サッカー日本代表(サッカーにっぽんだいひょう、サッカーにほんだいひょう)は、公益財団法人日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本のサッカーのナショナルチーム。FIFAワールドカップには5回出場しており、最高成績は2002年大会と2010年大会のベスト16。AFCアジアカップでは最多となる4回の優勝を記録している。国際サッカー連盟、アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟所属。現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明であり、採用時の正確な理由は日本サッカー協会に資料が現存せず不明である(日本サッカー協会公式見解)。日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(現:筑波大学)が日本代表として出場したため、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した。1930年の極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学は淡青(ライトブルー)のシャツであった。1936年ベルリン五輪に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表は1930の極東選手権の代表チームと同じ淡青のシャツを採用し、それ以降もチームカラーとして青が定着することになった。1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸(1980年代半ばからは右下に青字の「J.F.A.」の文字が入る)ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山が監督を更迭され、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され、現在も続いている。2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けた愛称にすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式のペットネームとすると定められた。マスメディアでは横山謙三が代表監督となった際に「横山ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられている。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた。海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」、「ブルーズ」という愛称もある。三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会)は、1936年のベルリンオリンピック(「ベルリンの奇跡」の大会)への日本代表派遣費用の内、大日本體育協會(現:日本体育協会)から支給される旅費以外の経費3万円(2011年で計算すると現在の5275万5千円に当たる)を調達する為に、積極的に募金活動を行った。また、浴衣地(ゆかたじ)や手ぬぐいを販売した。これが「日本代表グッズ」の始まりであり、現在ではレプリカユニフォームやタオルマフラー等のグッズが販売されている。最初期の日本のプレースタイルであったショートパス戦法は、1920(大正9)年頃から日本国内で指導し、1923(大正12)年8月には『How to play association football』という日本語版の指導書を出版したチョウ・ディンによりもたらされた。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった。1960年代から1970年代の代表チームのFWであった釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある。この特徴はしばしば「決定力不足」と形容される。悪質なファウルなどが他のナショナルチームと比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。現在の日本代表選手に対しては様々な給料や手当を、日本サッカー協会(JFA)がその予算の中から支払っている。なお、現在のJFAは独立採算制であり、国の税金は一切入っていない。現在、スポーツ振興くじから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下である(2010年度)。プロ化される以前の日本代表選手は、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長らく財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。1970 FIFAワールドカップ・予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったコーチ(当時)のデットマール・クラマーが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。1972年5月、ペレが所属するブラジルのサントスFCが来日し、日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数53,516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が、日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3千円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった。同時に宿泊施設についても改善された。1993年のJリーグ創設以後は日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。日本代表の報酬総額は年々アップしている。1994 FIFAワールドカップ・予選の際には、JFAは2億円を用意していた。1998 FIFAワールドカップ・アジア予選の時には2倍の4億円(出場時間に応じて配分された。1人最高1000万円)を計上し、見事に初出場を果たした。開催国だったため、アジア予選に出場しなかった2002 FIFAワールドカップでは、本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、FIFAワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった。成績が良ければプレミア給も追加して支給され、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。AFCアジアカップ2004で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会が200万円、W杯アジア予選・アジアカップ本大会・コンフェデ杯が30万円、東アジアカップ(旧東アジア選手権)・アジアカップ予選・キリンカップ・FIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円、FIFAランク11-20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスも、W杯本大会であれば、優勝5000万円が最高額で、ベスト16(=決勝トーナメント進出)で600万円等各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上を出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている。日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。2010 FIFAワールドカップ・アジア予選では出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた。しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて、犬飼基昭JFA会長(当時)は「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。2010 FIFAワールドカップでは「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた。2010年12月17日、日本プロサッカー選手会(JPFA。当時は藤田俊哉会長)が日本代表の親善試合での勝利給は20万円程度で、J1各クラブの勝利給の半分以下であり、これはハードな日程の中、招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した。以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日の2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選のB組第7節ヨルダン戦から実施された。2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である。大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は、1921年に設立され、1929年の国際サッカー連盟 (FIFA) 総会でFIFA加盟が承認された。最初の国際試合は、1917年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会の中華民国戦(5月9日)であり、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、。これは現在も日本代表の最大差敗戦試合である。1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年の第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合である。1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。第二次世界大戦後の1945年11月13日に会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。1947年4月1日に日本蹴球協会へと名称を変更し、1950年9月23日にFIFAに再加盟した。1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、大韓民国大統領の李承晩の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催であったが2戦2敗となり出場を逃した。1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという。また、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが、この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。また、JFAの最大の目標だったオリンピックサッカー競技が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていた為、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった。1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任。1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では最終予選に進出したが、最終戦のイラク戦で後半のアディショナルタイムに同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した(ドーハの悲劇)。1998 FIFAワールドカップ・アジア予選はプレーオフでイランを破り初めてのW杯出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。 "詳細は各大会の記事を参照"アジアにおいてはアジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、アジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代であり、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年イラン大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2002年に準優勝、2010年に優勝を果たしている)。1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決める為に行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4))、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという(ただし、このB代表からはいずれも1969年8月1日生以降という年齢制限のため五輪予選には参加していない)。JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督ハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも、結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた。広島県各地で開催された日本大会では三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪、中山雅史らが活躍し、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。1996年の第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ連覇ならず。2000年の第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして、決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り2大会ぶり2度目の優勝を果たした。2004年の第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、決勝トーナメントで2度の延長戦を制した末決勝戦で地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。2007年の第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国相手にPK戦を制することが出来ず4位に終わった。2011年の第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。2015年の第16回オーストラリア大会ではグループリーグを3戦全勝、無失点で1位通過。準々決勝のUAE戦では開始早々にこの大会初失点を喫するも、終盤に柴崎岳のゴールで追いつき延長戦に突入。ボール支配率・シュート数では相手を圧倒し、決定機を悉く作りながらそれらを全て逃し続け、延長戦でも勝負を決められずPK戦の末1番手の本田と6番手の香川という2大エースが失敗し無敗(3勝1分)のままベスト8で敗退。準々決勝敗退は加茂周監督が日本代表を率いた19年前の1996年大会以来5大会ぶりとなり、Jリーグ発足後に参加したアジアカップとしても同大会と並び過去最低タイ記録となった。日本代表はアメリカ州外からコパ・アメリカに参加した唯一のチームであり、これまでに1999年大会と2011年大会に招待され、出場した。2011年大会は同年3月に発生した東日本大震災の影響による国内リーグの日程変更により、招集予定であった国内クラブに所属する選手の招集が困難となった事、欧州クラブに所属する代わりの選手の招集も困難であった(アジアの大陸選手権ではない為代表拘束権がない)為、参加を辞退した。2015年および2016年もスケジュール調整の関係で参加を辞退した。出場した大会のみ記載。オリンピックサッカー日本代表選手も参照。1992年大会以降の成績はU-23サッカー日本代表#オリンピックの成績を参照。2002年大会以降はU-23サッカー日本代表#アジア競技大会の成績を参照。※1998年大会は、大会規定上はフル代表が出場可能であったものの、日本はU-21の選手で参加した。世界的に、また日本の記録集においても、代表選手とは「国際Aマッチでの出場経験選手」を条件とし、その出場回数をキャップ数と言う。しかし個々の選手を定義する場合、選出されながらも出場しなかった場合などでは意見が分かれる。また黎明期には日本代表がヨーロッパや南米のクラブチームと対戦した例も多く、その扱いも定まっていない。日本サッカー協会関係者は、明確な基準は無く、また時代とともにルールや環境が変わっている点を指摘し、以下の場合でも選手を「元日本代表」としてもよいのではと話している。各ランキングは2016年10月11日 オーストラリア戦終了時のもの。(#)は現役選手(代表引退ではなく、現役を引退していない選手)を表す。「期間」は代表で試合に出場した期間であり、末期が抜けている選手は現役の代表選手を表す。JFAは、最多得点者を釜本邦茂(75得点)としている。一方、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、三浦知良と釜本邦茂(共に55得点)を最多得点者としている。世界では国際サッカー歴史統計連盟と同じ基準で代表の公式記録が作成されているのが通例である。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。以上全て2015年時点。最も大きな数の背番号をつけ日本代表の公式戦に出場したのは権田修一(88番、AFCアジアカップ2011予選大会、対イエメン、アウェー戦)。また同試合においては、既に登録された77人の選手に加え、19人の選手を追加した為、総勢96人となり、欠番も関係し、河野広貴が背番号100で登録された。試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしている。試合数が0の監督がいるのは、指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである。略式:WC=FIFAワールドカップ、IC・CC=FIFAコンフェデレーションズカップ、OG=オリンピックサッカー競技、AC=AFCアジアカップ、AG=アジア競技大会サッカー競技、FEC=東アジアカップ、FEG=極東選手権競技大会サッカー競技、CA=コパ・アメリカ、"予"=各大会ごとの予選国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。日本A代表などの各種代表および各年代別代表のスポンサーには、現在は5つのカテゴリーがある。なお、スポンサーについての詳細及び他のJFAの財源等については日本サッカー協会のJFA財務内容の項参照のこと。
出典:wikipedia
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