石川 さゆり(いしかわ さゆり、1958年1月30日 - )は、日本の演歌歌手。本名・石川 絹代(きぬよ)。熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)出身。堀越高等学校卒業。小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動、次第に歌手を志すようになる。小学5年10歳の時に一家で横浜市神奈川区に転居、のち歌のレッスンを受け始める。横浜市立城郷中学3年の夏休みに、フジテレビの「ちびっ子歌謡大会」に(応募したものの参加できなくなった友人に替わって)参加し合格。同年秋にフジの連続ドラマ『光る海』で沖雅也の妹役としてレギュラー出演した。1973年3月25日、「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー(キャッチフレーズは「コロムビア・プリンセス」)。しかし、デビューから暫くは山口百恵ら「花の中三トリオ」の影に隠れ、大きな人気を得るには至らなかった。それから4年後の1977年、「津軽海峡・冬景色」が大ヒットし、第19回日本レコード大賞歌唱賞などの数々の音楽賞を受賞。続けて「能登半島」「暖流」がヒット。1980年代に入ってからは「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「滝の白糸」「風の盆恋歌」などと順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。また、刑事ドラマ「大空港」に女性刑事役でレギュラー出演し、大河ドラマ「功名が辻」に出演するなど、女優としても活躍している。1981年、元マネージャーの馬場憲治と結婚。1984年2月に長女を出産するも、1989年2月に離婚し、以後独身である。石川は「私は平成に入って最初に離婚した芸能人」と明るく語っている。デビュー時からホリプロに所属していたが、個人事務所「株式会社さゆり音楽舎」を設立し1997年に独立(卒業)。1980年代後半にはカラオケボックス運営会社「カミパレス」の経営を知人と行い、国民銀行の融資のもとで30店舗ほど展開する実業家の一面もあった。しかし後に経営からは退き、カミパレスは1999年9月に破産宣告を受けた。経営破綻した国民銀行が1995年にカミパレス対して行った35億円の融資について、不良債権を引き継いだ整理回収機構が石川個人が契約した連帯保証の残金28億円余りの支払を求める損害賠償請求を提起。2003年に東京地裁で一審判決が出たが、その内容を不服とした整理回収機構が抗告すると共に石川の自宅を一時差し押さえた。同年に10億円の賠償金支払いで決着している。所属レコード会社は、デビューから20年間日本コロムビアに所属したが、1993年にポニーキャニオンへ演歌部門第一号として移籍。1999年に同社の演歌部門が撤退となり、2000年にテイチクエンタテインメントへ移籍し現在に至る。「津軽海峡・冬景色」など初期の楽曲の原盤権はホリプロが保有している。好きな男性のタイプは、「年下より私はずっと年上の人がよくて、いろいろ教えてくれる人の方がいい」と語っている(2007年放送「メレンゲの気持ち」より)。2013年11月8日、女性演歌歌手の先輩として慕い続けた島倉千代子が75歳で他界。同年11月14日、島倉の葬儀・告別式で石川は後輩歌手の代表として「島倉さんの『さゆりしっかりしろ』という声が聞こえるようです。頑張ります」と涙声で弔辞を読んでいた。2015年、第57回日本レコード大賞・日本作曲家協会奨励賞を受賞。石川は、第28回にて「津軽海峡・冬景色」の大ヒットを背景に、初出場を果たす。それから第33回まで6年連続出場したが、1983年は産休・臨月間近に入っていたため、同年の第34回は出場辞退(ただし、NHK側からの要請で応援ゲストとして特別出演した)。翌年の第35回紅白より復帰し、以降連続出場中。第36回以降は実力派がひしめく終盤コーナーの常連となり、紅組トリは6回(その内大トリは1回)取っている。通算出場回数は38回で、女性歌手の中では1位の和田アキ子(39回)に次ぎ歴代2位の記録である。自身は2014年に紅白出場の継続に関し、「今は卒業を全然考えてないけど、そういうこと(卒業)を思う日が来ることもあるかもしれない」と述べている。
出典:wikipedia
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