非人(ひにん)は、主に、いわゆる士農工商には属さないが、公家や医師や神人等と同様にあくまでも身分制度上の身分とされ、人別帳の枠内にある。この点、身分制度外に位置付けられ江戸時代から人別帳外で無籍の山窩(サンカ)等とは異なる。ただし、サンカとの違いは流動的なもので、非人が流浪生活に入ってサンカとなり、逆にサンカが被差別部落に定住して非人となる例がいつの時代にもあった。1910年に山梨県御坂峠で強盗殺人を働き死刑となった松沢熊吉も、愛知県西加茂郡の非人系の被差別部落に生まれ育ち、のちに漂泊民となってサンカ化した者とされている。さらに多数説によると、非人は「下人」といわれた不自由民・奴隷とも全く異なる存在であるとする。非人という言葉は仏教に由来するとも言われ、『法華経』「提婆品」などにこの単語が見られる。しかし、そこでは差別的な含蓄は一切なく、単に比丘や比丘尼などの人間(mānuṣa)に対してそれ以外の者(amānuṣa)、具体的には釈迦如来の眷属である天人や龍といった八部衆を指す言葉として用いられている。日本では平安時代に橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる。非人は、関東では長吏頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあった。江戸の非人には、抱非人と野非人との別があった。野非人は「無宿」(今日的に考えると路上生活者のような立場の人々)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していた。非人小屋は江戸の各地にあった。非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸にはそれは4人(一時期5人になったこともある)いた。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門の支配下にあった。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七だった。非人の主な生業は「物乞い」だった。街角の清掃、「門付(かどづけ)」などの「清め」にかかわる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。時代や地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)は大きく異なる。また、非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子等々の生業からくる総称である。狭義の非人に関しては諸説多数あり、さらなる調査研究が必要とされる。非人の形成期には、検非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の解体処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などを排他的特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者や障害者の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。中世前期は人々が畏れ忌避した業務に携わっていた非人であるが、中世後期に人々の感覚が次第に「畏れの忌避」から「穢れ(触穢)の忌避」に変遷すると共に、非人に対する捉え方も畏怖視から卑賤視へと変遷していったとされる。鎌倉時代には叡尊や忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行する者もいた。中世の非人の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。やがて河原者・無宿者などを指すようになった。江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。非人は、の違いがある。このうち(1)(2)を抱非人(かかえひにん)と呼び、(3)と区別する。近世の非人の発生は、江戸時代の町と村の成立過程と不即不離の関係にある。村においては地方知行制から俸禄制へと移行する中で、村に対する武士の直接的関与が薄れ、年貢の村請けが進行するに伴い、病気や災害などにより年貢を皆済できない百姓が村の根帳(人別帳)から外れ、町へ流入。町においては城下町整備に伴う治安悪化・出火対策の一環として、里帰し政策を取り続けるが、一方ではこれを保護の対象として捕捉し、抱非人として野非人を取り締まった。場合によっては元の身分に復帰することもできたという(足洗い・足抜き)。生まれながらの非人のほかに、刑罰として、平人から非人へ身分を切りかえられるものがあった。それを非人手下といった。「御定書百箇条」には非人手下になる犯科として次のようなものを挙げてある。非人の生活を支えた生業は勧進である。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。非人の課役は、行刑下役・警察役などである。本来町や村は、共同体を維持するため、よそ者や乞食を排除する目的で番人を雇っていたが、非人はこの役を務めた(番非人、非人番)。番太郎・番太とも呼ばれた。死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多(長吏・かわた等)との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した。江戸には、約3000人の非人がおり(4〜5000とする説も)車善七が総括し、各地の非人頭の支配下にあったが、車善七は享保年間の1722年に穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入った。これによって、髷を切り、結ってはならないということになった(非人頭・小屋頭は結ってもよいとされた)。各地の非人頭及び主業務は以下の通り。非人頭は善七、松右衛門、善三郎、久兵衛の4人で、人数の一番多い善七が代表していた。主に、江戸の北半分を善七、南半分を松右衛門が支配し、善三郎は善七に、久兵衛は松右衛門に属していた。この4人の下に30〜40の小屋があり、それぞれに小屋頭がいた。その下にも小屋があり、小頭が置かれていた。その下のものは小屋者と呼ばれた。仕事内容は、小屋頭がやるもの、小屋者がやるもの、弾左衛門の配下がやるものなど、細かく規定されていた。江戸の他においても弾左衛門の支配は、関八州(水戸藩・日光神領)、伊豆国、陸奥国の南端、甲斐国・駿河国の一部に及び、当該地域の非人は弾左衛門の配下となった。畿内においては、中世以来有力寺社との結びつきが強く、多くが各寺社の管理下に置かれた。しかし制度として整備された関東の弾左衛門による組織的な集中支配下に置かれた関係とは異なる。そのためか京都や大阪の町奉行で解決できなかった例が多く残る。時代・地域によっても多様であり、未だ解明されていない部分が多い。有名な例として、太平の世で注文が激減、ついには非人小屋入りしたことから「非人清光」と呼ばれた刀鍛冶、加州清光などもいた。穢多と異なり脇差は禁止され、穢多と同様に傘は禁止された。中世にはハンセン病は仏罰・神罰の現れと考えられており、発症した者は非人であるという不文律があった。鎌倉時代の文献によると、患者と家族が相談し、相当の金品を添えて非人宿にひきとられ、非人長吏(穢多)の統率下におかれたとある。これにより、都市では重病者が悲田院や北山十八間戸、極楽寺などに収容された例もある。江戸時代にはこの病になると家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせた。このためこれらの場所に患者が多く物乞をして定住することになった。旅費が無い場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落を成して勧進などで生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。患者が漁にでると、マグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、漁業に携わる者もいた。
出典:wikipedia
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