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ヘリオガバルス

マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(、203年3月20日 - 222年3月11日)は、ローマ帝国第23代皇帝で、セウェルス朝の第3代当主。ヘリオガバルス("Heliogabalus" )、またはエラガバルス("Elagabalus" )という渾名・通称で呼ばれることが多く、これはオリエントにおけるヘーリオス信仰より派生した太陽神のエル・ガバル(「山の神」の意)を信仰したことに由来する。セウェルス朝の初代皇帝セプティミウス・セウェルスの外戚にあたるバッシアヌス家出身のシリア人で、元の本名はウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス("Varius Avitus Bassianus")といった。セウェルスの長男であったカラカラ帝が暴政の末に暗殺されるとバッシアヌス家もまたローマより追放されたが、彼の母は密かにセウェルス朝復権の謀議を画策した。血統上、カラカラ帝の従姉にあたるソエミアスは自身が夫との間にもうけた子息アウィトゥス(ヘリオガバルス)が先帝カラカラの隠し子であると主張して反乱を起こした。戦いは既に帝位にあったマクリヌス側の敗北に終わり、セウェルス朝復権を名目としてわずか14歳のヘリオガバルスが皇帝に即位した。しかし、彼の統治はしばしば今までも登場した暴君達の悪名すらも越える、ローマ史上最悪の君主として記憶されることとなった。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものであった。また、宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行った。ヘリオガバルスの退廃した性生活についての話題は、彼の政敵によって誇張された部分があるともみられているが、後世の歴史家からも祭儀にふけって政治を顧みなかった皇帝として決して評判はよくない。『ローマ帝国衰亡史』で知られる18世紀イギリスの歴史家エドワード・ギボンにいたっては「醜い欲望と感情に身を委ねた」として「最悪の暴君」との評価を下している。19世紀前半のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールもまた、主著『ローマ史』のなかでヘリオガバルス帝の退廃について言及している。皇帝ヘリオガバルス(ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス)は、元老院議員の父と母の子として203年にシリアのエメサ(現在のホムス)で生まれた。父マルケルスは騎士階級出身で、のちに元老院入りを果たした人物であり、母方の祖母ユリア・マエサはエメサの町の大祭司の娘で、セウェルス朝の開祖セプティミウス・セウェルスの皇妃ユリア・ドムナの姉であった。したがって、彼の母ユリア・ソエミアスはセウェルスの嫡男であるカラカラ帝とは従姉弟の関係にあり、皇帝家の一員であった。幼少期のウァリウス・アウィトゥスは母方一族の生業である神官として養育されたとみられる。「ヘリオガバルス」とは元来エメサ土着の太陽神であった。少年は長じて太陽神ヘリオガバルス(エル・ガバル)の司祭を務め、のちに、その名をそのまま自分の通称とした。やがて皇帝となる少年ヘリオガバルスは美貌に恵まれていた。残虐な性格で浪費家として知られていたカラカラ帝は共同統治者で弟のゲタ帝と、その一派2万人以上を殺害するなどの暴政によって元老院からの信望を失い、217年4月8日、メソポタミアのハッラーンで暗殺された。カラカラには子どもがなく、新しい皇帝にはクーデターの首謀者であった近衛隊隊長のマルクス・オペッリウス・マクリヌスが即位した。即位したマクリヌス帝は、北アフリカのマウレタニアの出身で、騎士身分で初めて皇帝位に就いた人物であったが、セウェルス一族を宮殿から一掃することで、セウェルス朝復活の目論見を防ごうとした。それに対し、中東の属州シリアに幽閉されたセウェルス一族のうち、カラカラ帝の伯母ユリア・マエサは自らの孫であるヘリオガバルスを帝位に就ける陰謀をめぐらした。マクリヌス帝は、その子息ディアドゥメニアヌスと共同で統治したが、東方の大国パルティアに敗れて屈辱的な講和を結んだため、軍隊からの信頼を失っていた。14歳の少年であったウァリウス・アウィトゥス(ヘリオガバルス)は既に先帝カラカラとは女系を通じて親族であったが、未亡人となっていた少年の母ソエミアスは、帝位継承をさらに正当化しようとして、自ら従弟カラカラの妾だったと公言し、少年は先帝と密通して生まれたカラカラの落胤であると主張した。これは、少年の祖母にあたる母ユリア・マエサの意向を受けたもので、マエサは自分の娘を姦婦にしてでも孫を帝位に就かせたかったのである。マエサは、軍人に人気のあったカラカラ帝の威光を利用する作戦を採り、つづいてセウェルス家の富を駆使して第3軍団「ガッリカ」の兵士や将軍を買収して自陣営の戦力を調達した。218年5月16日の夜、少年の一行はエメサに駐屯するローマの軍団に潜入した。それに対し、軍団指揮官のはウァリウス・アウィトゥス少年への忠誠を正式に宣言した。挙兵に際して、ヘリオガバルス少年は「ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス」という従来の名を、カラカラの本名になぞらえて「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」と改名した。ヘリオガバルスの反乱を知ったマクリヌス帝は直ちに遠征軍を派遣したが、そのなかで軍団兵による内乱が発生した。指揮官は暗殺され、兵士たちは指揮官の首をローマに送り返すと、ヘリオガバルスの軍勢に合流した。オリエント諸州の兵たちは、ヘリオガバルスを支持したのである。軍の反乱を前にマクリヌス帝はヘリオガバルスを「偽のアントニヌス」と痛罵し、反乱は発狂した神官による暴挙であると記した手紙をローマの元老院に書き送った。元老院はマクリヌス帝の言い分を認めて、軍の意向とは異なり、ヘリオガバルスを僭称帝とする決議を可決した。元老院の支持を得たマクリヌス帝は自ら軍を率いて親征を開始したが、マエサに買収された第2軍団「パルティカ」の裏切りによってにおいて敗北した。マクリヌスは命からがら戦場から脱してイタリア本土へ戻ろうとしたが、カッパドキアで捕らえられ、斬首の刑に処せられた。同じく捕らえられたマクリヌス帝の子ディドゥメニアヌスも処刑された。アンティオキアでの勝利をもとに、ヘリオガバルスは元老院の許可なしに皇帝即位を宣言した。これは完全に、ローマ法の定める秩序に違反した行為であったが、3世紀に即位したローマ皇帝にはしばしばみられた行為ではあった。また同時に、ヘリオガバルスはマクリヌス帝の治世を批判する手紙を元老院に送付して行為の正当化を図っている。結局のところ元老院は、218年の6月、既成事実を追認するかたちでヘリオガバルスの帝位を認め、また、彼がカラカラ帝の実子であることを承認した。同時に暴君とその母として忌避されていたカラカラとユリア・ドムナを神として祭るという要求も承諾し、逆にマクリヌス帝が「名誉の抹殺」(ダムナティオ・メモリアエ)に処されることになった。また新しい近衛隊長には反乱の立役者が任命された。218年の冬、ヘリオガバルス帝と重臣たちは小アジアのニコメディア(現トルコ共和国・イズミット)で過ごしていたが、同時代を生きた歴史家カッシウス・ディオは、この少年皇帝が問題を抱えた人物であることは既に明らかになっていたと指摘している。新皇帝ヘリオガバルスは、皇帝として「自制心をもって慎重に生きる」ようにと諭した家庭教師を不愉快に思って殺害したと伝えられる。同時期にユリア・マエサは神官にして皇帝という人物を元老院が受け入れるように、神官のローブを身にまとったヘリオガバルス帝の肖像をウィクトーリア女神像の前に掲げさせた。元老院の議員は議事堂のウィクトーリア女神像に捧げ物をする習慣があったので、嫌でも神官姿のヘリオガバルス帝に捧げ物をするかたちになった。こうした振る舞いに、後盾であった反マクリヌス派の軍勢は早くもヘリオガバルスを推挙したことを後悔し始め、将軍に率いられた第4軍団「スキュティカ」、および元老院議員のウェルスに扇動された第3軍団「ガッリカ」(彼らは反乱に加担し、ヘリオガバルスの皇帝就任に助力した)の兵士がニコメディアからローマに向かうヘリオガバルス帝を襲撃する事件が起こっている。しかし、反乱軍は足並みが揃わずに自壊し、「ガッリカ」は消滅した。皇帝の一族はシリアからローマをめざしたが、アンティオキアやニコメディアに長期間逗留し、上述のように途中で反乱があり、また、天から降ってきた(隕石)と信じられていた、底が平らで先の尖った円錐形の形状をもつ巨大な「黒い石」を御神体としてエメサの神殿から運び出したため、一行のローマ到着は遅れに遅れ、219年の初秋、ようやくローマに到着した。ローマ入城の際、人びとは新皇帝の出で立ちをみて驚愕した。少年皇帝は、地面に届きそうな長袖を支える紫色の地に錦糸をあしらった司祭服を着用し、ネックレスや腕輪など豪奢な装身具をほどこし、頭上に宝石を散りばめた帝冠をいただいたうえで女装していたからである。やマエサとともにローマへ入城したヘリオガバルス帝は、取り巻きたちを要職に就けて体制を固めた。たとえば、エウティキアヌスは近衛隊長に続いて3度の執政官叙任を受け、さらに属州総督として2度派遣されている。私生活の退廃も人事にも影響を与え、男性の愛人であった奴隷のヒエロクレスを共同皇帝にしようとしたり、別の愛人である戦車競技の選手ゾティクスを皇帝の執事長に任命している。財政面では、カラカラがそうしたように銀の含有量を減らしてデナリウス銀貨の切り下げを行うが、一方でカラカラ帝が創始したアントニニアヌス銀貨は廃止した。ヘリオガバルス帝の初期の治世で部分的ながらまともな統治が行われていたのは、祖母ユリア・マエサと母による執政が行われていたためと考えられている。この野心に満ちた2人の女性は元老院に名誉称号すら要求し、ソエミアスは「クラリッシマ」(wiktionary:clarissima)、マエサは「元老院の女神」("Mater Castrorum et Senatus")をそれぞれ授与された。実権を掌握してまるで女帝のような振る舞いをみせる祖母と母に対してヘリオガバルス帝は何ら自分の意見を表明できない、ただの傀儡でしかなかった。少年皇帝は、祖母と母から甘やかされて育ち、浪費家で、政治的には無能力だったのである。少年皇帝が最初に結婚した相手はという女性であり、220年に豪奢な結婚式が挙行されている。このとき、ローマ市民や兵士に対しても御祝儀が大盤振る舞いされたといわれる。コルネリア・パウラは、同じシリアに領地を持つ有力貴族の娘であったことから、皇帝即位時に周囲が決めた政略結婚であったと考えられている。彼女はアウグスタ(皇后)の称号を得たものの、この結婚生活は長く続かず、その年のうちに2人は離婚した。パウラが皇帝の異常ともいえる性愛に応えられないというのが離婚の理由であった。皇帝はパウラと離婚すると、220年末に「ウェスタの処女」たる巫女のを手篭めにして再婚した。竈(かまど)の神ウェスタに仕える巫女は共同生活を送り、聖なる火を絶やさぬことを務めとしていた。幼少時に神職に召された巫女たちは「神々に身を捧げる」という意味から、その身を清らかに保つため、神に仕えるあいだ処女を貫くことが求められ、その禁忌を破った場合には生きたまま穴埋めされるという恐ろしい掟があった。しかし、ヘリオガバルスはそのような掟は意に介せず、彼女と結ばれれば、神のような子どもが授かると信じ、彼女に禁忌を犯させてでも結婚を強要したのである。禁断の結婚に対する周囲の批判からほどなく、結婚半年でアクウィリアとの婚姻を解消したのち、221年7月に3度目の妻として迎えたのは美貌で知られたであった。彼女は、五賢帝のひとりで哲人皇帝として知られたマルクス・アウレリウスの曾孫で、その子であり暴君として暗殺されたコンモドゥス帝の大姪であった。これはセウェルス朝の前王家にあたるネルウァ=アントニヌス朝との連続性を主張する政治的意図があったとみられる。実は、アンニア・ファウスティナにはという夫があり、そのあいだに一男一女があったが、この夫を処刑しての結婚であった。この結婚もうまくいかず、221年中には離婚し、結局ヘリオガバルスはアクウィリアとよりを戻して4度目の結婚を果たした。セプティミウス・セウェルス帝のとき、ローマ帝国のなかでは太陽神信仰が流行する傾向にあり、皇帝自身、先に述べたように太陽神信仰の一つであるエル・ガバルを奉じる神官であった。シリアはもともと母系制の社会であったが、女性は太陽神の祭司にはなれないことになっていた。多神教の社会であったローマでは宗教に寛容であり、領域拡大にともない各地の土着神を受け入れていた。古くからローマでは太陽神としてソールが知られ、しばしばローマ神話にも登場しており、また、ペルシャの太陽神ミトラスを奉ずる密儀宗教、ミトラ教も信じられていた。ただし、ミトラ教が女人禁制であるのに対し、エル・ガバルは両性具有の神性を有していた。ヘリオガバルス帝はローマでのこうした太陽神信仰の流行を好機ととらえ、シリアの太陽神エル・ガバルを古代ローマの多神教における最高神に位置づけるべく「デウス・ソール・インウィクトクス」と尊称させ、天空神ユピテルをも従える存在とした。さらに、ユピテルに従うとされていたカピトリヌスの三女神をエル・ガバルの妻と位置づけ、その権威を高めようとした。ここにローマは、かつてのポエニ戦争以来敵対してきたセム系の神、神官およびそれを操る女性たちの支配を受けることとなった。ヘリオガバルスは、ローマ皇帝の正式の称号に「常勝太陽神エル・ガバルの大神官」を追加した。さらに、ヘリオガバルス帝は上述したように処女を保つ戒律を持っていた巫女アクウィリア・セウェラとの結婚を周囲に認めさせ、神官同士の交わりによって「神の子」を生み出そうとした。本来であれば「ウェスタの処女」を辱めた者は殺され、この禁忌を破った巫女もまた神の罰を避けるために生きたまま土に埋められると決められており、皇帝の行為はローマにおける宗教的慣例を踏みにじる暴挙であった。独自の宗教政策の果てに、ヘリオガバルス帝は「ヘリオガバリウム」と呼ばれる巨大なエル・ガバル神の宮殿をローマのパラティーノの丘(パラティヌスの丘)に建設させ、故郷エメサから持ち込んだ黒い隕石を神具として崇拝させ、毎朝、牛や羊が生け贄として捧げられた。歴史家ヘロディアヌスによれば「黒石は神界からの賜り物のごとく崇拝が行われた」とされ、表面の文様が太陽神エル・ガバルの姿を描いていると信じられていた。新たな崇拝対象への信仰心を示すため、ヘリオガバルス帝自身も割礼を行い、元老院議員に対し、みずから踊り子として祭壇の前で舞う姿をみるよう強要した。ローマの民衆は、神殿で皇帝が神からの賜りとして配る食事を目当てに神殿の祝祭に殺到したと伝えられる。そして、この祝祭の仕上げに、「黒い石」が金細工や宝石類で飾り付けた馬引きの戦車に載せられ、砂金の敷かれた道を運ばれて街中を凱旋したようすをヘロディアヌスは記録している。ヘリオガバリウムには帝国中の神具や神器が集められ、キュベレー神殿・ウェスタ神殿・神官学校などの宝物品や「トロイのパラディウム像」や「」、「ウェスタの聖火」などが持ち込まれた。こうした行為はヘリオガバリウムこそがローマ帝国唯一の聖地となるべきと考える皇帝の命令によるものであった。急進的な宗教政策以上にヘリオガバルス帝を有名にしたのは、倒錯的かつ退廃した性生活に関する逸話である。そもそもヘリオガバルスは、正式な結婚生活すら4回の離婚と5回の「結婚」を繰り返しているのである。「ウェスタの処女」セウェラとよりを戻し、4度目の結婚をしたはずの皇帝であったが、その年のうちにまたも離婚した。今度は、こともあろうに小アジア出身のカリア人奴隷で、しかも男性であるヒエロクレスの「妻」となることを宣言。これが、5度目の「結婚」であった。さらに『ローマ皇帝群像』によれば同じく男性の愛人である戦車選手ゾティクスとも結婚したと伝えられている。皇帝は、公共浴場へ行っては女風呂に入って女性たちに脱毛剤を塗ってやったとか、毎晩、怪しげな女たちをベッドルームに連れ込んで彼女たちの痴態を観察するなどの淫行を繰り返した。また、密偵を放ち、ペニスの巨大な男性を探させて宮廷に連れて来させ、情事を楽しんだ。皇帝は芝居をしながら、突然全裸になり、片手を胸に片手を陰部に当ててひざまずき、巨根の男に向かって尻を突き出して腰を前後運動させたという。猟奇的な逸話としては、神殿内で飼育している猛獣に切り落とした男性器をエサとして与えたというものまで伝わっている。『皇帝列伝』は、以下のように伝える。元老院議員として宮殿に出入りしていたカッシウス・ディオはヘリオガバルス帝の性的倒錯を記録し、同性愛ばかりではなく女装癖があったとして実際にその現場を見たことを記録している。カッシウスは、以下のように伝える。カッシウスはまた、「皇帝は、いつしか男を漁るために酒場に入り浸る習慣を持つようになり、化粧と金髪の鬘をつけて売春に耽溺した」と叙述してこれを非難し、皇帝が最終的に帝国の中枢である宮殿に客を呼び込んで売春宿にするという醜態まで晒したと記録している。ヘロディアヌスもこの噂について言及しており、ヘリオガバルス帝は顔を化粧することにより、こうした行為のためにふさわしい容貌を持つようになっていたという。皇帝は全裸で廷臣や警護兵を甘い声で誘い、男娼として売春する一方、金髪の奴隷ヒエロクレスに対しては「妻」として従っていた。厚化粧して妻になりきり、しかも、「ふしだらな女」と噂されるのを好んで、他の男性とも肉体関係を結んだ。これを知ったヒエロクレスは「妻」である皇帝の不貞をなじり、罵倒し、しばしば殴打におよんだ。そして、皇帝は、殴られて自分の眼の周りがどす黒く腫れ上がったことを悦んだという。また、性転換手術を行える医師を高報酬で募集していたともいわれている。このことからヘリオガバルス帝の性癖について、これを同性愛や両性愛というより、トランスジェンダーの一種として考える論者も多い。度重なるヘリオガバルス帝の奇行に周囲は耐えかねており、近衛隊も皇帝の異常な狼藉に激しい嫌悪を感じていた。加えて宮殿外でも民衆や元老院が皇帝への不満と怒りを高めていた。エル・ガバルをローマの主神にすえ、隕石を御神体とするエラガバリウムを建てさせた皇帝は、楽器を打ち鳴らす怪しげな女の一団を引き連れて淫蕩な踊りを舞いながら神殿に向かい、屠殺した獣の血を混ぜたワインを捧げ、香をたいた。踊りながら神殿の周囲をめぐり、誰もがトランス状態になったとき、皇帝は少年を生け贄として神殿に捧げたという。この所業に対しては、ついにローマ市民の多くも怒りの声をあげた。王族内においても、影の実力者である祖母ユリア・マエサが孫に対して見切りを付けつつあった。しかし、ともに実権を握っていたヘリオガバルスの母だけは宗教政策を積極的に後押しするなど息子への協力を続けていた。そこでマエサは、ソエミアスの妹である次女ユリア・アウィタの息子で、マエサからは別の孫にあたるアレクサンデル・セウェルスを後継者とする計画を立て、221年、ヘリオガバルス帝に対し従弟アレクサンデルを養子にするよう認めさせ、アレクサンデルにはカエサル(副帝)の称号を名乗らせた。アレクサンデルはヘリオガバルスの5歳年下であった。いったん養子縁組を承知したヘリオガバルス帝であったが、近衛隊の兵士たちがアレクサンデルに接近し始めたことから途中で危機感を覚え、養子縁組を取り消した。アレクサンデルは、ヘリオガバルスとは異なり、実直な性格で近衛兵からの人気が高かった。ヘリオガバルスは失脚したアレクサンデルを幽閉し、近衛兵たちには既に死亡したと伝えて動揺を誘おうとした。しかし、これが逆に彼の命取りとなった。近衛隊は動揺するどころか激昂して皇帝に対する反乱を起こし、ヘリオガバルスに対し、アレクサンデルの生死の確認とその責任を取るよう強く求めた。恐れをなしたヘリオガバルスは慌ててアレクサンデルの生存を発表して、従弟を解放した。3月11日、近衛隊の城砦に逃れたアレクサンデルは歓声をもって迎えられ、兵士の誰もがヘリオガバルスに対し忠誠を継続することを拒んだ。近衛兵は即座にアレクサンデルを指導者として反ヘリオガバルスの軍勢を挙げ、宮殿へと進軍した。全ての後ろ盾を失ったヘリオガバルスは母ソエミアスとともに反乱軍に捕らえられた。同時代を生きたカッシウス・ディオによれば、2人は揃って処刑され、遺体は激昂した市民たちによって切り刻まれたうえテヴェレ川に捨てられたという。皇帝の死によってエウティキアヌスやヒエロクレスなどの取り巻きたちは一掃され、太陽神の神体であった黒い聖石はシリアに返され、エル・ガバル神も地方の土着信仰へと戻された。女性の元老院への関与も明確に禁止され、かつてマクリヌスに課した「名誉の抹殺」を自らも受けることになった。新しい皇帝として即位したのはヘリオガバルスの従弟で、14歳の副帝アレクサンデル・セウェルスであった。『ローマ皇帝群像』は、帝政ローマの時代の人物によって叙述されたと考えられるローマ皇帝の伝記集であるが、編纂の詳細な時期・地域は不明であり、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガッリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベッリウス・ポッリオ、フラウィウス・ウォピスクスが「6人の著者」といわれている。ヘリオガバルスの評伝については、当時の歴史書における常として、のちに即位した皇帝やその支持者によって誇張された部分があると考えられている。そうした誇張のなかで特に有名なのが『ローマ皇帝群像』のなかにある「客人に薔薇の山を落として窒息死させるのを楽しんだ」とする逸話であり、このエピソードは有名なローレンス・アルマ=タデマの絵画「ヘリオガバルスの薔薇」のモチーフとされている。これは、ヘリオガバルスが宴会に招いた客の上に巨大な幕を張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させたという風評にちなんでいるが、真偽のほどは明らかでない。現在では『ローマ皇帝群像』における他の評伝と同じく、「ヘリオガバルス伝」のほとんどは信用に値しないと見なされている。そもそも『ローマ皇帝群像』ははるか後年の4世紀頃に編纂されたと考えられている伝記集であり、加えて捏造や創作がたいへん多いことでも知られている。ヘリオガバルス伝においても当然ながらそうした虚偽が含まれていると考えるのが自然である。ただし、第13節から17節までは例外的に資料的な信憑性が存在するとみられており、現在でもその意義を認められている。ヘリオガバルスとは同時代の歴史家で、自らも高名な元老院議員として皇帝の動向を知る立場にあったカッシウス・ディオも、『ローマ皇帝群像』ほどではないにせよ、上述のように彼の退廃や性的倒錯について多くを記録し、厳しい批判を展開している。カッシウスが書き残した『ローマ史』は、『ローマ皇帝群像』に比べて遥かに高い信憑性を持ち、帝政中期のローマを知るうえで第一級の文献資料として高く評価されている。そうした点を踏まえれば、『ローマ皇帝群像』などの後世における書籍で面白半分に誇張された要素はありつつも、実際にヘリオガバルスが相当の問題を抱えた人物であった事は動かしがたい。ただしカッシウスも歴史家として何ら不誠実さがなかったと断じるのはいささか中立的とはいえない。『ローマ史』の評伝が書かれた時代の多くを彼は現役の元老議員として過ごしたが、それ故に属州総督などの任務で外地に赴いている時間も多かった。彼自身、ローマに滞在していた友人の政治家たちからの報告を二次資料として採用している事を認めている。またカッシウスはヘリオガバルス帝の後に即位したアレクサンデル・セウェルス帝を支持しており、その点も加味される必要はある。属州シリアの役人であったヘロディアヌスはカッシウス・ディオと同様、皇帝と同じ時代を生き、目撃者として同時代史をつづった歴史家で、コモドゥス帝の即位からゴルディアヌス3世の暗殺までの記録である『ローマ人の歴史』を書き残した。カッシウス・ディオの記録とは必然的に重複しているが、それぞれ別の調査によって記録を残している点で資料的な意味を有する。ヘロディアヌスは宮殿に出入りできる立場でなかったという点でカッシウスに劣るが、その分、より中立的に皇帝たちの動向を残す事に努めている。彼の関心の多くは皇帝の性的退廃より宗教政策について向けられており、その詳細な内容はエル・ガバル信仰を調べる上で重要な記録となっている。彼の記録は、実際に後世の文献学的研究と考古学的調査で裏付けられている。18世紀のイギリスの著名な歴史家エドワード・ギボンは、冒頭で示したように『ローマ帝国衰亡史』を叙述し、そのなかでヘリオガバルスを厳しく批判している。ギボンは、このように述べて「最悪の皇帝」との評価を下した。また、19世紀のドイツの歴史家バルトホルト・ゲオルク・ニーブールは、主著『ローマ史』(1844年)のなかで「ヘリオガバルスという名の印象は、彼自身の退廃によって決定付けられた」と記している。ヘリオガバルスの退廃癖は後世におけるデカダン派の運動で注目された。道徳性に欠けた耽美主義者というヘリオガバルスのイメージは、その後も今日に至るまで数多くの創作作品への意欲を生み出した。

出典:wikipedia

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