場で使われていためくり(出演芸人の名が記された大きな札、島田紳助・松本竜介だけは長原成樹の元相方が持ち帰った。)の大半を、劇場側の許可を得たうえで自身の分も含めて運び出したという逸話もある。このめくりについては、芸人による落書きが裏面に残っていることから、現在では演芸関係の資料として高い評価を受けている。また、「少年菊水丸物語」(前述)の撮影を依頼した田中徳三の逝去後には、遺族から過去の作品の脚本を譲り受けた。色々なものを集めている。元々物集めが子供の頃から好きで、牛乳瓶の蓋やべったんなどを集めていた。今では上方演芸の資料全般(音頭、漫才、落語、浪花節、講談など)を集めている。書籍、CD、DVD、レコードや自身が紹介された雑誌、新聞記事のスクラップなど幅広い。楽屋に貼ってある時間表などの貼り紙も日常の資料として残している。「さてはトコトン菊水丸」を放送していた時期には、閉鎖直前の毎日放送千里丘放送センターから、貴重な放送音源やレコードを次々と発掘。同番組や「お宝ハンター菊水丸」という特別番組で、数回にわたって放送した。また、飲みかけの清涼飲料水のペットボトル、噛んで味が無くなったガムなど、漫画家のやくみつると同様に、有名人が使用した変わった物を収集することも趣味としていた。フセイン・イラク元大統領からもらったとされる(?)壷、エリツィン・ロシア元大統領からもらった目覚まし時計(但し時間が来ても鳴らない)もその中に含まれる。2008年のくいだおれ閉店直前に、名物の人形(くいだおれ太郎・次郎の人形)の扱いが話題になった際には、人形の買い取り先候補に名乗りを挙げている。しかし、買い取りは実現しなかった。嘉門達夫と同様、芸能界でも有数の、1970年に大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会(大阪万博)の関連グッズのコレクターでもある。大阪万博の包装紙、記念切符、ソノシートなどを保有している。高校生時代には、当時校内で優勢だった相撲部に在籍。柔道部・硬式野球部との合同練習で、野球部のノックに参加することもあった。現在も好角家として有名で、相撲関係者の知り合いも多く、『九代目横綱』という持ち歌もある。また、同曲のモデルである秀ノ山雷五郎の故郷・宮城県気仙沼市が東日本大震災で甚大な被害を受けたことから、発生年の2011年からは被災地で毎年8月に開かれる「三陸海の盆」に関西から参加。被災地での郷土芸能の復活に向けて、参加のたびに和太鼓を寄贈している。1973年7月21日から日記を毎日書き続けている。明石家さんまと初めて出会った日の事も日記に記してある。日記の分量は一日で400字詰め原稿用紙二枚分にも及ぶという。今ではブログに移行したが、小学校5年生の時から、日記帳を付け出した時から書式は変わらない。何で書き出したかというのは理由は本人もわからないが、書き出した日が昭和48年7月21日、初めて盆踊りの櫓で歌ったその晩から始まっている。そこから1日たりとも日記を休んだことがない。アナログ派芸人としても有名。携帯電話は持っているが、メール機能は使用しない。急な連絡には速達を使用するという。ただし、2009年6月からは、公式ブログを開設している。菊水丸の自宅は京都府南部の相楽郡南山城村にあり、出身地の八尾市内に既に自分が入る予定のお墓も購入。所属する吉本興業では御法度とされる「直の仕事」(会社を通さない仕事)を、櫓に関してのみではあるが認められている数少ない芸人である。1990年代前半に一時、全国区へ進出。しかし、現在は活動拠点を関西に戻しているため、以前ほど全国区での露出は多くない。1994年当時失踪騒ぎを起こしていた元女流棋士林葉直子を「ドバイで見かけた」と発言。後に姿を現した林葉自身がそのことを明確に否定し、あまりに目撃場所がとっぴもないことから、結果的にガセネタ扱いとなる。が、菊水丸自身は今でも「アレは確かに林葉さんだった」と固く信じているようである。2011年6月15日には、漫才師としての活動のかたわら1年間弟子として修業を積ませてきた鰻和弘(銀シャリ)に、「河内家上り丸(のぼりまる)」を襲名させた。かつては、立原啓裕に「疲労丸」、ハイヒールリンゴに「化粧濃い丸」、酒井法子に「のり丸」、かとうかずこに「かと丸」、小泉今日子に「キョンキョン丸」、観月ありさに「あり丸」という芸名を付けている。1998年、吉本の先輩にあたり、当時吉本から離れていた松本竜助を社中に迎え「河内家ピンポン丸」を名乗らせる。菊水丸は竜助から若手時代に世話になり、その当時事業失敗等で窮状にあった竜助を救済せんがための行動であった。前述の通り、菊水丸は本業の音頭取りとしては吉本興業のマネジメントを受けていない。しかし、入門当初からトチリ(無断欠勤、遅刻)を繰り返すピンポン丸を見かねて早々に破門している。ただ、破門後は師弟関係ではなくなった為、その後生前の竜助に対するコメントを出す際は、自身は後輩として礼を失しない態度で接していた。盆踊りシーズンは多忙を極め、分刻みのスケジュールで各地を飛び回る。それを見た月亭八方が「菊水丸は太鼓の中に札束を隠している」と暴露。無論ネタなのだが、あまりに各地で吹聴するので税務調査を受けたらしい。逆に八方に対して「八方師匠は座布団の中に札束隠してはる」と反論した。本人曰く「誕生日が誕生日だけに」大のチョコレート好き。日に数回の歯磨きを欠かさないにも関わらず、就寝前にはチョコを食べ、そのままの状態で床につく。「口の中が幸せな状態で眠りにつきたい」とは本人の弁。尚、酒は全くといっていいほど飲めない。2007年4月には、大阪・日本橋の商業施設「おたくの殿堂」(2008年5月に閉店)内に、自身のコレクションの一部を展示する「河内家菊水丸の総額1億円 あっと驚く秘宝館」を期間限定でオープン。「札束を隠している」という噂やネタの元になった太鼓や、前述のめくりも飾られた。ただし、めくりの一部については、落書きの内容が過激なため裏面を公開しなかった。また、2008年には、不祥事で一時閉店していた船場吉兆の営業再開日に同店を訪問。居並ぶ報道陣を前に、「おいしかったですよ」と料理の感想を述べた。番組出演については、メインパーソナリティを務めた『さてはトコトン菊水丸』以外にも、在阪ラジオ局で平日の午前中に放送される生ワイド番組へ登場する機会が多い。番組デビューは、同番組の前に放送されていた『ごめんやす馬場章夫です』。『フレッシュ9時半!キダ・タローです』(ABCラジオ)にも、父・河内家菊水とともに、番組終了まで定期的に出演していた。『さてはトコトン菊水丸』平日版の放送終了後は、毎日放送制作の番組に出演しなくなった一方で、「伝統河内音頭継承者」として『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』(ABCラジオ)にゲストでたびたび登場。しかし、2012年3月7日に「吉本百年物語」のPRで『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』(MBSラジオ)および『ちちんぷいぷい』(MBSテレビ)へ出演したことを機に、毎日放送制作の番組にも再び登場している。此花学院高校相撲部時代の1年先輩が河内長野市に居住している縁で、1999年からは、毎年7月下旬に市内で開催される納涼盆踊り大会へ出演。『さてはトコトン菊水丸』でアシスタントを務めた和泉夏子が司会、金曜レギュラーだった石田雄一(ギタリスト)がギターを担当する。また、ふるさと納税制度を通じて、2010年から同市、2013年には堺市(いずれも大阪府)に寄付金を提供している。プライベートでは、21歳で結婚。娘と息子を授かったが、後に離婚した。離婚後は長らく独身生活を送っていたが、甲状腺乳頭癌寛解後の2013年7月に、松竹芸能所属のタレント・高橋知裕と再婚したことを公表した。ちなみに、吉本興業・松竹芸能の所属タレント同士が結婚するのは初めてとされる。1990年、イラクのサッダーム・フセイン大統領が、イラク国内の在留外国人の出国を禁止したことにより、現地の日本人は事実上の人質となったが、外務省の人質解放交渉は進展をみなかった。そこでアントニオ猪木が被害者家族を率いて、イラクでスポーツと平和の祭典を開催するという趣旨のもとイラクへ向かうことになる。菊水丸はこの祭典の日本の伝統音楽の部門を担当し、現地のイラク人や日本人の前で河内音頭を披露した。祭典は結果として無事に終わり、猪木とフセインの協議のすえ日本人人質は戦争が始まる前に解放された。なお、この祭典において菊水丸はフセイン大統領から金色の壺を直接手渡されている(本人曰く、壺は見ためと違ってつまんで持てるぐらい軽い)。身の危険を覚悟していた菊水丸はイラクへ発つ前に生命保険に加入しようとしたのだが、危険性が高すぎるということで、どの保険会社にも断られたという。事実この1か月後に湾岸戦争が始まっている。ライブの音源を聞くと、歌いだしのところで「こらあかんわ」という菊水丸の声が入っていて、めずらしく動揺している様子がうかがわれる。フセインが処刑されたとき、処刑されたのは本物のフセインなのか否か(フセインに整形した影武者ではないか)と議論になったが、各メディアの取材に対して菊水丸は「間違いなく本物です」と答えている。イラク滞在中には命懸けでバビロンの遺跡も見学した。以下はいずれもMBSラジオの番組
出典:wikipedia
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