白棚線(はくほうせん)は、福島県白河市の白河駅と同県東白川郡棚倉町の磐城棚倉駅を結ぶ白棚鉄道・鉄道省・運輸通信省の鉄道路線であり、これを引き継ぐ日本国有鉄道(国鉄バス)・東日本旅客鉄道・ジェイアールバス関東(JRバス関東)の自動車路線である。東白川郡棚倉町は郡役所、警察署、税務署が所在しており、東白川郡の中心地であったが、日本鉄道が開通し白河に停車場が設けられてからは、交通上不利な立場となり、町は衰退していた。一方金山村 (福島県) や 高野村 (福島県東白川郡) には炭鉱があったことから、白河 - 棚倉間の鉄道敷設の計画をする者が陸続とあらわれてきた。その嚆矢は1896年7月に出願された白河炭鉱鉄道である。白河炭鉱の石炭運搬が目的とおもわれるが、発起人など不明で詳細はわからない。出願は1898年に却下されてしまった。その後は地元の有志たちが鉄道敷設運動を行ない、陳情もなされるがなかなか実を結ばず、具体化されたのは当時鉄道王と呼ばれた雨宮敬次郎が登場してからである。雨宮は各地の有力者の協力のもと全国に軽便鉄道を建設し、1908年にそれらを統合し大日本軌道を設立することになるのであるが、ここ白河-棚倉間にも鉄道を敷設することを計画し、地元の有力者とともに、1907年2月内務省に特許申請し、10月7日に白棚軌道に対し軌道特許状が下付された。ところが道路上に軌道を敷設することから、道路幅員が人家のあるところで単線四間、複線五間それ以外の場所はそれぞれ三間と四間という条件であったものが、陸軍省より特許後の15日に「人家のあるところで単線六間半、複線七間等々の拡幅を開業後適当な時期におこなうように」との条件が加えられた。これには多額の資金負担を必要とすることから、特許有効期限延長申請が提出され、計画が中断してしまった。白棚軌道が暗礁に乗り上げているなか、1908年2月12日に棚倉鉄道に対し仮免許状が下付されている。区間は白河町-棚倉町間、西白河郡金山村-同郡同村白河炭鉱間、軌間は762mm、発起人総代は白河炭鉱所有者の岡野磧である。資材は軌間762mmから1067mmへ改軌工事中の青梅鉄道より調達することとし、用地買収交渉や株式応募は行われたようだが、石井村 (福島県東白川郡) の大地主が計画から降りてしまい、1909年には「有効期限内ニ本免許ノ申請ヲ為ササル」という理由で免許を失効してしまう。また白棚軌道も打開策を見いだせず、特許有効期限延長申請が再三にわたったため却下されてしまい、1909年6月1日に特許状は返納され実現しなかった。1911年から1912年にかけて実に5社の出願がされた。1911年11月に出願された白棚軽便鉄道は、発起人代表が金山の金鉱山主の西田仁三郎。他に白棚軌道の発起人、棚倉鉄道の発起人が名を連ねた。1911年10月に出願された白河鉄道(1)は大日本軌道の小澤信之輔、大淵龍太郎や棚倉鉄道発起人の岡野磧が発起人にいた。なお雨宮は1911年1月に死亡している。1911年5月に出願された東北炭鉱は、本社東京鉱業部東白川郡高野村瀬ヶ野にあったが、出願書に添えられた福島県の意見書によれば「休眠会社であり、事業成功の見込み無し」とされていた。そのためか1911年12月に出願された白河鉄道(2)は、東北炭鉱の専務取締役の四方常次郎が発起人の中におり、他の発起人を計画に引き込んだか名前を借りたとみられている。最後に出願された白河鉄道(3)には、発起人に福島人や炭鉱業者も参加しておらず、投機資本家で構成しているとみられている。1912年6月になり、鉄道院は4社(東北炭鉱は脱落)の合同を県知事に命令することになった。しかし交渉はうまくいかず、1913年6月に地元資本家の多数いる白棚軽便鉄道に免許状が下付され、他の3社は出願を却下されることとなった。免許状を下付された白棚軽便鉄道は、1914年春より株式募集活動を始め、6月17日に白河町で会社設立総会を開き定款、役員を決定した。なお発起人代表の西田は1913年1月に発起人から脱退している。地元有志たちからは須賀川出身の立憲国民党(のち憲政会)代議士、愛国生命保険社長の鈴木万次郎が推されていたが、鈴木が福島市の土建業者で福島電燈他多数の会社の重役を務める大島要三を推したため、大島が社長に就任した。この頃に白棚軽便鉄道から白棚鉄道に改称した。1914年6月20日、工事施工認可申請を行ない(認可期限の2日前)、まもなく測量に着手し、用地買収に着手した。沿線住民は鉄道建設に協力し、用地買収は順調に進められたので、9月までに測量が終了し、用地買収は11月30日までに全部終了した。1915年3月18日工事施工申請を行ない工事に着手。翌年には国鉄線との連絡上軌間を762mmから1067mmに変更することにし、資金の不足分は愛国生命の融資によった。そして1916年10月8日に白河町 - 金沢内間が開業し、続いて11月29日に金沢内 - 磐城棚倉間が開業した。軌条、車両とも鉄道院からの払下げであった。また梁森駅から白河炭鉱まで引込線を開通させた(0.77哩)。白河炭鉱の所有者は取締役の安川栄次郎である。1918年になり白河鉱業合資会社を設立し、大島と鈴木が出資社員になった。経営状況であるが、貨物収入の伸び率が旅客収入の伸びより悪かった。また借入金の利子が累積赤字とし、残る状態は経営の枷となり、配当が出たのは1922年下期からであった。また貨物収入を見込み、引込線を敷設した白河炭鉱は1917 - 1919年が最盛期で、このころの出炭量は年6000トン位であったが、1920年には休山となってしまう。安川は1918年に炭坑商船蔵内次郎作に売却し、白棚鉄道取締役を1921年10月に辞任してしまう。1923年ころから不況の影響がみられるようになり、貨物が減少した。また乗合自動車が白河-棚倉間の運転をはじめ、旅客数が減少したため1924年に運転回数の増加で対応した。さらに1929年に乗合自動車に対抗するため、列車本数頻発と燃料費節約をはかるべくガソリンカーを投入し、専用停留場を設けて旅客確保に努めたが、昭和金融恐慌もあり、1925年下期を最後に無配に転じた。1932年に水郡南線が終点の磐城棚倉駅に乗り入れるようになると、運賃の関係上貨物の大半を国鉄に奪われ、経営不振に陥った。このため白棚鉄道は1933年に運輸営業廃止申請をする一方、「白棚鉄道買収の請願」をだした。買収の請願は第64回帝国議会で採択されたが、財政上の理由から実施は見送られてしまう。その後も請願は続けられようやく1936年12月の鉄道省省議により、買収するだけの公債を発行する余裕がないことから、政府借上げをすることに決定された。そして1938年に借入営業を開始し白棚線となった。その後も設備投資の必要性から買収の請願は続けられ1941年に買収が決定、正式に国有鉄道(鉄道省)の路線となった。しかし、太平洋戦争の激化とともに、1944年に不要不急線として休止され、レールなどが撤去された。戦後は、鉄道としての復活を断念し、線路敷を専用道路に転用してバス路線として運行されることとなった。白河駅 - 登町駅 - 南湖駅(なんこ) - 関山口駅(せきさんぐち) - 古関駅(こせき) - 番沢駅 - 磐城金山駅 - 梁森駅 - 三森駅 - 金沢内駅(かなさわうち) - 磐城棚倉駅いずれも鉄道休止当時は国有鉄道(運輸通信省)線、現在は東日本旅客鉄道(JR東日本)線。開業時に機関車1両三等客車6両、有蓋貨車3両、無蓋貨車1両。機関車、客車は国鉄よりの払下げで機関車1両は遅れて竣功している。1941年の買収時に鉄道省に引き継がれた車両は、蒸気機関車3両、ガソリンカー2両、客車3両、貨車33両であった。祖父岡 - 磐城棚倉 - 白河を結ぶバス路線で、ジェイアールバス関東白河支店が運行を担当している。正式には磐城棚倉 - 白河が白棚線、浅川口 - 磐城逆川 - 金沢内、磐城棚倉 - 祖父岡が磐城南線となるが、運行には白棚線系統として一括して行われており、まとめて記述する。本数は1時間に1本から6本と地方のバス路線としてはかなり多く、その利用者の多くは高校生である。本数は多いが続行して運転することが多い。これは専用道区間が単線線路を舗装化したため、停留所や待避所ですれ違いできるようダイヤを組んでいるからである。また、その使命から地域間輸送だけでなく新白河駅発着に関しては、新幹線接続の目的もある。バス路線の途中、三森 - 表郷庁舎前 間と 磐城金山 - 関辺 間 がバス専用道路、その他の区間のほとんどは国道289号や118号を走る。専用道は直線が多く、信号がないため、最高時速60キロで一般道を走るよりスムーズに運行している。以前は普通・急行の設定があったが、現在はない。経由は、新白河経由、新白河/緑ヶ丘経由、旭高校経由、棚倉高校経由などがあったが、2009年3月20日のダイヤ改正により緑ヶ丘経由と棚倉高校経由、ルネサンス棚倉発着便は廃止された。旭高校経由については、同区間が福島交通のエリアであることから、一部を除いてクローズドドアであったが、2004年3月に福島交通に合わせて停留所が設置されている。戦後に2度も鉄道路線の復元工事が計画されたものの、最終的には線路敷をバス専用道として舗装化し、1957年に白棚高速線として開業した。当時は現在の国道289号に並行した路線もあったため、このように独立した路線名だった。それだけでなく、この当時は幹線級の国道でも地方では砂利道であることが多かったなか、直線でスピードが出せる道路を国鉄が費用をかけて舗装化したのは、将来のローカル線のあり方(不採算路線のバス化)を示したことや、自動車局の事業でいえば、名神高速線・東名高速線の開業に向け、メーカー試作の高速バス車両(三菱ふそう MAR820改型、B906R型等) の試験運転を行ったことなど、先駆的役割も多かった。下記の停車場については、停車場中心が定められていた。磐城金山駅は自動車駅。また、白河高校前・南湖・番沢・金沢内には待合室とプラットフォームが設置され、鉄道の無人駅のような形態となった。便数についての記述は、特記なき場合は2009年3月20日改正のダイヤによる。
出典:wikipedia
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