ブライアン・ジョーンズ(Brian Jones、本名:Lewis Brian Hopkin Jones、1942年2月28日 - 1969年7月3日)は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、ザ・ローリング・ストーンズの元ギタリスト兼リーダー。ウェールズ人航空技師である父ルイス・ブラウントと母ルイザ・ベアトリスとの間に生まれる。幼少の頃からピアノを習い、地元の教会の少年聖歌隊員になったり、学校のオーケストラに入ってクラリネットを習うなど、音楽的環境に恵まれた中で育つ。彼は知能指数が135もある優等生であり、将来を有望視されていた。少年時代は歯科医になろうとしていたという。1958年、地元のジャズ・バンド66クラブに加入。ギターとサックスをマスターし、ダンスパーティや学校のパーティなどで演奏をした。この年、16歳だったブライアンは14歳の少女を妊娠させ、チェルトナム・グラマースクールを退学させられた。その後はバスの運転手やレコード店の店員、石炭商など、職を転々とする。1960年、地元チェルトナムにてアレクシス・コーナーと会う。この頃のブライアンは、ヒッチハイクで旅をしながら行く先々で地元のバンドに飛び入りし、ギターやハーモニカをプレイし日銭を稼ぐ生活を送っていた。1961年にはチェルトナムに戻り、地元のローカルバンドでサックスプレイヤーとしてプレイする。同年10月、ガールフレンドのパトリシア・アンドリューズとの間に、彼にとって3番目の子供であるジュリアンが生まれる。1962年、コーナーの助言によりロンドンに移ったブライアンは、デパート店員の職を得て妻子を養っていたが、音楽への情熱を捨てきれず、求人誌にバンドメンバー募集広告を載せた。これを見て連絡してきたのが、後にバンドメイトとなるイアン・スチュワートだった。3月、コーナーによるブルース・バンド、ブルース・インコーポレイテッドにギタリストとして参加。このバンドには、やはり後にバンドメイトとなるチャーリー・ワッツも参加していた。同年4月7日、イーリング・ジャズ・クラブでエルモア・ジェームスの「ダスト・マイ・ブルーム」をスライドギターで演奏する。この時観客として来ていたミック・ジャガーとキース・リチャーズは深く感銘し、ギグの後初めてブライアンと言葉を交わした。3人は「世界中でこの手の音楽をやっている唯一の仲間」である事を確信し意気投合、バンド結成への運びとなった。6月、ブライアンが「ローリング・ストーンズ」のバンド名を提案、一部メンバーから反発されるも、他に代案が示されなかった事から「ローリング・ストーンズ」に決定した。7月より、ストーンズはマーキー・クラブに腰を落ち着けて活動する。またこの頃より、ブライアン、ミック、キースの3人は、チェルシーのアパートで共同生活を始める。12月、空席だったベーシストの座にビル・ワイマンが就き、翌1963年には数バンドを掛け持ちしていたチャーリー・ワッツの引き抜きに成功。同年6月にストーンズはレコード・デビューを果たす。ブライアンは紛れもなくローリング・ストーンズの創設者であった。ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としており、ブライアンはストーンズを紹介する際には必ず「R&Bバンド」と名乗った。当時のブライアンの様子をミックは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現している。ちなみにブライアンはミックのボーカリストとしての力量に疑問を持っていたようで、デビュー直前には代わりにポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を加入させようと考えていた事もある。だが、体調不良などでギグに穴を開けたり、彼女とのデートを優先して仕事をすっぽかすなど、およそリーダーとしてふさわしくない行動が目立つようになり、バンドの主導権は間もなくミックとマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムに移った。ジャガー/リチャーズのコンビがオリジナル曲の製作を始め、オールダムがそれを全面的に推し進めるようになると、作曲能力に乏しいブライアンは次第にバンド内での存在感を失っていく。1964年のアメリカツアーから麻薬がバンド内に入り込むようになると、ブライアンは完全にのめり込んだ。バンドの成功と共にブライアンの焦燥感は募り、以後ますます麻薬に溺れるようになる。元々マルチプレイヤーだったブライアンは、ギター以外の楽器で存在感を示そうと、1960年代半ばから様々な楽器を導入するようになる。アマチュア時代からプレイしていたハーモニカ、サックスやピアノの他、マリンバ、ダルシマー、シタール等の当時のロック音楽では珍しかった楽器を次々と取り入れ、『アフターマス』から『サタニック・マジェスティーズ』までのサイケデリック期のストーンズのサウンドに編曲面で大きな影響を与え、ブルース一辺倒だったバンドの音楽性を幅広いものに変えることに貢献した。また、ビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」にゲスト参加するなど、他のアーティストとの今でいうコラボレーションも積極的に行った。1967年5月、大麻所持の容疑で逮捕される。10月、9ヶ月の禁固刑が言い渡されるが、12月の上告裁判で1000ポンドの罰金と3年間の保護観察処分に減刑され、投獄は免れた。同年にはミックとキースも同じく麻薬所持の容疑で起訴されており、第1審では禁固刑を言い渡されたが、上訴審でミックは12ヶ月の条件付で釈放、キースは無罪となっている。1960年代後半にバンドの運転手兼ボディーガードを務めていたトム・キーロックは、この頃のブライアンから自殺を考えていたことを告白されたと振り返っている。ブライアンも自身の薬物依存を全く省みなかった訳ではなく、逮捕から判決までの間に一度麻薬厚生施設に入っている。だが翌1968年5月、大麻所持の現行犯で再び逮捕された。裁判では無実を主張するが、保護観察中の逮捕という事もあり厳刑も予想された。9月、罰金刑が下され収監は免れた。ミックはプレスに「ブライアンが刑務所に行かずに済んでうれしいよ」と語ったが、この頃にはすでにバンド内でブライアンを除外しようとする動きが出始めていた。ミックによれば、この頃になるとブライアンはギターを持っていることさえできなくなっていたと言う。脱退直前のブライアンの様子は、ジャン・リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』での「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景の中で見られるが、かつての様々な楽器を自由自在・縦横無尽に生き生きと演奏する姿はもはや見られず、虚ろな顔をしていて、まるで魂の抜け殻のようになっていた。ミックは「マジで100%打ち込んでるブライアンを見たのは、「ノー・エクスペクテーションズ」(1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』収録)が最後だった」と振り返っている。この年の11月に、ブライアンはサセックス州ハートフィールド近くにあるコッチフォード・ファームを購入した。この家は「くまのプーさん」の作者A・A・ミルンがかつて住んでいた家である。同年12月の「ロックンロール・サーカス」が、ブライアンにとっての最後のステージとなった。1969年になると、ブライアンはもはやスタジオに現れる事自体がほとんどなくなっていた。6月中旬、ブライアンは自宅のコッチフォード・ファームで、自らが声をかけたメンバーと共に新しいバンドのリハーサルを行う。招かれたのはアレクシス・コーナーの他、ジョン・メイオール、ミッチ・ミッチェルなどがいた。ブライアンはこの時イアン・スチュワートにも声をかけたが、スチュワートはこの申し出を丁重に断っている。6月8日、ミックはキース、チャーリーを伴い、ブライアンのもとを訪れ、ストーンズから脱退してもらうよう頼んだ。ブライアンは100000ポンドの一時金と、ストーンズが存続する限り年20000ポンドを受け取るという提案を呑み、脱退に同意した。記者会見でブライアンは「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなってしまった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語った。脱退から間もない7月3日午前0時ごろ、ブライアンが自宅のプールの底に沈んでいるのが発見された。スウェーデン人のガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時ブライアンは既に死亡していた。27歳だった。9日に行われた検死では、「アルコールとドラッグの影響による不運な出来事」と結論付けられた。ブライアンに代わる新メンバー、ミック・テイラーのお披露目として予定されていた7月5日のハイドパーク・フリーコンサートは、急遽ブライアンの追悼コンサートして行われることとなった。同コンサートはグラナダTVで放送され、後に音楽ソフトとして発売されている。ブライアンの葬儀は7月10日に行われ、故郷のチェルトナムに埋葬された。ストーンズのメンバーで葬儀に参列したのはビルとチャーリーのみだった。なお、彼の墓石には「僕をひどく裁かないでください(Please don't judge me too harshly)」と刻まれているという説があるが、実際には名前と生年月日が刻まれているだけである。これに関しては、バーバラ・シャロンのキース・リチャーズ評伝「"KEITH RICHARDS Life as a Rolling Stone"(邦題:キース・リチャーズ 彼こそローリング・ストーンズ)」の、ブライアンの葬儀場面の記述が発端だと思われる。なお、上記の言葉はブライアンが父親に宛てて書いた手紙に書かれた言葉である。ブライアンは楽器に触れるとすぐに演奏を憶えられたとされ、ギターやハーモニカの他、子供の頃に習っていたピアノやクラリネット、それ以外にもサックス、シタール、ダルシマー、メロトロン、マリンバ、リコーダーといった20種類以上の楽器を演奏でき、また、それらの楽器を曲に織り込むアレンジャーとしての能力は卓越していた。ミックもブライアンのストーンズのサウンド面への影響の大きさを認めているが、その一方で「ギターを捨て、道楽半分にいろんな楽器に手を出しすぎた」と批判もしている。ミックはむしろギタリストとしてのブライアンを高く評価している。実際に、ミックやキースと出会うきっかけは、二人がブライアンのギタープレイに惚れこんだことだった。ミックは「ブライアンはまだスライドギターなんて誰もプレイしてないような頃からプレイしていた。演奏スタイルはエルモア・ジェイムス風ですごく叙情的なタッチをしていた」とブライアンのプレイを讃えている。初期のストーンズのバッキング・ボーカルはキースではなく主にブライアンの担当だった。ミックの担当であるハーモニカも、初期の頃は主にブライアンが吹いており、曲によってはギターを持たずにハーモニカだけを持ってステージ演奏する事もあった。後年のブライアンは、シタールにのめりこんでいたという。ブライアンは作曲にはほとんど関与しなかったとされ、彼の名がクレジットされたストーンズのナンバーはこれまで1曲も発表されていない。ミックは「ブライアンには作曲の才能がまるでなかった。奴より才能のない人間には未だに会ったことがない」とまで言い切っており、チャーリーもまた「皆が曲を作っていてもブライアンは全く頼りにならなかった」と語っている。だがストーンズの作曲クレジットは、必ずしも正確に表記されない事があり、実際にはブライアンが書いた曲でも、クレジットされなかった可能性がある。1967年にはドイツの映画『(英題:"A Degree Of Murder")』(フォルカー・シュレンドルフ監督、アニタ・パレンバーグ主演)の音楽を担当している。だがこの映画はソフト化されておらず、サウンドトラック盤も発売されていない。ブライアンはストーンズを純粋なR&Bバンドと見なしており、ミックも「ブライアンは排他的で音楽観もすごく狭量だった。チャック・ベリーの曲とかやりたくなかったんじゃないかな」と語っている事から、R&B以外の音楽には興味を示さなかったと見られる。一方でミックは「古いR&Bソングのカバーばかりしてた頃は、本領を発揮してるって感じがしていなかった」とも語っており、このあたりにブライアンの志向する音楽とストーンズの進める音楽性にずれがあったことが窺える。ミックはブライアンについて「奴は周りの全ての人間を本当にひどい目に合わせた」、「精神的に不安定で、いつもイライラしていた。才能はあったがすごく変質的な性格だった」、「俺が注目を浴びるともの凄く嫉妬した」と、その人となりを酷評している。キースも「ブライアンはすべてに不満を持ち、いつしか音楽を作る事をやめた。人を裏切り、自分はスターになりたがった」と話す。チャーリーもまた「一緒にいて楽しい奴じゃなかった」と語っている。60年代後半のストーンズ内の人間関係をよく知るトム・キーロックは「ブライアンには何をしても弱気な面と、誰にでも平気で嘘をつく悪党の2面性があった」「特にドラッグに関しては信用できなかった。彼のことは好きだったが生まれついての嘘つきだった事が悲しい」と打ち明けている。一方でストーンズと親交のあったビートルズのメンバーは、皆一様にブライアンを「いい奴だった」と評している。特に同じウェールズ系のジョージ・ハリスンは「ブライアンにはミックとキースがいて、僕にはポールとジョンがいた。僕らはそれぞれのバンドの中で同じような位置にいた」と、かなり親近感を持っていたようである。ポール・マッカートニーも「ブライアンは神経質ですごくシャイで、とても真面目な人間だった。麻薬の影響か、ちょっと手が震えてた。でもいい奴だったよ」と語っている。だが晩年のブライアンとはやはり上手く付き合うことが難しかったようで、ジョン・レノンは「いつしか誰もがブライアンからの電話を怖がるようになった。彼からの電話といえば何かトラブルに決まってたからね」と告白している。ザ・フーのピート・タウンゼントもブライアンの事を「いい奴」と語る一人で、まだザ・フーがアマチュアだった1963年に初めて会っているが、この時ブライアンから「手助けできることがあればなんでもする」と言ってもらったという。タウンゼントはブライアンの死後、彼に捧げる曲を製作したが未発表のままである。ブライアンはストーンズのリーダーの座に相当こだわっていたようであり、オーディションの応募書類を作成する場合には、自身がバンドのリーダーである旨も記入していた。だがミックは「奴がリーダーだった事なんて一度もない」と語っており、チャーリーも「ブライアンにはバンドを率いる能力なんてなかった」としている。晩年のブライアンは周囲からはかなり冷遇されていたようで、1967年にブライアンが逮捕され、保釈された時に彼を心配して迎えに来る者は誰もいなかったという。キーロックはそのときの事を「あの日はブライアンがとてもかわいそうでならなかった」と回想している。彼の最後のステージとなったロックンロール・サーカスも、ブライアンは直前に「皆が俺に冷たくするから出たくない」と、映像監督のマイケル・リンゼイ=ホッグに泣き言を言ってきたという。同じくロックンロール・サーカスに参加したタウンゼントは「ブライアンは舞台袖で涙を流していた。キースはそれを見てみぬふりをしていた」と語っている。ミックも「仲間をクビにして気持ちがいい訳ないだろ。でもそうせざるを得なかった。罪の意識とかはないけど…俺達、ある意味ブライアンを虐めてたんだよ」と、ブライアンに冷たく当たっていた事を認めている。だが、同時にブライアンがバンドにとって必要不可欠な存在であった事も認めている。初期のストーンズのメンバーの中では、ブライアンは最も多くのミュージシャン達と交流を持っていた。彼の師とも言えるアレクシス・コーナーは、ブライアンと、ミックおよびキースを引き合わせるきっかけを作った人物でもある。また、ビートルズと初めて会った時、ブライアンはジョン・レノンがハーモニカ兼コーラス低音部の担当である事を見抜いた。ブライアンは上記のとおりビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」のレコーディングに招かれており、さらにレノンとマッカートニーもストーンズの「この世界に愛を」や「魔王讃歌」(『サタニック・マジェスティーズ』収録)にコーラスで参加している。ジミ・ヘンドリックスとも交流があり、ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバル出演時にはジミを紹介する役割で出演した。またジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス3枚目のアルバム『エレクトリック・レディランド』(1968年)のレコーディングに参加し、「見張塔からずっと」でパーカッションを、未発表曲「リトル・ワン」ではシタールを演奏した。ジミとの共演は、ミックやキースへのあてつけでもあったという。またトム・キーロックは、ジミの自宅でブライアンとジミのアコースティックギターでの即興演奏を聴いたが、それは度肝を抜かれるほど素晴らしいものだったという。ジミもまた、1970年にブライアンと同じく27歳で死亡している。ボブ・ディランとも交流があったが、1966年5月に初めて会った時、ブライアンとキースは泥酔状態で、二人はディランに「『ライク・ア・ローリング・ストーン』は俺達に対する侮辱だ」と因縁をつけ、大喧嘩になった。ディランの「やせっぽちのバラッド」の歌詞にある「ミスター・ジョーンズ」とは、ブライアンの事を指すとされている。冒険作家のC・W・ニコルは、学生時代の先輩に当たる。同じウェールズ人同士ということもあって目をかけていたが、ブライアンが少女を妊娠させた事に憤慨し、両者の間に亀裂が走りそれ以降は音信不通になる。だがニコルはそれでもブライアンの行く末を案じており、彼がストーンズとして活動している事を知ってからもそれは変わらなかった。ニコルがブライアンの死を知ったのは、エチオピアで自然保護官をしている時だった。パトロールの途中で立ち寄ったパブで、観光客からブライアンの死を聞かされ、アラーキ(エチオピアのテキーラ)を呷りながら涙を流したという。ブライアンには判明しているだけで5人の私生児がいるが、どの子に対しても最後まで責任を持つことはなかった。ブライアンの5番目の子供、ジュリアンを生んだリンダ・ローレンスは、息子を伴ってブライアンの葬儀に参列している。特によく知られている女優のアニタ・パレンバーグとの交際は、1965年9月から始まった。アニタとは結婚の噂まで出たが、ブライアンは結婚については否定しながらも「結婚についてはじっくり考えてきた。アニタは俺が真剣になった初めての女だから」と1965年当時のインタビューで語っている。だが、やがてアニタからも愛想を尽かされることになる。二人が別れるきっかけとなったのは、1967年3月のモロッコでの旅行中のことだった。旅の途中で病気になり入院したブライアンがいない隙に、アニタは同行していたキースと恋仲になっていた。その後回復したブライアンが、自分のいないうちにキースとアニタの間に何かあった事を知り、二人は大喧嘩となる。そして3月15日の夜、泥酔したブライアンは怪しい売春婦二人をホテルに連れてきて、アニタに彼女らと性行為をするように命令した。アニタは当然拒否したが、するとブライアンは暴れだしホテルの部屋を破壊し始めた。アニタは服をつかんでキースの部屋へ逃げ込んだ。この一件で二人の関係は終わり、その後アニタはキースと付き合うようになる。この旅行に同行していたトム・キーロックは「これがブライアンが駄目になっていく始まりだった。本人もその事に気付いていただろう」と語っている。アニタと別れた後、モデルのスキ・ポワティエと付き合うようになる。スキはブライアンの最期の時はそばにいなかったが、葬儀には参列している。スキはその後1981年に自動車事故で死亡している。1994年、ブライアンは殺されたという説が『"Paint It Black - The Murder of Brian Jones"』と『"Who Killed Christopher Robin?"』という2冊の本を通じて広まった。これらによれば、当時ジョーンズの自宅の修理をしていたフランク・サラグッドが、ブライアンを殺したと当時のマネージャーのトム・キーロックに告白したというものである(サラグッドは1993年に死亡している)。実際にブライアンの最期の瞬間を目撃した者はいないため、この説は説得力を持たれ瞬く間に拡大していった。2005年に公開されたブライアンの伝記映画『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』(スティーヴン・ウーリー:監督)ではこの他殺説を採用している。2009年、英国警察はブライアンの死について再捜査する可能性がある事を発表した。前年の2008年に、ジャーナリストのスコット・ジョーンズ(ブライアンの親類ではない)がブライアンの死に関する調査報告書を警察に提供したという。だがこの一報以降、この件に関する続報は一切出てきていない。ミックはブライアン他殺説について「奴はプールに溺れて死んだのさ。他の事は誰かが金儲けのために言ってるだけだよ」と一蹴している。ブライアンが1968年夏にモロッコを旅行した際に現地に伝わる民族音楽を自ら録音し、ロンドンのスタジオで編集や加工を加えてアレンジしまとめた作品。死の直前の1969年6月に完成させた。自身は演奏に加わっていないが、原曲に対してかなり恣意的なアレンジが施されている。ブライアンがこの音源をどのように使用するつもりだったのか(そもそもソロ名義で発表するつもりだったのかも含め)不明だが、1980年代後半からワールドミュージックを加工し、ポップミュージックに昇華させるという手法が広まった事を考慮すると、時代を先取りした最先端の作品であったと言える。オリジナル盤のジャケットに使用されていた絵画が版権の問題で使用できなくなり、CD化の際に改められた。
出典:wikipedia
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