池山 隆寛(いけやま たかひろ、1965年12月17日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者、野球指導者。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍打撃コーチを務める。愛称は「ブンブン丸」。兵庫県尼崎市出身。市立尼崎高校では三塁手、三番打者として第65回全国選手権に出場。2回戦(初戦)では、延長10回の熱戦で加茂川重治投手のいた茨城東高に勝って3回戦に進むが、エース山田武史を擁する久留米商に9回逆転サヨナラ負けを喫する。1983年度ドラフト会議にてヤクルトスワローズから2位指名を受けて入団。背番号は36。入団2年目より代打、守備固めで一軍で出場、関根潤三が監督に就任したより、水谷新太郎から遊撃手のポジションを奪いレギュラーに定着する。当初は八番打者であったが、持ち前の長打力でから5年連続で30本塁打を記録した。には打率.303・31本塁打・97打点という記録を残し、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成した。同年8月23日の中日戦ではサイクル安打も達成した。1992年からは背番号を1に変更した。長くチームの中心打者を務めつつ、遊撃手というポジションを任されてきたが、1996年からはアキレス腱痛に悩まされ始め、宮本慎也の台頭もあってから三塁手へ転向する。からは岩村明憲へ三塁のポジションを譲り、代打を務めることが多くなった。には背番号1を岩村に譲り、自身は入団時の36に戻した。翌に現役を引退。2002年10月17日に明治神宮球場で行われた広島東洋カープ戦の試合前には「現役最後の、ありのままの姿を見せたい」と意気込みを語った。池山はこの時期にはもはや全力疾走も不可能な右足の状態であったものの久々に3番・遊撃で先発出場し、途中からは一塁に回ってフルイニング出場した。打撃では5打数1安打で、8回には現役最後の安打となる左中間二塁打を放ち、守備でも4回に遊撃、延長10回には一塁でもファインプレーを披露した。試合は1-1の同点で迎えた10回に広島が1点を勝ち越したが、その裏ヤクルトは「池山にもう一度打順を回そう」と、飯田哲也がセーフティバントを試み一塁へヘッドスライディング、続く稲葉篤紀が犠打で繋ぎ2死二塁とし、本塁打が出れば逆転サヨナラとなる場面で池山に打順が回った。池山は長谷川昌幸が投じた球速150km超の直球に3球続けて代名詞のフルスイングで空振りし、1-2で試合は終了した。その後、池山はまともに歩ける状態ではなく、足を引きずりながらマウンドに歩み寄って長谷川らと握手を交わした。試合後には引退セレモニーが行われ、引退挨拶で「今日まで19年、多くの応援を頂いた。こんなに幸せな男はいません。これから第二の人生の打席に入りますが、必ず皆様の前に戻ってきます」とメッセージを送り、また同年7月に亡くなった応援団「ツバメ軍団」団長であった岡田正泰へも感謝の意を表した。2003年から2005年までは、フジテレビ(2004年まで)・ニッポン放送の野球解説者およびサンケイスポーツの野球評論家を務めた。2006年からはヤクルト時代の恩師である野村克也監督の下で東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチを務め、2009年に退任するまでに首位打者2人(2008年のリック・ショート、2009年の鉄平)、本塁打王1人(2007年の山崎武司)を輩出した。山崎は「池山さんならヤクルト時代から野村克也監督のID野球が染みついているからバッティング、データ面でも参考になりました」と著書に記している。2011年には古巣であるヤクルトへ復帰、翌2012年までは二軍打撃コーチ、2013年は一軍打撃コーチを務めた。2014年には再び二軍打撃コーチを務め、2015年には二軍野手総合コーチを務めた。同年10月にヤクルト退団を発表した直後に、7年ぶりに楽天へ復帰することが決まり、同年11月の秋季キャンプから楽天の一軍打撃コーチを務めている。また、2012年12月1日から2015年3月31日までの委嘱期間で駿河台大学の客員教授を務め、当初の任期を延長する形で2015年4月1日から再び駿河台大学の客員教授を務めている。
出典:wikipedia
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