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視聴率

視聴率(しちょうりつ)は、あるテレビ番組をその地区のテレビ所有世帯のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値であり、一つの指標である。視聴率には個人視聴率と世帯視聴率があるが、一般的に視聴率といえば世帯視聴率のことを指す。かつては「聴視率」という言い方もされていた。視聴率の測定は基本的に、モニター世帯に設置されるテレビに接続した専用の機器から得られるデータを基にしている。地域や調査内容によっては、日記式のアンケートによる調査を行っているものもある。「視聴率」はその時刻に「テレビの電源が入っていた世帯からの割合」で測るものではなく、「調査対象世帯全体に対する割合」である。例えば、100世帯がテレビ視聴率計測の対象だったとした場合、そのうちの「1世帯がテレビをつけていた状態」とする。しかし、「残りの99世帯がテレビを消していた状態」の場合、つけていた1世帯が視聴していた番組の視聴率は100パーセントではなく、1パーセントとなる。電源が入っていた世帯からの割合で測る場合は、それぞれの局の割合を「番組視聴占拠率」と呼ぶ。"平均視聴率"は毎分0秒の時の視聴率(瞬間視聴率)の平均で求められており、一番組中で最も高かった瞬間視聴率をマスコミ用語で"瞬間最高視聴率"として考慮することもある。なお瞬間視聴率、瞬間最高視聴率という言葉はマスコミによる造語 で、「ビデオリサーチ」ではそれぞれ毎分視聴率、毎分視聴率の最高値という。視聴率というものを調査する意義は、大きく分けてといったものがある。2014年7月には初めて録画率を表す「録画視聴率」が公開された。日本では、測定する有力会社が「ビデオリサーチ」1つのみになった2000年3月以降、同社の調査結果が世帯のリアルタイム視聴率とされている。「ビデオリサーチ」の場合、機械式の視聴率調査は関東、関西、名古屋、札幌、仙台、福島、新潟、静岡、岡山香川、広島、北部九州の11地区で毎日、青森、岩手、秋田、山形、富山、金沢、長野、山陰(鳥取・島根)、山口、愛媛、高知、熊本、長崎、大分、鹿児島、沖縄の16地区で毎月の月始め2週間、それぞれ調査期間を設けて調査を行っている。標本数は関東は900、関西、名古屋の2地区で600、それ以外の地区は200である。なお、放送エリア内に地元民放テレビ局が3局以上あることが機械式視聴率調査の条件のため、福井、山梨、徳島、佐賀、宮崎では機械式視聴率調査は行われていない。CSデジタル放送・ケーブルテレビ・地上独立テレビ局などは一括して「その他の局」という扱いとなり、個別の数字は特に公表されていない が、NHK BSのスポーツ中継、NHK BSプレミアム移行後の連続テレビ小説、大河ドラマなどはNHKがビデオリサーチに対して特別に依頼の上、測定される。地上デジタル放送については、2003年12月の開始当初は対象外 としていたが、普及に合わせてデジタル対応の調査機器への更新が進められた。BSデジタル放送については、2015年4月よりBSパワー調査が機械式調査に移行したことにより、地上波とは若干条件が異なるものの視聴率が測定・公表される。ただし有料チャンネルは除かれる。パソコンや携帯受像機による視聴は機械式調査ではカウントされていない。録画による視聴(タイムシフト視聴率)に関しては、2016年10月3日の調査分から関東地区に限り測定されている。なお、録画率ランキングというものは別途存在する。一般に関東、関西、名古屋地区などで、ゴールデンタイム・プライムタイムで15パーセントを超えるとヒット作と言われるものが多く、逆に10パーセントを切ると「一桁」として視聴率が低迷していると言われるものが多い。民間放送各社、特にキー局にとってはこの数値が1ポイント増減しただけで利益や広告の営業活動に大きく響くため、視聴率を重視している。また、全国の世帯から徴収する受信料で成り立つNHKは「視聴率に左右されないテレビ局」を謳っているが、NHK以外のメディアにおいて「NHKも民放と同様、あるいはそれ以上に視聴率を意識している」との見解が示されているか、またはそれを前提とした報道・評論がされている例も多い。これまでの関東地区における最高視聴率は「ビデオリサーチ」が視聴率調査を開始した1962年12月3日以降では1963年12月31日のNHK総合テレビ『第14回NHK紅白歌合戦』で記録した81.4パーセントであり(1961年-2000年に行われていた「ニールセン」による調査でも『第14回NHK紅白歌合戦』の89.8パーセントが最高)、「ビデオリサーチ」以前も含めた最高視聴率は1955年5月30日、日本テレビのボクシング中継・パスカル・ペレス対白井義男戦で記録した96.1パーセント(電通調べ) である。「ビデオリサーチ」調査における関東地区の全日視聴率では、NHK総合が1963年から1986年までの24年間、各民放キー局を押しのけて、連続して1位を獲得していた。1987年以降は民放局がその座を獲得する例が多くなった。「ビデオリサーチ」調査では『NHK紅白歌合戦』があることなど(後述)から、年間視聴率1位はNHK総合の番組という例が多い。2001年までNHK総合の番組が年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった(紅白についても1997年まで年間視聴率1位の座を譲ったことがなかった)。2002年以降は年によっては民放番組(主に国際スポーツ中継の日本戦)が年間視聴率1位を獲得する例もある。日本における視聴率は記録に残っているものでは、1954年に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初。「NHK放送文化研究所」による調査は、1971年に調査方式を配付回収法に変更した。数か月に1回、1週間分の個人視聴率の調査・発表を行っている。1955年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を開始した(電通による視聴率調査は1963年1月が最終。以後の調査は「ビデオリサーチ」へ引き継がれる)。1958年には社団法人中央調査社が同じく日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、1959年には年12回(毎月)に拡大した。1961年4月、ニールセンが日本に進出し測定機械による世帯視聴率調査を開始し、1962年12月からはビデオリサーチ社も調査を開始した。当時は測定器を該当する世帯のテレビに取り付け、情報を紙テープに記録するオフラインメータ方式 で、調査員が記録テープを回収 した後に集計を行っていたため、前週の視聴率が翌週に判明する状態であった。1977年9月26日、関東地区にてビデオリサーチが開発した「ミノル・メーター」 を使用し、通信回路(電話回線)を経由して情報を自動回収するオンラインメータ方式 による調査を開始したことにより、翌日には視聴率が判明するようになった。長らくこのニールセンとビデオリサーチの2社が日本国内における世帯視聴率を測定していたが、2000年3月にニールセンが日本国内における視聴率調査から撤退し、それ以後は、世帯視聴率はビデオリサーチの測定した結果のみが用いられることとなった。撤退の理由は個人視聴率導入に関して民放キー局と意見が対立したからだとされる。2006年8月よりケーブルテレビ会社のジュピターテレコム(J:COM)が、番組供給事業者向けにセットトップボックス(STB)の双方向機能を使った「デジタル視聴率」の提供を開始した。2011年7月4日にビデオリサーチは、フルセグ放送が視聴できるデスクトップパソコンとケーブルテレビのデジアナ変換を「パソコンテレビ」として視聴率の調査対象に加えた。また、同年7月24日以降、アナログ放送が終了したエリアでは、調査対象がデジタル放送を視聴できる世帯のみとなっている。2015年1月から録画タイムシフトによる視聴率提供を予定している。関東地区に限り、2016年の年度下期(同年10月3日)測定分からは調査世帯数の増加に合わせ、従前のリアルタイム視聴率に加え、タイムシフト視聴率も調査対象に正式に加わったアメリカでは1950年代以降、視聴率調査はニールセン・メディア・リサーチ社が業務を独占している。調査方法は、アメリカ全国調査は1987年よりピープルメーター方式(それ以前は日記式アンケート)、地域調査は1週間分の日記式のアンケートを郵送する方式に加えて、2003年後半から2004年前半にピープルメーター方式を導入した。また日本の視聴率はパーセンテージのみで発表されるのに対し、アメリカの視聴率は「○○○万○千人」などといった視聴者数も同時に計測・発表しており、視聴率よりも視聴者数の方が重視される傾向にある点が日本と大きく異なっている。視聴率のデータの信憑性に対する主な批判としては次のようなものが挙げられる。視聴率は番組の良し悪しについての客観的指標として最も使用されている。視聴率が高い番組は「広告効果が高い番組である」という評価となり、その分利益も大きくなるため、キー局主体のテレビ局は様々な手段で視聴率向上のための努力をする。しかし、その努力が行き過ぎると、番組内容は二の次で高視聴率を取れる(=利益の出る)番組を制作しようとしてしまう。その結果、様々な悪影響を与えてしまうこととなる。視聴者も刺激的、ドラマ的な展開を求めたがるために「やらせ」などの捏造行為が発生しやすい。特に軽度の「やらせ」は「演出」と称して正当化する傾向があり、番組全体の劇場化が指摘される。中には犯罪を依頼し、作られた事件現場を真っ先に報道していたとして調査された事件も存在する。キー局は時折、視聴率を稼ぐため「ワイドショー」やスキャンダルなどにおける渦中の人物などを出演させ新聞のテレビ欄に「○○出演」などと煽るケースがある。ほとんどのケースで視聴率稼ぎのため人物を冒頭から出演させることはなく「もうすぐ○○登場」などとテロップで煽り、「番組の終盤で登場する」「番組の最後で差し障りのない内容のみ放送する」「同業の別人を出演させる」などのケースがあり、視聴者から抗議の電話が寄せられキー局が謝罪などの対応に追われることがある。上記のように視聴率が番組の良し悪しを決める唯一無二の存在になると、視聴者より「スポンサーの意向を反映」した番組になりやすい。例えば、バラエティ番組ではハイライトシーンの直前に山場CMが入ることが2000年頃から常識になっている。また、スポンサーが重視する購買欲の高い若い女性向け(F1層)の番組がバブル景気以降増えており、1980年代以前のゴールデンタイムは、老若男女だれでも受け入れられる番組が主体だったのに対して、それ以降は明らかに女性をターゲットにした番組がゴールデンタイムでも主流になっている。特に情報系番組は「女性に人気」「女性が支持する」といった語句を並べてあたかも男性視聴者は存在しないような番組作りを行っている番組もある。日本テレビは同局の人気番組であった「伊東家の食卓」を「女性の視聴率が低い」という理由で終了させた(週刊ダイヤモンド2011年1月15日号「新聞・テレビ勝者なき消耗戦」より) 。そして、スポンサーの発言は(ローカル局を含めた)テレビ界全体を萎縮させる力を持っており、例えば2008年11月の厚生労働省への批判報道に対して経団連名誉会長兼トヨタ自動車相談役の奥田碩が「厚労省叩きは異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうかな。スポンサーを降りるとか」 と発言すると、日本民間放送連盟会長の広瀬道貞(兼テレビ朝日相談役)は「テレビの影響力の大きさから言えば、ある種の節度が必要かなという気もした」とトヨタに屈服するような発言をも行った。特に日本テレビ『踊る!さんま御殿!!』では自身の起こした窃盗事件を番組内で公表した芸能人の出演を巡りスポンサーのトヨタ自動車が「(芸能人)を出すならスポンサーを降りる」と番組およびスタッフに通告した。芸能人が出演した回はトヨタ自動車がスポンサーを降り、最終的にタレントが出演自粛を表明した事情も存在した。視聴率がテレビ局の評価の指針となる場合があるため、国や時代、時間帯を問わず視聴率争いは行われている。ここではその代表的なものをあげる。TBSの『8時だョ!全員集合』(1969年-1985年)が「お化け番組」と呼ばれる程の凄まじい人気を誇ったことで発生した。当初『コント55号の世界は笑う』で優位だったライバルのフジテレビは対抗する番組『コント55号のやるぞみてくれ!』を企画するも2ヶ月で打ち切られ、その後は時代劇を中心としたドラマ路線に変更するも悉く放送終了し、土曜20時枠は「鬼門」とまで言われた。1974年に荒井注がザ・ドリフターズから抜けて暫くは『欽ちゃんのドンとやってみよう!』の成功もあって視聴率が逆転したが、志村けんの「東村山音頭」のヒットで再び逆転、以後、『オレたちひょうきん族』(1981年 - 1989年、フジテレビ)が登場するまで対抗出来る番組は無く、せいぜい女子プロ野球チーム「ニューヤンキース」の試合をメインとした『土曜グランドスペシャル』(1978年)が目立つ程度だった。中には『ピーマン白書』のように大々的な番宣キャンペーンを行ったにも関わらず、放送回数6回で打ち切りになったものも存在した。その現象は日本テレビでも発生し『全日本プロレス中継』を放送したり、『笑点』の司会として当時人気だった三波伸介を出演させて『爆笑ヒット大進撃!!』→『ダントツ笑撃隊!!』を放送し対抗するが短命で終了した。当時のドリフの人気を示すエピソードとしてタレントの王理恵は自分はドリフ(全員集合)を見たかったが、家では父(王貞治)が出ている野球中継を見ていた。月曜日、自分は学校でドリフの話についていけなかったと当時を回顧した。一方のテレビ朝日でも、時代劇や現代劇といった1時間ドラマを放送したが人気無く、1972年7月から直前枠である19:30枠の『仮面ライダー』(毎日放送制作)視聴者である子供をターゲットに前後半に分離し、前半は特撮番組『人造人間キカイダー』→『キカイダー01』、後半はアニメ『デビルマン』→『ミクロイドS』→『キューティーハニー』を放送し、少しは人気を上げたが、1時間枠復活後は1978年開始の松平健主演時代劇『暴れん坊将軍シリーズ』までヒットしない有様であり、特に1976年5月に海外作品『刑事バレッタ』(第1シリーズ)終了後、同年10月開始の時代劇『五街道まっしぐら!』までの間は定時番組は置かずに単発枠を編成し、『戦え!ぼくらのヒーロー大集合』や劇場版『サイボーグ009』などの子供向け特番を放送する状態だった。『オレたちひょうきん族』放送開始直後視聴率は伸び悩んだが、ドリフターズの不祥事(仲本工事、志村けんの「競馬ノミ行為事件」、「囚人コントのギロチン事件」が大きく響いた)もあり、以降『オレたちひょうきん族』は徐々に視聴率を獲得し、1984年の年間視聴率でついに全員集合を逆転、翌1985年に全員集合は終了した。その後全員集合の後継番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(以下『ごきげんテレビ』)が放送されると今度はフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしが抜けたこともあり徐々に『ごきげんテレビ』が視聴率を獲得し『オレたちひょうきん族』を逆転、1989年、『オレたちひょうきん族』は放送終了となった。1990年代に入ると『ごきげんテレビ』への対抗として、『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ)、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ)が放送開始。テレビ朝日の『暴れん坊将軍シリーズ』と合わせて、人気4番組による争いとなる。争いは1年ほど続いたが、まず『ごきげんテレビ』が『KATO&KENテレビバスターズ』としてリニューアルするも、これが裏目に出てしまい、視聴率が急速に低迷し終了。『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』も収録時の事故により放送が急遽打ち切られると『めちゃ×2イケてるッ!』(以下『めちゃイケ』、1996年-)の放送まで再びフジテレビの土曜20時枠は「鬼門」となった。『マジカル頭脳パワー!!』は『あるなしクイズ」が放送局や番組をまたいで大ブームとなったこともあり 高視聴率を獲得したが、4月から9月までの間はプロ野球中継(主に巨人戦)により放送を休止することが度々あったため、それを避ける目的で番組枠を木曜日の同時間帯に移動した。TBSは1993年に『どうぶつ奇想天外!』をスタート。当初は『マジカル頭脳パワー!!』に苦戦したが、『マジカル頭脳パワー!!』の木曜日への移動により安定した視聴率を獲得し「親が子どもに見せたい番組」の上位にランクインされる人気番組になった。フジテレビも1996年に『めちゃイケ』をスタートさせると視聴率を獲得、1978年の放送以来、常に安定した人気を保っていた『暴れん坊将軍シリーズ』を移動させた。しばらくは『めちゃイケ』の独走状態であったが、2004年に放送開始した日本テレビ『世界一受けたい授業』の台頭により、同番組に陰りが見え始めてくる。2006年度には『世界一受けたい授業』が『めちゃイケ』を上回ることも珍しくなくなった。追いうちをかけるように、2008年にTBSでドラマ『ROOKIES』が放送され、これが顕著となり、同番組が終わった後も視聴率が回復しなかった。その後『めちゃイケ』は特別企画を中心に視聴率を稼いでいたが、2010年以降はテレビ東京の『土曜スペシャル』が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を中心に人気を集め、中には『めちゃイケ』を凌ぐ視聴率を記録する回もあり、『めちゃイケ』の独走状態ではなくなった。土曜19時枠でも1970年代から1980年代まではTBSの『まんが日本昔ばなし』(毎日放送制作。第2期)と『クイズダービー』の独走状態となってフジテレビは苦戦を強いられ、18時枠の看板であった『タイムボカンシリーズ』を19時枠に移動させるも、視聴率を奪えず、同シリーズが終了する事態となっている。1970年代から80年代前半にかけて、木曜21時はTBSの『ザ・ベストテン』が一強状態であったが、1988年頃になると、『ザ・ベストテン』の人気にも陰りが出始め視聴率が1桁の回もあった。フジテレビは10月、人気を誇ったとんねるずの初ゴールデン冠番組として『とんねるずのみなさんのおかげです』(現在は『とんねるずのみなさんのおかげでした』)を開始。『みなさんのおかげです』の初回視聴率は27.9パーセントを記録、一気に『ザ・ベストテン』を破り、『ザ・ベストテン』は1年後放送を終了した。逆に『みなさんのおかげです』はその年から1994年まで7年連続で年間バラエティ番組平均視聴率ランキング第一位を獲得することになった。一方、フジテレビ以外の民放3局(日本テレビ、テレビ朝日、TBS)は横並びに視聴率が5パーセント以下と低迷した。この事態に3局は揃ってドラマを編成してフジテレビに対抗しようとしたが、とんねるず人気は落ちず、結局2006年までとんねるずの番組(『ラスタとんねるず'94』、『とんねるずの本汁でしょう!!』、『とんねるずのみなさんのおかげでした』)がこの時間帯の視聴率一位を譲らなかった。1985年、テレビ朝日は社運をかけてそれまで23時台に放送されていた深夜ニュース番組を1時間繰り上げ22時からにすることを決定、番組名を『ニュースステーション』(以下Nステ)とした。司会にはTBSの『ザ・ベストテン』で司会を務めていた久米宏に白羽の矢を立てた。久米はキャスター就任を了承したが、秘密裏に進められた計画であったため共演者の黒柳徹子へもこのことを伝えないままザ・ベストテンを降板した。『Nステ』の放送が始まると中高生にわかりやすいニュースをコンセプトにした内容が功を奏し高視聴率を獲得したが、TBSの首脳陣は一連の久米の行動に激怒。諏訪博会長の号令により「報道のTBS」の面子と社運を懸けて、打倒『Nステ』を目指し22時台のニュース帯番組を製作し『Nステ』にぶつける計画を立てた。しかし計画はキャスター選びから難航した。当初、白羽の矢を立てたのは久米の共演者黒柳徹子だったが黒柳が拒否すると朝日新聞社員だった筑紫哲也にキャスター就任を要請した。ところがテレビ朝日がTBSに猛反発、遂には朝日新聞とTBS両社のトップ会談が開かれる事態になった。その後TBSは森本毅郎をキャスターに据えて1987年10月から『JNNニュース22プライムタイム』(以下プライムタイム)をスタートしたが視聴率で『Nステ』に勝てないばかりか森本に女性スキャンダルが発覚。1年で森本は降板し、新たに小川邦雄をキャスターに迎え、『JNNニュースデスク'88(→'89)』に変更するも、結局『プライムタイム』放送開始から2年後の1989年9月、22時台のニュース帯番組から撤退した。その後、TBSは筑紫をキャスターに据えた『NEWS23』を翌月から放送開始した。その後2000年3月27日に、今度はNHK総合テレビが新たに平日22:00に『NHKニュース10』を設置、『Nステ』もこれに対抗して放送時間を21:54に繰り上げた。それでも『Nステ』の牙城は崩れないものの、2004年4月からはキャスターを古舘伊知郎に交代、タイトルも『報道ステーション』に変更した。結果は『ニュース10』はTBS路線よりは長かったものの、2006年3月31日で撤退、再びテレビ朝日の独壇場となる。北海道地区の夕方ワイド番組における視聴率争いで、札幌テレビ放送(STV)が1991年10月に始めた『どさんこワイド120』を中心としたものである。1989年10月、北海道文化放送(UHB)が道内初の夕方ワイド番組となる『TVポテトジャーナル』をスタートさせた。視聴率は当初苦戦していたが、次第に2桁を取る週が出るようになる。STVは2年後の1991年に『どさんこワイド』をスタートさせる。『どさんこワイド』も『TVポテトジャーナル』同様、視聴率は当初は苦戦したものの、次第に視聴率が向上する。『どさんこワイド』の成功を受け、北海道放送(HBC)は1993年10月に『HBCゆうやけワイド・テレビ一番星』を16時から19時までの3時間、『テレポート6』を内包する形で開始するが、STVも『どさんこワイド』の放送時間を『テレビ一番星』と同じ16時から19時までの時間帯まで拡大させ、両番組が同じ時間帯で放送されることになり、結局「一番星」は1年で終了。その後もHBCは「4時からワイド一番星」→「いきいきテレビ特急便」→「気になるパンプキン」→「情報ワイドビタミンH」・「夕刊5時ダス」→「ビタミンTV」と放送するがいずれも「どさんこ」の前に敗退。短期間で終了に追い込まれた。その後夕方ワイド番組はHBC・STV・UHBの巴戦が続いていたが、UHBは1993年10月に『TVポテトジャーナル』から番組名を変更した『ポテト』を1994年9月に終了させ、ドラマの再放送枠に戻る。その後北海道テレビ放送(HTB)が1999年4月に『情報ワイド 夕方Don!Don!』を17・18時台でスタートさせ夕方ワイド番組の視聴率争いに参入した。さらには2002年にはNHK北海道が『ほくほくテレビ』を、2003年にはTVhも『おばんでスタ!』をそれぞれスタートさせ、夕方ワイド番組争いに参入するがどちらも撤退した。2003年4月にHTBは『イチオシ!』にリニューアル。2006年4月、HBCは16時台『ビタミンTV』および18時台の『テレポート2000』を合体させた新番組『Hana*テレビ』をスタート。その後、2010年には『グッチーの今日ドキッ!(現・今日ドキッ!)』をスタート。2011年4月、一時期夕方ワイド番組から撤退したUHBは夕方ワイド番組『U型テレビ』をスタートさせた。その後、2014年には午前の『さあ!トークだよ』を終了させ自社制作のローカルワイド帯番組を午後に集約。今までの『U型テレビ』をリニューアルさせ、『U型ライブEXPRESS』・『U型ライブ』・『Super NEWS U』を編成。14時から19時までの大半を自社制作のローカルワイド帯番組が占める事となった。しかし同年10月『U型ライブEXPRESS』の打ち切りを発表、夕方の大型改編は大失敗に終わる。2015年、UHBはこれまで放送されてきた『U型ライブ』・『Super NEWS U』の枠を統合させた新番組『みんなのテレビ』がスタート。なおUHBにとっては、開局以来初めて3時間の自社制作大型情報ワイド番組を編成。1970年代から1980年代にかけて金曜20時に放送された『太陽にほえろ』(日本テレビ)と『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)、TBSのドラマ・バラエティ番組の視聴率争いを中心としたものである。『太陽にほえろ』と『ワールドプロレスリング』の両番組は、ほぼ同時期にスタートし同時期に終了や枠移動を行っている。当時、日本プロレスの中継は日本テレビとNET(現テレビ朝日)の2局で放送を行っていたが、日本プロレスの意向により日本テレビはジャイアント馬場中心の試合を、NETはアントニオ猪木の試合を中心に放送していた。その後、日本プロレスから猪木が除名されたことを機に、NET首脳陣は馬場の試合中継を要求、日本プロレス幹部がこれに応じたため日本テレビ側が激怒、1972年5月、放送していた日本プロレス中継を打ち切り、7月21日から金曜夜20時枠に刑事ドラマ『太陽にほえろ』の放送を開始した。一方のNETは、1週間後の7月28日より同じく金曜夜20時枠に『NET日本プロレスリング中継』のタイトルでプロレス番組を開始した。当初、日本テレビは『太陽にほえろ』の放送を1クールで終了させ 10月から馬場が設立した全日本プロレスの中継番組を『ワールドプロレスリング』に直接ぶつける計画があった。しかし、『太陽にほえろ』が高視聴率を記録したため『全日本プロレス中継』は土曜夜20時枠に放送し、お化け番組と称された『8時だョ!全員集合』にぶつけることとなった。その後、『太陽にほえろ』が新人や無名俳優を主演の新米刑事として出演させ、成長させるパターンで安定した視聴率を稼いだのに対し、『ワールドプロレスリング』がアントニオ猪木を中心とした異種格闘技路線で高視聴率を挙げた。両番組のために低迷していたTBSは1979年秋から、『桜中学シリーズ』として学園ドラマの『3年B組金八先生』を放送。『金八先生』は放送開始するや瞬く間に巷の話題となって視聴率が毎回上がり続け、視聴率争いは三つ巴となる。『金八先生』は半年後の終了前には30パーセントを超える視聴率を毎回獲得して『太陽にほえろ』と『ワールドプロレスリング』を完全に逆転した。特に『金八先生』第1シリーズの最終回は関東地区で39.9パーセントの視聴率を記録した。同日、『太陽にほえろ』は400回スペシャルを放送したが視聴率は『金八先生』の半分以下18.8パーセントに終わる。『金八先生』第2シリーズ終了後もTBSは『金八先生』と舞台設定を同じにした学園ドラマ、通称・桜中学シリーズをこの時間帯に敷いてリードを保った。しかしその間にも『太陽にほえろ』は見所であった殉職降板&新刑事登場を連発して巻き返しを図り、『ワールドプロレスリング』側もタイガーマスク(初代)や長州力を登場させた。特に小林邦昭がタイガーマスクのマスクを剥ぎにかかるシーンが放送されると、タイガーの正体の見たさに視聴率が上昇した。その反抗の影響と、桜中学シリーズ自体もシリーズを重ねて飽きられ始めると、再び三つ巴の様相となっていったものの、桜中学シリーズは徐々に視聴率を落とし、ついに1982年9月に金曜20時枠での放送を終了した(桜中学シリーズもスペシャル版を除くと、『金八先生』の第3シリーズとして6年後の1988年10月に月曜21時枠で放送を再開するまで6年間中断した)。その後、1986年5月にTBSが当時絶大な人気を誇るビートたけしをメインに据えた視聴者参加型バラエティ番組『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』をスタートさせると、抜きんでた視聴率を稼ぐようになり、金曜20時の視聴率の覇権を収めた。対する日本テレビは主演の石原裕次郎の体調不良もあって『太陽にほえろ』の終了を決断。テレビ朝日も『ワールドプロレスリング』を月曜20時台へ移動させ、音楽番組『ミュージックステーション』の放送を開始した。しかし、これら長寿番組だった両番組を追いやった『風雲!たけし城』だが、同年12月のフライデー襲撃事件により、看板だったビートたけしと番組に多く出演していた弟子のたけし軍団が芸能活動謹慎となって画面から消え一時の勢いが衰えてしまい、金曜20時の視聴率争いは再び混沌としていく。一方、フジテレビは1979年秋に当時人気番組だった『ザ・ベストテン』に対抗して『ビッグベストテン』放送するが、視聴率が振るわず半年で打ち切られた。また後続番組『花の金曜ゴールデンスタジオ』→『ハナキンスタジオ』も同様に打ち切られ単発番組枠へ移動した。1988年、『ミュージックステーション』や『風雲!たけし城』に対抗するため、明石家さんまを中心とした新番組の計画や『オレたちひょうきん族』の放送枠移動の計画があったが、当時の昭和天皇の病状悪化による自粛ブームや、出演者側のスケジュールの問題などもあり中止になった。1960年代から1970年代後半にかけてTBSの『ベルトクイズQ&Q』、テレビ朝日の『アフタヌーンショー』の2大番組が争っていた。1970年代お昼の視聴率で苦戦していたフジテレビは1980年、漫才ブームに便乗し『笑ってる場合ですよ!』を放送。漫才ブーム終焉後の1982年『森田一義アワー 笑っていいとも!』の放送を開始する。『笑っていいとも!』は瞬く間に人気を博しギネスブックに登録されるほどの人気番組になった。1985年、やらせリンチ事件をきっかけに『アフタヌーンショー』が打ち切られると他局の番組に太刀打ちできる番組はなく正午の時間帯はいいともの一人勝ち状態となったことから視聴率争いは日本テレビ、TBS、テレビ朝日による2位争いに移行した。実際みのもんたは『午後は○○おもいッきりテレビ』(以下『おもいっきりテレビ』)の司会に就任した際の記者会見で、目標を『笑っていいとも!』ではなく当時時間帯2位だった『新伍のお待ちどおさま』に設定するなど2位争いが過熱した。日本テレビは1987年、おもいッきりテレビを放送。当初は『笑っていいとも!』をはじめ他局に苦戦したが1989年、司会の山本コータローが参議院選挙出馬のため降板。みのもんたに司会が変わると、それまでの内容を一新した事が功を奏し、中高年を中心に人気が出はじめた。視聴率で『笑っていいとも!』を逆転する日もあり、それまでの2位争いから「みのもんた症候群」という造語までできた『おもいっきりテレビ』と、若者を中心に安定した人気を保つ『笑っていいとも!』との2番組の戦いへと変わっていく。一方、アフタヌーンショーの打ち切り以降、同時間帯で苦戦し2位争いから脱落していたテレビ朝日は、1996年に『ワイド!スクランブル』を放送。再びワイドショー路線に回帰すると同時に視聴率も上向きになった。2004年4月1日保坂尚希の離婚会見を独占生中継した際は『笑っていいとも!』、『おもいっきりテレビ』を抑え、視聴率1位を獲得するなど 放送内容によっては『笑っていいとも!』、『おもいっきりテレビ』を上回ることもあった。TBSは『ベルトクイズQ&Q』の終了以降、お昼の番組に苦戦することになった。特に1990年代は『新伍のお待ちどおさま』が終了すると、テレビ朝日同様に短命で終了する番組が続出、TBSの正午は死に枠とさえ言われた。2000年開始の『ベストタイム』の放送以降苦戦を続けていたが、2012年『ひるおび!・第2部』にて年間視聴率が同時間帯横並びトップを獲得した。その後、日本テレビの『おもいッきりシリーズ』(おもいッきりテレビ・『おもいッきりイイ!!テレビ』・『おもいッきりDON!』・『おもいッきりDON!』)は2010年3月まで続き、その後『DON!』を経て、2011年3月からは『ヒルナンデス!』を放送。2014年3月、フジテレビは人気番組『笑っていいとも!』を終了させ、4月より『バイキング』を放送。テレビ朝日も同年4月より長寿番組『徹子の部屋』の放送枠を移動した。これにより平日正午の視聴率争いは再び混沌としている。1990年代後半のアメリカ合衆国では、米国を二分するプロレス団体のWWF(現・WWE)とWCW(解散し現存しない)が、月曜夜の同じ時間帯にプロレス中継(WWFの『MONDAY NIGHT RAW』、WCWの『MONDAY NITRO』)を放送しており、熾烈な視聴率争いが発生していた。この視聴率争いは凄まじく、ライバル団体の放送を見て何の前触れもなしに対戦カードを変更する、視聴率で押されそうになると現地スタッフがレスラーに乱入を指令する、などの常軌を逸した演出も日常茶飯事であった。当初はWCWが人気レスラーを起用しnWoブームを生むなど優勢であったが、WWFが選手や社長一家の抗争を前面に出すアティテュード路線に変更することで巻き返し、ついにはWCWを解散に追い込んだ。1950年代から朝日放送が製作し、土曜の夜に大阪をはじめとする近畿地区で絶大な人気を誇った関西ローカル番組『部長刑事』を巡る争いである。『部長刑事』は大阪府警察本部が「応援」という形で番組に協力していたこともあり、大阪土曜夜の顔番組であった。そのため読売テレビや関西テレビなど他局は対抗する手段がなく、裏番組は軒並み打ち切りになっていた。1970年、毎日放送の斎藤守慶(営業局長)が、打倒部長刑事を旗印に東映に「新しい仮面ヒーロー番組を製作したい」という企画を依頼した。そこでできた作品が『仮面ライダー』である。斉藤の目論見は成功し『仮面ライダー』は関西地区で第1話からいきなり20パーセント超えの視聴率をマークした。『仮面ライダー』は変身ブームの到来とともに社会現象にまでなった。1975年に毎日放送と朝日放送との間でのネットチェンジがあったが、ネットチェンジ後も『部長刑事』への対抗として『仮面ライダーV3』や『仮面ライダーX』などの「仮面ライダーシリーズ」や『クイズダービー』(毎日放送)、『平成教育委員会』(関西テレビ)を放送する。しかし『部長刑事』もこれに対抗して、所々でてこ入れを行い毎回10パーセント前後の安定した視聴率を挙げていたが、『新・部長刑事 アーバンポリス24』からはマンネリ化もあり、視聴率で苦戦し始めた。『部長刑事』は「外伝」を始めた2001年、ついに放送時間を土曜18時30分に移動した。「部長刑事シリーズ」は2002年3月まで放送開始から実に43年7か月の間、大阪地区で放送されたが、関東・中京をはじめとした他のネット局では別時間帯で放送されたり、放送されなかった回の存在、不祥事の間接的な原因になるなどした。国政選挙が行われるたびに選挙特別番組において激しい視聴率争いが繰り広げられている。公共放送であるNHKに対抗すべく民放では番組の演出に趣向を凝らすようになる。1980年代に日本テレビで放送された『久米宏のTV選挙スクランブル』では落選した候補者には、「葬送行進曲」を流し、候補者の顔写真が落ちていくという演出を行った。1989年以降、民放各局では視聴率獲得のため、スポーツ中継と開票速報を同時に行う番組編成を行ったり、多くのタレントや芸能人がコメンテーターとして出演させたりした。また、NHKをはじめ各局が出口調査などを元に独自の事前分析で他局より1秒でも早く選挙区の当落を判明させて放送するようになった。一方で、当落の誤報を起こすようになり番組内で謝罪したケースも存在した。2010年、テレビ東京が池上彰を司会に据えた『池上彰の選挙スペシャル』をスタートさせたところ、わかりやすい解説や公明党の幹部や候補者に創価学会との関係について質問する姿勢、また当選した候補者や有名候補者への鋭い切り口が視聴者の好評を獲て、2010年以降4回連続で民放1位の視聴率を記録、2013年の特番では初の2桁視聴率も獲得している。冒頭で述べた通り、(1960年代から2000年まで2社体制で視聴率調査をしていた)「ニールセン」と「ビデオリサーチ」とで、最もテレビの視聴が高い時間帯の基準が両社で異なっていたからによるものとされている。米国に本社を持つ「ニールセン」では、米国基準で最もテレビの視聴が高い時間帯を設定し、これを19時から23時までとして「プライムタイム」と呼んだ(ただし実際の米国における「プライムタイム」の時間帯は月〜土曜の20時-23時・日曜の19時-23時であり、日本のそれとは異なる)。これに対し、「ビデオリサーチ」は日本独自の基準として、最もテレビの視聴が高い時間帯を19時から22時までとして「ゴールデンタイム」と呼んだ。なお、この2区分の調査は、ニールセンの「プライムタイム」は1961年4月の調査開始当初から、「ビデオリサーチ」の「ゴールデンタイム」も1962年12月の調査開始当初から始めた。しかし「ビデオリサーチ」も1971年から「プライムタイム」の調査を開始し、現在に至っている。日本の放送局が視聴率を評価する際に使う表現で、下記3区分すべてで平均視聴率がトップの放送局を指して「三冠王」と呼ぶ。上記に加え、日本テレビではノンプライム(6時-19時、23時-24時)でも視聴率がトップであれば「四冠王」と呼んでいたが、2012年度からはノンプライムを内部参考化したため、こう呼ばれることはなくなった。テレビ朝日ではプライム2(23時-翌日1時)でも視聴率がトップであれば、「四冠王」と呼ぶ。なお、NHKおよびTBS・テレビ東京・フジテレビにおいて、公式にはいずれの意味の「四冠王」の表現を用いていない(フジはかつて、ノンプライムの放送区分を用いて四冠王を称していたことがあった)。1980年代後半に、フジテレビが「三冠王」を使い始めた。フジテレビは1982年から1993年までの12年間、連続して三冠王となったが、これは在京民放局5局の中での三冠王である(NHKを含めた中での三冠王となったのは1987年と1990年から1993年の合わせて5年間で、それ以外の年はNHKがフジテレビの全日視聴率を上回っていた)。なお、1993年のフジテレビの全日視聴率は、日本テレビと同率であった。一方で、年度視聴率においても、フジテレビは1982年から1992年までの11年間は連続して三冠王となったが、やはりこちらも在京民放局5局の中での三冠王であった(1990年になってやっとNHKの全日視聴率を含めて完全三冠王となったが、長くは続かず、NHKを含めた在京6局の中での三冠王は結局、1992年度までの3年だけであった)。その後、日本テレビが「四冠王」の表現を使い始め、バラエティー番組やプロ野球巨人戦の中継が好調に推移したことで、同社が(NHKを含めた在京6局の中での)年間視聴率四冠王の座を1994年から2003年までの10年間、連続して獲得した(1994年の日本テレビは、全日は単独で首位だったが、ゴールデンタイム、ならびにプライムタイムのそれぞれの年間視聴率でフジテレビと同率であった)。一方で、年度視聴率においては、日本テレビは1994年から2002年までの9年間、連続して三冠王だったが、1993年度は全日のみ首位(ゴールデン、プライムはフジの二冠)、2003年度はプライム以外の三冠だった(プライム首位はフジ)。2004年以降は、フジテレビが年間、および年度視聴率の三冠王を2010年まで7年連続で獲得(NHKを含めた在京6局中)。2011年は日本テレビが8年ぶりに年間視聴率三冠王を奪還した(こちらもNHKを含めた在京6局中。ただし、全日はフジテレビと同率であった)。しかし、2012年はテレビ朝日が年間視聴率で、開局以来初のプライム首位を獲得し、日本テレビの2年連続三冠王達成はならなかった(日本テレビは全日、ゴールデンの二冠)。さらに、2012年の年度視聴率、ならびに2013年の年間視聴率では、テレビ朝日がゴールデン、プライムの二冠を達成した(全日は共に日本テレビが首位)。視聴率三冠王の第1号はTBSで、1978年に1度達成している。当時は『まんが日本昔ばなし』、『クイズダービー』、『8時だョ!全員集合』、『Gメン'75』と言った超人気番組を同局が有していたことが要因であった。なお、この年のTBSの全日視聴率はNHKと同率であった。また、フジテレビがNHKを除くともっとも三冠王を達成している。その当時は『とんねるずのみなさんのおかげです』、『ねるとん紅鯨団』、『とんねるずのハンマープライス』、『笑っていいとも!増刊号』、『ダウンタウンのごっつええ感じ』、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』(以上の物は年間平均視聴率順で、フジテレビの全盛であった、90年-95年の物である)と、バラエティが主力で、特にお笑い第三世代が中心であった。ビデオリサーチは番組価値を測る新たな指標として、「Twitter TV エコー」というサービスを開始した。Twitterにおける「インプレッションユーザー数」「インプレッション数」「1分あたりのツイート投稿数」「ツイート投稿ユーザー数」の4つを基本指標としている。インプレッション(ツイートの拡散)が多いのはバラエティ、ドラマなどで、少ないのはスポーツ番組、報道番組などで、高齢層より若年層で視聴率とツイートは高い相関関係、投稿よりもインプレッション(表示)において視聴率とツイートは高い相関関係にある。いずれも日本における視聴率に関するもの。

出典:wikipedia

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