メッサーシュミット Me 163 「コメート」(Messerschmitt Me 163 "Komet") は、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発した航空機史上唯一の実用ロケット推進戦闘機。「コメート」とはドイツ語で彗星(コメット)の意。ロケットエンジンを動力源とした航空機の開発は1920年代には各国で行われていたものの、初期のロケットエンジンは燃焼の制御が難しく、実験は常に爆発の危険が伴うものであった。1937年にドイツのヴェルナー・フォン・ブラウンがエチルアルコールと液体酸素を推進剤とした推力300kgの液体燃料ロケット A1を開発すると、これに着目したハインケル社のエルンスト・ハインケル博士により、Bf 109との制式採用争いに敗れた自社の単発単座レシプロ機 He 112 にこれを搭載した。1937年6月には離陸から着陸まで全てをロケット動力のみで行う純粋なロケット飛行に世界に先駆けて成功し、ロケット飛行機の実用化に先鞭を付けた。Me163誕生のきっかけは1938年、ドイツ滑空機研究所のアレクサンダー・リピッシュが製作した無尾翼モーターグライダー機DFS 39に、ヘルムート・ヴァルターの開発するを主成分とするとヒドラジンとメチルアルコールを主成分とするを使用するHWK-R1ヴァルター式ロケットエンジン搭載テストをドイツ航空省が申し入れたことによる(逆にリピッシュ側から売り込んだとする資料もある)。このロケット機はDFS 194と命名されると、1939年1月、空軍の計らいで部下10名を引きつれてメッサーシュミット社に入社したリピッシュは、自らの頭文字から命名したL部門なるロケット機開発部門を組織して製作にあたることになった。ハインケル社によって同時期に開発が進められていたHe 176は1939年6月に初飛行を成功させたものの、ドイツ航空省からは開発打ち切りを告げられている。これに対しDFS 194はメッサーシュミット社で開発が続けられ、1939年末に初飛行を成功させるとドイツ航空省は続いて試作機3機の発注を行い、これらにはMe 163AV1〜V3という制式名称が与えられた。ロケット戦闘機開発においてハインケル社とメッサーシュミット社で明暗を分けた形になった。このことには多分に政治的な理由も考えられるが、He 176の直線翼などの従来の航空機とあまり違いのない設計に対し、無尾翼機というリピッシュ博士の設計の先進性が発注の理由となったとも考えられる。DFS 194の改良型であるMe 163Aは、1941年の滑空テストではダイブ時に最大速度855.8km/hを記録して空力的な設計の確かさを証明すると、遅れて完成したHWK-R2-203を搭載してロケット飛行を成功させた。1941年10月のテストでは最大速度1,011km/hを記録した。この当時としては破天荒な高速性能を受け、ドイツ航空省は実用化を決定し先行量産型Me 163B-0を70機発注した。研究機の域を出ていなかったMe 163Aに対し迎撃戦闘機としての実戦配備を前提とされたMe 163Bは、Me 163Aと機体サイズはさほど変わらないものの全面的に再設計が行われた。ロケットエンジンの強化、燃料タンクの大型化、無線装置など諸装置の設置、機関砲の搭載などが行われ、制式番号は同じものの全く別の機体である。ロケットエンジンの開発は遅れていたが、1942年4月にはMe 163B-0の1号機が完成した。ところが開発者であるリピッシュ博士とメッサーシュミット博士は意見の違いから衝突を繰り返し、1943年5月にはリピッシュ博士は部下と共にメッサーシュミット社を退社してしまう。だがその後も開発はメッサーシュミット社のスタッフによって続けられた。リピッシュ博士はその後オーストリアのウィーン航空研究所の所長に就任して無尾翼機の研究を続け、彼の提唱したデルタ翼機は第二次世界大戦後のジェット機開発に大きな影響を与えることになる。YouTubeの動画https://www.youtube.com/watch?v=wnwQcr8tnAwMe 163はその愛称である「コメート(彗星)」にふさわしい上昇力と高速性を持っていた。Me 163が実戦に投入され始めたころ、連合軍は驚異的な上昇力と高速に驚愕したが、じきに航続距離が極端に短い事に気づき、Me 163が配備されていた2つの飛行場を避けて通るようになった。こうしてMe 163は会敵することも出来なくなったのである。飛行場を移そうにも、Me 163は高温の燃焼ガスを噴出するため滑走路はその対策を施したものでなければならず、燃料と酸化剤も特別の保管施設が必要なため移動は困難であった。また、その燃料と酸化剤は爆発性と腐食性が極めて強く、搭乗員や整備員は非戦闘時も生命の危険にさらされていた(パイロットが不時着そのものでは無傷だったが、燃料漏れが発生して、強酸さながらの腐食性を持つ推進剤(とヒドラジン)を浴びて全身に重傷を負った例もある)。ロケットエンジンの信頼性も低く爆発や故障による不時着や墜落が続発した。空中戦の際には急角度上昇から水平飛行に移る際の機動に非常に気を使わないと配管内の燃料に懸かる加速度の影響で燃料の供給が途絶してロケットエンジンが失火することがあり、また接敵できても敵機との相対速度差があまりにも大きいため射撃のタイミングを捉えるのが難しいと言う欠点があった。更に、エンジンの燃焼時間が短いため一度攻撃が失敗すると再攻撃は困難で、燃料を使い切った後のMe 163は単なる鈍重なグライダーに過ぎないため、ダイブで振り切れる高高度滑空中はともかく、一旦着陸態勢に入ると敵戦闘機の好餌となった。機体下部には着脱式の主輪が装着され、これは重量と空気抵抗を軽減させるため離陸後に投下され、着陸時には収納されていた橇(そり)で滑走しつつ着陸する方式となっていたが、この橇は細く絞った機体下部に収納する都合上幅が狭いために接地時の安定性が低く、着陸時にバランスを崩して滑走路に激突する事故が多かった。さらに着陸後は自力で移動・避退できないため、対地攻撃の絶好の標的とされた。ただし、搭乗員たちはその高速飛行性能を極めて高く評価し、上記の致命的な諸欠陥さえも「悪女の魅力」とみなして本機を愛好した。戦後、連合国軍に接収されたMe 163は詳細な調査が行われ、航空技術史的には高い評価を受けたが、ジェットエンジンの発展の前に「ロケット推進航空機」というジャンルの機種は衰退し、実用機としてはMe 163、桜花など数えるほどしか存在しない。
またソビエト連邦でも1942年にが飛行した。他にも、、等があったがどれも実験段階で終わった。しかし、世界で初めて水平飛行による超音速突破に成功したアメリカのベルX-1や、有人航空機としては2008年現在でも7,274 km/h/107.970 kmの最大到達速度/最大到達高度記録を保持しているノースアメリカンX-15のように、実験/記録機としては「ロケット推進航空機」はその後も存在し発展を続けている。また、一部の愛好家によって実用機では無いものの社ののようなロケット飛行機が開発、飛行されている。Me163 の資料が Me262 の資料とともに日独間の連絡潜水艦便で日本に送られ、これを基に局地戦闘機 秋水(J8M)が開発されたが、試作機の最初の試験飛行時に本機と同じく燃料供給問題が起きて失速、着陸に失敗して不時着大破している。2014年に閉館した大阪市港区の交通科学博物館には、Me 163のロケットエンジンの実物が展示されていた。閉館後の扱いについては明らかにされていない。データはMe 163B-1のもの
出典:wikipedia
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