財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。攻玉社を経て明治22年(1889年)、海軍兵学校15期を首席で卒業。明治26年(1893年)、海軍大学校を卒業、日清戦争に従軍。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。以後、海軍次官を務め、大正8年(1919年)、海軍大将。加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、第2次山本内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、浜口内閣の4内閣において海相を務める。昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。しかし海軍軍令部はこれに著しく不満で、犬養毅や鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。同条約が批准された翌日に海相を辞任。財部はこのことが原因で予備役に編入され、実質的に引退することとなる。妻は山本権兵衛の長女である。この縁談が持ち上がった当初、海軍兵学校で同期の広瀬武夫が「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという逸話がある。結局縁談は成立したが、スピード出世を果たした財部は広瀬の危惧通り山本の引きで出世したかのように思われ、「財部親王」と陰口をたたかれることとなった。国立国会図書館「憲政資料室」に日記などが保管され、その複写文書が一般に供されている。そのうち海軍次官時代のものは山川出版社より、近代日本史料選書12-1・2として公刊されている。
出典:wikipedia
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