『舞姫』(まいひめ)は、森鴎外の短編小説。1890年(明治23年)、民友社社長の徳富蘇峰の依頼を受け執筆し『国民之友』に発表。森鴎外が1884年から4年間ドイツへ医学を学ぶために留学した時の体験を下敷きにして執筆された。主人公の手記の形をとり、その体験を綴る。高雅な文体と浪漫的な内容で初期の代表作。本作、『うたかたの記』、『文づかひ』の三作品を独逸三部作あるいは浪漫三部作と呼ぶことがある。この作品を巡り石橋忍月との間で論争(舞姫論争)が起こった。なお、主人公には作者森鴎外といくつかの類似点がある。「#太田豊太郎のモデル」も参照時は19世紀末。主人公でドイツ帝国に留学した官吏・太田豊太郎が帰国途上の船内客室で、回想録の形で綴る。書き出したのはサイゴン寄港・停泊中。太田は下宿に帰る途中、クロステル通りの教会の前で涙に暮れる美少女エリスと出会い、心を奪われる。父の葬儀代を工面してやり、以後交際を続けるが、仲間の讒言によって豊太郎は免職される。その後豊太郎はエリスと同棲し、生活費を工面するため、新聞社のドイツ駐在通信員という職を得た。エリスはやがて豊太郎の子を身篭る。友人である相沢謙吉の紹介で大臣のロシア訪問に随行し、信頼を得ることができた。復職のめども立ち、また相沢の忠告もあり、豊太郎は日本へ帰国することを約する。しかし、豊太郎の帰国を心配するエリスに、彼は真実を告げられず、その心労で人事不省に陥る。その間に、相沢から事態を知らされたエリスは、衝撃の余り発狂し、パラノイアと診断された。治癒の望みが無いと告げられたエリスに後ろ髪を引かれつつ、豊太郎は日本に帰国する。「相沢謙吉が如き良友は、世にまた得がたかるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎む心、今日までも残れりけり。」 ……豊太郎の心からの呟きであった。エリスのモデルについては諸説あったが、現在ではエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert、1866年9月15日 - 1953年8月4日、シュチェチン生まれ)とされている。なお、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert、1872年12月16日 -1951年)とする説もあったが、現在ではこの説は捨てられている。2011年7月、森鴎外記念会会長の山崎一穎は、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトがエリスのモデルであるとする六草いちかの説を強く支持し、その功績を次のように列挙している。高島俊男は、「森鴎外のドイツの恋人」において、六草が見つけたエリーゼ・ヴィーゲルトが森林太郎(後の森鴎外)のベルリン時代の恋人と同一人物であると認めてよかろう、としている。六草いちかは、エリーゼとみられる女性の写真も発見した。41才~52才のころの写真と推測される。太田豊太郎の人物設定には、秩父郡太田村(現埼玉県秩父市)出身の軍医、武島務(1863年-1890年)の生涯が色濃く投影されている。太田豊太郎の名前も、武島の出身地秩父郡太田村の太田と、鴎外の実名である林太郎とを合成して命名したものと考えられる。1886年、私費留学生として、ドイツのベルリン大学へと遊学した。当時23歳。一方、鴎外も軍医留学生として2年前にドイツへ渡っており、ベルリンの地で二人は邂逅をし、親交を重ねている。その後、武島の実家から送金を頼まれていた人物が学費を着服、仕送りが途絶えたことをめぐり、仲間から中傷を受け、帰国命令が下った。これを拒否して留学を続け、翌1887年免官処分。軍籍を失うことになった。それから3年後、ドレスデンで結核のため、不遇の生涯を閉じた。27歳没。帰国した鴎外が『舞姫』を発表した4ヶ月後のことだった。1890年、石橋忍月と、鴎外との間に起こった文学論争。忍月は筆名「気取半之丞」で「舞姫」を論じ、主人公太田が意志薄弱であることなどを指摘し批判。当時帝国大学法科大学(現在の東大法学部)在学中。これに対し鴎外は相沢を筆名に使い、「気取半之丞に与ふる書」で応戦。その後も論争が行われたが、忍月が筆を絶って収束。最初の本格的な近代文学論争だと言われる。本作は『ファウスト 第一部』と関係付けて論じられることがある。森鴎外は1912年に初の『ファウスト』日本語訳を完成させている。
出典:wikipedia
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