福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)。北北西-南南東方向の左横ズレで、従来から把握されていた断層の活動ではなく、200m以上の厚い堆積層に埋もれて地表に現れていない活断層が活動した。当時、地表には断続的に福井県坂井郡芦原町北部から、金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り福井市南東部付近まで続く総延長約25kmの地割れが生じ、のちに福井地震断層と命名された。後年の調査により福井平野東縁断層帯の西部の活動が関与している事が判明している。上下方向の移動量は、1000年で0.1-0.2m程度と推定されているが、活動間隔は不明である。南南東方向への延長線上には濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、更にその延長線は1945年三河地震の深溝断層方向と同一である。震度4以上の揺れを観測した地域は以下の通り。(当時の震度階級、震度0~6による。)東は茨城県水戸市、西は佐賀県佐賀市で震度1を観測するなど、関東地方から九州地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。発生当時戦後最多となる死者を出し、大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は、日本の近代史上でも類をみない。特に現在の坂井市部分では、死者が人口の5%という(同じ際の福井市が1%、後年の大震災時の神戸市が約0.3%)大惨禍となった。福井平野では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。九頭竜川の堆積物により福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部では人口が密集しており、戦後復興期、建物はバラックが多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。震源地直近の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。大和百貨店福井店も1階が潰れて全壊する被害を受け、福井地震の象徴として有名になったが、一方で隣接していた福井銀行は全く被害を受けなかった。地中の基礎となる鉄骨の差が、両者の被害に対照的な違いを生んだとも言える。福井銀行は地下10mまで90cm間隔で500本の杭をびっしりと打ってあった。頭取が元技術者であり強固に建てさせていたという。発生時刻が16時過ぎ(サマータイムでは17時過ぎ)で夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、24件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。片町の映画館「国際劇場」が倒壊、隣のマッチ工場から出火・延焼し、会社帰りの観客などが数百人規模で圧死・焼死した。農業地区でもほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。救援活動は体系的ではなかったが、天理教「ひのきしん」活動などがあった。GHQの給水活動なども注目される。また、この時、紅陵大学(現拓殖大学)の義援隊が、また東京学生同盟からは東大生の渡辺松美を中心とした救援隊が現地に入り、堤防復旧や、避難所での配食支援など今で言う災害ボランティア活動を行った記録がある。この時、渡辺が警察無線を借りて東京に送った内容は、渡辺の手記によると、「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」と言うもので、被害の壮絶さを物語っている。なお、1か月後の7月23日から25日にかけて発生した豪雨により、復旧事業は障害を受けた。吉田明夫、青木元らの研究によれば、1961年の北美濃地震(M7.0)、1969年の岐阜県中部地震(M6.6)、1984年の長野県西部地震(M6.8)と続いた一連の地震との関連性が指摘されている。また、1944年の昭和東南海地震(M7.9)の影響を受け、その震源域及び余震域から離れた地域で発生した誘発地震と考えられている。1945年の福井大空襲、1948年の福井地震、地震の1ヶ月後に集中豪雨で発生した九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は「不死鳥の町」を合言葉にしている。
出典:wikipedia
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