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高木鑑房

高木 鑑房(たかぎ あきふさ)は、戦国時代の武将。少弐氏、大友氏の家臣。『北肥戦誌』によると鑑房は、「勇力万人に優れ、早業は江都の素早さをも超越し、打物(剣・太刀)を使えば樊噲・長良にも恥じず、その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせ、大空に立って大海を飛んだ」とある。天文4年(1535年)に少弐資元が自害すると、少弐氏の家臣を辞して浪人となった。一時、大友義鑑の家臣となり偏諱(鑑の字)を賜るが、資元の子・少弐冬尚が少弐氏を再興すると、旧領に戻って復帰した。天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺隆信を追い落とそうとすると、これに加担する。しかし、天文22年(1553年)に隆信が復帰の軍を起こす。隆信勢が佐嘉飯盛城を攻め落とそうとするのを鑑房は1,300を率いて攻めたが、陣を崩されて若村(じゅうごむら)へ退去、八戸宗暘の加勢を得たものの討ち負けて精町(しらげまち)へ追い詰められ、居城の高木城へ退去した。翌23年(1554年)、隆信による討伐軍が派されると三溝口で迎撃したが、討ち負けて高木城へ退くと、嫡男・盛房を人質に出して和睦、自らは杵島郡佐留志の前田家定を頼った。だが或る朝、外から戻って従者に縁側で足を洗わせていたところを、隆信に寝返った家定に首を打ち落とされた。『北肥戦誌』には、鑑房は首のないまま自らの刀を抜くと、従者を斬り殺して、奥の間へ切り行ったが、家定の家臣数十人が槍で刺し貫き組み伏せたと記述されている。鑑房の二人の子には、隆信より鑑房の旧領の一部が与えられたが、嫡子の盛房は天正10年(1582年)10月に龍造寺氏より離反した戸原紹真を攻めた際に、次男の太栄入道は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで、それぞれ戦死している。

出典:wikipedia

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