近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。天文5年(1536年)、近衞稙家の長男として京都に生まれる。母は久我通言の養女・慶子(細川高基の娘)。天文9年(1540年)に元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府第12代将軍・足利義晴から一字を賜り晴嗣(はるつぐ)を名乗る。天文10年(1541年)には従三位に叙せられ公卿に列する。天文16年(1547年)に内大臣、天文22年(1553年)に右大臣、天文23年(1554年)に関白左大臣となる。また、藤氏長者に就任した。天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙し、足利家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて名を前嗣(さきつぐ)と改める。永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。前嗣は関白の職にありながら、永禄3年(1560年)に越後に下向、更に永禄4年(1561年)の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるために上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。この後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前久にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている(『歴代古案』)。この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年(1562年)8月、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる(「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』337)。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている。永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆・松永久秀は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であったがその正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。だが永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に先関白の二条晴良も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した。前久は、都から丹波国の赤井直正を頼って黒井城の下館に流寓。その後、本願寺11世・顕如を頼って摂津国の石山本願寺に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。そのため、天正元年(1573年)に義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。天正3年(1575年)、信長の奏上により、帰洛を許された。以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている。9月には、信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図った。天正5年(1577年)に京都に戻り、翌天正6年(1578年)には准三宮の待遇を受ける。次いで信長と本願寺の調停に乗り出し、天正8年(1580年)に顕如は石山本願寺を退去した。特に10年近くかかっても攻め落とせなかった石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、前久が息子・信基にあてた手紙によれば、信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束を得たという。天正10年(1582年)2月に太政大臣となるが、5月には辞任している。これは信長の三職推任問題に関連して前久が信長に同職を譲る意向であったからだとも言われている。3月の甲州征伐には信長と同行する。だが、6月2日の本能寺の変によって、信長が横死したため、前久の運命も変転を余儀なくされる。失意の前久は落飾し龍山と号する。しかし、「本能寺を攻撃した明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」と讒言に遭い、織田信孝や後に猶子となる羽柴秀吉からも詰問される。そのため、以後は徳川家康を頼り(徳川氏の創姓は前久と吉田兼右が関わっていた)、遠江国浜松に下向した。一年後、家康の斡旋により秀吉の誤解は解け京都に戻るが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで両者が激突したため、またもや立場が危うくなった前久は奈良に身を寄せ、両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛した。晩年は慈照寺東求堂を別荘として隠棲した。貞享3年(1686年)刊行の雍州府志によると、前久が隠棲していた時代の慈照寺は「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。慶長17年(1612年)5月8日、薨去。享年77。京都東福寺に葬られた。法名は東求院龍山空誉。前久は藤原氏嫡流の五摂家らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮した。書道は、青蓮院流を学び、有職故実にも詳しかった。更に馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示して「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えている。京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。同時に地方に中央の文化を伝播する上で重要な役割を果たしたと評価されている。なお以下の六首は信長の七回忌(天正十六年六月二日)に詠んだ追悼歌。書き出しの一字がそれぞれ「なむあみだぶ」で揃えられている。以下表中、日付は旧暦、西暦年は和暦年を日付にかかわらず単純にユリウス暦に置換したものである。凡例 - 実線は実子、縦点線は養子、横点線は婚姻。
出典:wikipedia
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