LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

薬丸兼武

薬丸 兼武(やくまる かねたけ、安永4年(1775年) - 天保6年7月14日(1835年8月8日))は薩摩藩の剣客。久保之英の次男であったが薬丸兼富の養子となり薬丸家を継いだ。通称は、はじめ七郎兵衛、次いで新蔵、長左衛門。諱は兼尭、兼武。家格は小番。薬丸自顕流初代師範。実兄は久保之正。剣客として名声があり、家伝の剣術に示現流を取り入れた如水伝、ジゲン流(薬丸自顕流)を立ち上げ示現流より独立し、薬丸自顕流(薬丸派示現流)初代師範となる。異端として藩に忌避されて屋久島に流され、そこで没した。薬丸家は薬丸兼陳以来、代々示現流の東郷家の弟子であったが、実際には代々家伝で技を伝承しており、東郷家から教授されることは段々なくなっていた。また、東郷家の不振もあり、師範代的な地位で示現流を支えていた。その一方で家伝の剣術は示現流とは異なる独自の発展を遂げていた。兼武は次々に他流試合を申し込まれるもことごとく打ち破り、また弟子も多く、ついに如水伝、ジゲン流を称して東郷家より独立した。如水は薬丸兼陳の号である(薬丸自顕流)。ところが、この独立は弟子の移動があるなどして円満なものではなく、示現流史範家の東郷実位及び藩主の島津斉興(示現流の皆伝だった)より示現流の異端として忌避される。特に小太刀、槍止めを得意とした。他流試合の逸話も槍止めに関するものが多い。小太刀の木刀で明珍作の兜を切ったという信じがたい話もある。尚、その際に読んだという歌(「明珍の鎧兜をたのみにしてまないたになる人ぞかなしき」)が残っている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。