一場 靖弘(いちば やすひろ、1982年7月5日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)。元妻は元タレントの安田芽衣子。桐生第一高等学校では2年時に第81回全国高等学校野球選手権大会に2番手投手として出場。正田樹をエースとして群馬勢初の優勝に貢献した。甲子園のマウンドでは145km/hを計測した。3年時には背番号1を付け、再び第82回全国高等学校野球選手権大会への出場を果たしたが、初戦敗退。その後は明治大学に進学し才能が開花。東京六大学野球連盟を代表する投手に成長する。4年春に歴代2位(戦後最多)となるシーズン107奪三振を達成。これは1925年秋に湯浅禎夫が記録した109奪三振以来、79年ぶりの3桁奪三振記録である。また、同シーズンには六大学史上最速の154km/hを計測し、8勝3敗の成績を上げる活躍を見せて、1993年春以来12季ぶりとなる完全優勝に貢献、ベストナインに選ばれた。第53回全日本大学野球選手権大会では完全試合を記録。大学通算52試合登板26勝15敗、防御率2.00。通算379奪三振は歴代5位の記録。後述の問題もあって大きく騒がれた2004年のドラフト会議では、新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに自由獲得枠で入団。背番号は大学時代と同じ11。入団記者会見の席上で将来のメジャー挑戦を宣言。入団の記者会見にもかかわらず退団を前提とした発言であったため物議を醸した。は球団が創設された年だったため、選手層の薄いチーム事情もあり、新人ながら一軍で先発ローテーション入りを果たす。しかし、同年5月19日時点で0勝7敗・防御率7.15と散々な成績となり降格。再昇格後となった8月27日の対西武ライオンズ戦(西武ドーム)では、西口文也が9回を完璧に抑える中で一場も9回無失点に抑える力投を見せ、勝敗は付かなかったものの完全試合献上を阻止。9月3日の対オリックス・バファローズ戦(フルキャストスタジアム宮城)では9回2失点(完投)でようやくプロ初勝利を挙げ、球団シーズン100敗を阻止した。しかし序盤の不振が大きく響き、2勝9敗1セーブと期待を裏切る成績で終わってしまった。は岩隈久志・セドリック・バワーズの出遅れによって開幕投手を務める。好投したものの打線の援護なく黒星を喫したが、2度目の登板でチームのシーズン初勝利、3度目の登板となった同年4月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)ではチームの連敗を止め、自身もプロ初の完封勝利を挙げた。前半戦で5勝を挙げる活躍したが、前述の岩隈やバワーズの故障で他の投手も不安定だったことから一場にかかる負担は大きくなり、交流戦以降は2勝8敗と大きく負け越した。最終的には最多敗戦数(14敗)、最多被本塁打(22本)など不名誉な「8冠」を手にしたが、一方で先発不足に喘いだ楽天にとって唯一、シーズンを通して先発ローテーションを守り、チーム勝ち頭となる7勝を挙げた。はオープン戦から不調が続き、開幕を二軍で迎える。4月に昇格したが、4月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦(フルキャストスタジアム宮城)で3回途中降板、4月15日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)には中継ぎとして登板したが、5回を18被安打・14失点と散々な結果となり、さらに右肘の炎症を起こして降格。7月27日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)では3回から中継ぎとして復帰。8月16日にシーズン初勝利を挙げると、これ以降は防御率2点台の好投を続け、最終的に後半戦だけで6勝を挙げ、球団初の最下位脱出に貢献した。は前年に受けた視力回復手術(レーシック)の影響で右目の角膜炎を起こし、1月中旬に入院。右目視力は0.04まで低下し、一時は失明の危機もあったが、驚異の回復力で開幕に間に合わせ、先発ローテーション入りを果たした。しかし、同年4月8日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で、味方打線が7点加点した後の3回裏にひっくり返され、降格となった(7点差からの逆転負けは楽天史上初の不名誉記録)。その後は秋に再昇格したものの、先発した試合は結果を残せず、未勝利。の春季キャンプから佐藤義則と共に下半身主導となる投球フォームへの矯正に取り組んだ。しかし、オープン戦で結果が残せず、同年3月23日に宮出隆自との交換トレードで東京ヤクルトスワローズへ移籍。背番号は43。4月11日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)に先発として初登板、5回無失点で移籍後初勝利を挙げた。しかし、その後は結果を残せずに降格すると、相次ぐ不振を打破すべく、7月に腕をやや下げるスリー・クォーターへのフォーム変更を試みた。8月20日の対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)に先発するが、3回9失点で敗戦投手となり、3度目の降格となった。この年は1勝5敗・防御率7.88と期待を大きく裏切る結果となった。はシーズン通して一軍へ昇格できず、プロ入り初の一軍登板なしに終わった。は開幕から出遅れ、オールスター後も一軍昇格できずにいたが、9月22日に2年ぶりに一軍へ昇格。は一軍昇格すらできず、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。その後、11月9日に行われた12球団合同トライアウトに参加したが、オファーはこなかった。その後も12月23日に韓国プロ野球(KBO)の高陽ワンダーズの入団テストを受けたが、合格できなかった。2013年に東京都東久留米市の看板のデザインを作成する会社に1年勤めた後、2014年1月、楽天時代の同僚・紀藤真琴が執行役員を務める茨城県水戸市に拠点を置く通信機器販売会社「パーソナル電電」に入社。同社の営業マンとして勤務する一方、紀藤が主宰する野球教室「紀藤塾」で子供達に野球指導も行っている。2004年のドラフトに際し、大学屈指の右腕として注目を浴びた一場の争奪戦は激化する。本人が在京球団への入団を希望したこともあり、一時は読売ジャイアンツへの入団が内定していたが、同球団が一場に栄養費の名目で200万円を授受していたことが発覚し、入団は白紙となる。この事件の責任を取って渡邉恒雄がジャイアンツのオーナー職を辞任、一場も明治大学野球部を退部し、当面謹慎を余儀なくされた。その後、横浜ベイスターズ・阪神タイガースも金銭の授受が発覚したため、横浜の砂原幸雄、阪神の久万俊二郎両オーナーも辞任した。この事件により、長らく暗黙の了解で慣習的に行われてきた有力選手への金銭授受を見直す動きが起こり、翌年以降の野球改革を作るきっかけとなった。また広島東洋カープも交通費として2000円の授受があったことが発覚した。一時は日本プロ野球入団を諦め、メジャーリーグや中華職業棒球大聯盟への入団も検討していたが、2005年に創立した東北楽天ゴールデンイーグルスが即戦力の投手を求めていたため、自由獲得枠での入団が決まった。
出典:wikipedia
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