宮本 和知(みやもと かずとも、1964年2月13日 - )は、山口県下関市出身の元プロ野球選手(投手)、司会者、タレント、スポーツコメンテーター。ホリプロ所属。山口県下関市出身。小学校3年よりサッカーを始める。中学校時代はサッカー部に入部もすぐ退部して野球を始める。山口県立下関工業高等学校2年の時、投手に転向。1980年秋季中国大会に進出するが、準々決勝で岡山理大付に敗退。翌1981年夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが、下関商に惜敗し甲子園には出場できなかった。高校卒業後、社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所野球部へ入団。1983年には、日本鋼管福山の補強選手として都市対抗に出場。翌1984年も川崎製鉄水島のエースとして都市対抗予選で好投、チームを初出場に導く。一方、同年に公開競技として初めて開催されたロサンゼルスオリンピック日本代表に選出される。都市対抗は欠場したが、オリンピックでの金メダル獲得に貢献した。同年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名を受け、入団。入団発表の前日にサッカーをやっていて足首にケガをし、入団発表を欠席する前代未聞の失態を演じた。入団当初の背番号は13(1991年から21)。入団当初は王貞治監督のもとで1年目から主に中継ぎとして起用され、38試合に登板。9月5日の対広島戦(後楽園球場)で、山本浩二に単独3位となる通算505号本塁打を浴びている。その後、1987年8月9日の対中日戦(ナゴヤ球場)では、チームは近藤真一に初登板でノーヒットノーランを献上し、その際の負け投手となるなど、数年間は伸び悩んだ。しかし、藤田元司新監督が就任した1989年、先発要員としてシーズン後半から一軍に定着。先発としてプロ入り初完投・初完封を記録し、5勝をマークした。10月6日、対大洋戦では完封勝利を収め、リーグ優勝時の胴上げ投手となった。さらに1989年の日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、先発・香田勲男の後を受けて6回裏からゲームセットまで投げ抜いてセーブ投手となり、日本シリーズ胴上げ投手にもなった。すると、1990年には自身初の規定投球回数に到達し、自身初の2桁勝利となる自己最多の14勝、10完投を記録し、2年連続リーグ優勝時の胴上げ投手となった。1991年にも10勝をあげ、2年連続2桁勝利をあげた。1993年に就任した長嶋茂雄監督のもとでも先発投手陣に加わったが、この年は5勝、翌1994年も4勝とやや不調に終わった。しかし、1995年は先発5・6番手として、ローテの谷間を担い、7連勝を記録するなど復調を果たした。1996年は調整不足で出遅れるも5月以降は安定した投球を見せた。優勝決定試合の10月6日、対中日戦(ナゴヤ球場最後の公式戦)で先発したが、矢野輝弘に同点本塁打を浴びる等、早々と降板させられた。それでも、桑田真澄・槙原寛己らが故障で離脱した先発陣を支え、長嶋監督が命名した「レフティーズ」の一人として優勝に大きく貢献した。なお、同年には子育ての事で意見が合わなかったのが理由として8年間結婚していた前妻と離婚。1女は宮本が引き取り、子育ての為に山口から両親を呼び寄せた。1997年には、4月23日の対中日戦で、ナゴヤドーム公式戦初の完封勝利を記録する等、まずまずのスタートを切った。しかし、開幕2日目に追突事故で頚椎を痛めた事が原因となり、シーズンを通しては精彩を欠いた。事故の後遺症の影響もあり同年限りで現役引退を表明。引退試合となった9月28日の対中日戦(東京ドーム)では、先発バルビーノ・ガルベスが8回途中まで無安打の快投を続けたために、宮本の登板が危ぶまれ、ブルペンでの投球練習だけではなく、代打出場にも備えて打撃練習も行っている姿が全国生中継された。それでも、9回表2死の場面で登板し、ゴメスを抑えて、有終の美を飾った。1990年代の巨人の先発投手では貴重な左腕投手として活躍を続け、140km/h台後半の球威のある速球と大きく割れる縦のカーブを武器に5回のセントラル・リーグ優勝、及び2度の日本シリーズ優勝に貢献した。投手会長を長期に渡って歴任し、現役晩年には選手会長を務めるなどリーダーシップの高さには内外から定評があった。引退後は明るいキャラクターを生かしてタレント、スポーツコメンテーターとして活躍。現在日本テレビ「ズームイン!!サタデー」のコメンテーターを始め、1998年は日本テレビのスポット契約・RFラジオ日本解説者、シーズンオフには「まるごとジャイアンツ倶楽部」のパーソナリティー、BS日テレ「デジナマジャイアンツ」キャスターの他、サンテレビジョンの「ゴルフの達人シリーズ」の司会も務めている。プロ野球マスターズリーグ、札幌アンビシャスの投手としても活躍している。同郷の山本譲二主宰のクラブチーム「山口きららマウントG」に参画している。2006年、茨城ゴールデンゴールズとの親善試合にゲスト登板。途中で足がつって降板している。ネットワークビジネスで水を販売しているタイセイ(グリーンプラネット)や、東京と沖縄に医院を持つ本田ヒルズタワークリニックの広告塔も務めている。TBS系列平日正午枠の番組の司会に抜擢され、1998年4月より「宮本和知の熱血!昼休み」が放送された。しかし視聴率は低迷し、1.4%という当時のワースト記録を更新して、6ヶ月で打ち切られた。その後、「おもいッきりテレビ」には2007年4月から9月の打ち切りまで不定期で出演した(みのもんた休養時には司会を務めたことも)。「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」でドーバー海峡横断部に欠員ができた際、同部の勧誘を引き受けて入部。しかし、怪我で活動を続けることが難しくなり、元テニス選手の神尾米を代わりとして同部に紹介し、神尾の入部と入れ替わる形で脱退した。TUBEの前田亘輝と親交があり、1998年には前田プロデュースの「All or Nothing」で歌手デビューしている。この曲は日本テレビ「劇空間プロ野球'98」のイメージソングに使用された。事務所名の「エムズブラボー」はTUBEのアルバムタイトル「Bravo!」に由来している。2007年、芸能人女子フットサルチーム「XANADU loves NHC」の監督に就任。2008年9月、12歳年下の日本舞踊家(正派若柳流)・若柳きららと再婚したことを「ズームイン!!サタデー」で発表した。2013年シーズンより、『ニッポン放送ショウアップナイター』の野球解説者に就任する。永らく喫煙者だったが、2007年、離煙パイプを使い、禁煙に成功したことを明かした。
出典:wikipedia
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