他力本願(たりきほんがん)上記の双方の意味とも、『大辞林』・『広辞苑』などの辞書に採録される語意である。本来の意味が用法1の意味であることに異論を示す資料は見られないが、用法2の意味については『岩波仏教辞典』では「語の本来の用法からして誤解である」、『大辞泉』では「誤用が定着したものか」と記載される他、『大辞林』のように意味の生じた経緯等について特に触れない辞書もある。また、『新明解四字熟語辞典』のように、用法2の意味のみを語意として記載した後に「本来は~」として用法1の意味を解説する辞書もある。「他力本願」のうち、「他力」とは他人の力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力を現す言葉であり、「本願」とは人間の欲望を満たすような願いのことではなくあらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである。「正信偈」にと述べ、「邪見」や「憍慢」の心にとりつかれている私たちを「悪衆生」とし、その悪衆生が、本願の念仏を素直に喜び、いただき続けていくことは、「邪見」や「憍慢」が妨げとなり、はなはだ困難であり、困難なことの中でも、最も困難なことであって、これに過ぎた困難はない、つまりこれ以上の困難はないと述べている。そして親鸞は、「正信偈」の上記部分に続く「依釈段」で七高僧の教えを説き、このような悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。浄土教ことに浄土真宗の見解としては、縁あって修行の実践により自らの力で悟りを開こうとする人(難行道・聖道門を選ぶ人、修行仏教)や、その教義を否定するものではない。しかし自らの力で悟りを開こうとすることは、不可能に近いくらい難しいと捉える。主に宗教的意味を伴わない文脈で、「ひと任せ」、「他人依存」、「第三者に任せっきりにして自分の手を一切汚さずに物事を完遂する」、「(太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働きなどによる)成り行き任せ」などの意味で使用される。浄土真宗では、この意味で「他力本願」の語を用いることを誤解であるとする。キリスト教における「三位一体」同様、現在の日本語の中で、元々の宗教的概念や意味合いとは異なって使用されることのある用語の一つである。現在では、用法2の意味も辞書に掲載される一般的な用法である。しかし用法2の意味で使った事例に対して、浄土真宗各派から抗議が行われることがある。以下にその事例を挙げる。
出典:wikipedia
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