細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢) / 明智 珠(明智 玉)(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれる場合が多い。永禄6年(1563年)、明智光秀と妻・煕子の間に三女(四女説もある。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれる。天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した。この年に興秋が生まれている。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。もっとも忠興の前ではそ知らぬ風を装っていた。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった。九州から帰ってきた忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として「"散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ" 」と記している。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。なお、細川屋敷から逃れた婦人のなかには、ガラシャの子・忠隆の正室で前田利家の娘・千世もいたが、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は、忠隆に千世との離縁を命じ、反発した忠隆を勘当・廃嫡した(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。彼女の死後、忠利が興秋を差し置いて家督を相続、不満を抱いた興秋が大坂の陣で豊臣側に与する原因となった。この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することはなかった。一般には上記の通り、玉子はキリシタンの戒律及び夫の命を守り、自害することなく、少斎の手にかかって死亡したとされている。しかし太田牛一の『関ヶ原御合戦双紙』蓬左文庫本では、彼女が自ら胸を刺した、とあり、河村文庫本ではさらに、10歳の男児と8歳の女児を刺殺した後に自害した、とある。『言経卿記』慶長五年七月十八日条にも「大坂にて長岡越中守女房衆自害。同息子十二才・同妹六才ら、母切り殺し、刺し殺すなりと云々。」とあり、玉子の子供たちの犠牲について、当時噂になっていたことが伺える。また、侍女らが全員脱出した、との点に関しても、『慶長見聞集』には「御内儀竝子息弐人、供の女三人自害」とあり、少斎の他にも殉死者がいたとの噂は広がっていたようである。なお、細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男忠隆(天正8年生)・次男興秋(天正12年生、あるいは11年とも)・長女長(生年不明、前野長重室)・三男忠利(天正14年生)・三女多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない。ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されることになった。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された。脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが作曲した。アドルフは、この戯曲の要約文書において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」の独訳本の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」であったことをも明記している。戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれている。夫である蒙昧かつ野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きである。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。
出典:wikipedia
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