昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱に際して一時閉鎖、その後新政府に接収され慶応4年6月29日(1868年8月17日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年7月12日(1870年8月8日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校・東京医学校が東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しか持ち得なかったのである。前述のように、昌平黌は維新政府に引き継がれ「昌平学校」と改称された後、1871年(明治4年)に閉鎖された。しかし、教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校)や東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校)の源流ともなった。さらに学制公布以前、明治政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された。昌平坂学問所のあった湯島聖堂の構内において、文部省、国立博物館の他、先述した東京師範学校と東京女子師範学校が同居していた時期もあった。後に文部省は霞ヶ関、国立博物館は上野、東京師範学校・東京女子師範学校およびそれぞれの附属学校は文京区大塚にそれぞれ移転した。東京師範の後身である東京高師は、新制東京教育大への移行を経て茨城県つくば市に移転し筑波大学に改編され現在に至っている(しかし附属学校は大塚に止まっている)。東京女子師範の後身である東京女高師が新制大学移行に際して「お茶の水女子大学」を校名としたのは、源流と目される昌平黌が湯島聖堂構内に所在していたことに由来する。このように、幕末維新期に至るまでの学問所の存在以降、中央大学、明治大学、日本大学等の旧法律学校を中心とする神田学生街や古書店街の現在の発展へとつながったが、敷地としての学問所跡地は、そのほとんどが東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている。
出典:wikipedia
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