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早潮 (駆逐艦)

早潮(はやしお/はやしほ)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型駆逐艦の5番艦である。1942年11月ラエ沖で沈没。戦後、海上自衛隊のはやしお型潜水艦「はやしお」、はるしお型潜水艦「はやしお」に艦名が継承された。浦賀船渠で1938年(昭和13年)6月30日起工、1939年(昭和14年)4月19日進水、1940年(昭和15年)8月31日に竣工。呉鎮守府籍。浦賀船渠は「早潮」のほかに5隻の陽炎型駆逐艦(不知火、時津風、浜風、萩風、秋雲)を建造した。太平洋戦争開戦時には、姉妹艦「黒潮」「親潮」「早潮」「夏潮」の4艦で第15駆逐隊を編制していた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。1941年(昭和16年)12月、ダバオ、ホロ攻略作戦に参加した。1942年(昭和17年)1月、メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー、アンボン、マカッサル、クーパンの各攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加。2月9日、米潜水艦の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没、第15駆逐隊は早々に陽炎型3隻編制になった。3月1日、重巡洋艦「愛宕」「高雄」「摩耶」、第4駆逐隊(嵐、野分)はジャワ島南方に進出して通商破壊作戦を実施する。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う。3月7日、各艦はセレベス島スターリング湾に帰投した。3月15日にスターリング湾を出港し、呉まで空母「加賀」(座礁して艦底損傷中)を護衛した。4月にマニラ湾口封鎖作戦に参加。5月10日、マニラを出港し、駆逐艦(夕暮、漣、第15駆逐隊《黒潮、親潮、早潮》)と共に空母「翔鶴」(珊瑚海海戦で損傷中)の内地帰投を護衛した。6月のミッドウェー海戦では第11航空戦隊(「瑞穂」「千歳」)の護衛任務に就いた。7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施する。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦「グロウラー」の雷撃により「霰」沈没、「不知火」「霞」大破という損害を受ける。駆逐隊として当分活動できないため、残存した「陽炎」が7月20日附で第15駆逐隊に編入された。第15駆逐隊は再び陽炎型定数4隻(親潮、黒潮、早潮、陽炎)編制となった。8月からはガダルカナル島の戦いに参戦。第二水雷戦隊はソロモン方面へ進出、ガダルカナル島輸送に7回従事した。10月南太平洋海戦に参加、11月12-15日、第三次ソロモン海戦に参加。18日、第二水雷戦隊各艦と分離してカビエンへ移動する。11月23日21時00分、「早潮」以下輸送隊はラバウルを出港し、パプアニューギニアのラエへ向かった。輸送部隊指揮官は第2駆逐隊司令官橘正雄大佐で、各駆逐隊から集められた駆逐艦5隻(春雨、白露、電、磯波、早霜)で編制されている。翌24日、ラエ東方でB-17爆撃機7機の攻撃を受ける。至近弾により浸水して左舷機械が使用不能となり、応急処置を実施した。左舷機械復旧により28ノットを発揮していたところ、19時25分に一番主砲と艦橋間に直撃弾を受け、大火災となる。「春雨」が接舷を試みたが、誘爆の危険により果たせなかった。弾薬や燃料に引火して手の施し様がなくなり、金田艦長は20時25分に総員退去と軍艦旗降下を命じる。脱出者は僚艦が派遣した装載艇に救助されていった。その後「早潮」は「白露」の砲撃により魚雷が誘爆、23時5分に沈没した。戦死者50名。沈没地点。駆逐艦「早潮」は12月24日附で、帝国駆逐艦籍、第15駆逐隊、陽炎型駆逐艦のそれぞれから除籍された。

出典:wikipedia

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