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松中信彦

松中 信彦(まつなか のぶひこ、1973年12月26日 - )は、熊本県八代市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)で、平成唯一かつ最後の三冠王。プロ通算352本塁打で、プロ野球史上初の3年連続120打点(2003年~2005年)達成者。妻はフリーアナウンサーの林恵子。タレントの松中みなみは親戚に当たる。3つ上の兄と5つ下の弟がいる。小学4年生時に代陽小学校野球クラブに入団し、投手と一塁手を務めた。八代一高を経て新日鐵君津に入社。にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、全日本の4番を担う。銀メダル獲得に貢献。敗れはしたものの、決勝の対キューバ戦では同点満塁本塁打を放つなど、一躍注目を浴びた。オリンピック出場後のドラフト会議では、当時存在していた逆指名制度を通じて、福岡ダイエーホークスから2位で指名。外野手として入団に至った。、一軍公式戦20試合に出場。シーズン後半からの出場で、本塁打0、打率.209という成績にとどまった。、一軍公式戦34試合に出場し、プロ入り初本塁打を含む、3本塁打を放った。ウエスタン・リーグでは19本塁打で本塁打王を獲得した。、ルイス・ロペスの退団に伴い、一塁手のレギュラーに定着。主に7番打者としての出場ながら、4番打者の小久保裕紀に次ぐ23本塁打を放つなど、ダイエー初のリーグ制覇・日本一に貢献した。、背番号を26から3に変更し、正式に内野手に転向。開幕は7番で迎えたが、打撃好調で小久保の後を打つ5番に定着。自身初の3割となる.312(リーグ6位)、33本塁打(リーグ3位)、106打点(リーグ2位)を記録しリーグV2に貢献。シーズンMVPに輝く。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、前年までチームメイトだった工藤公康から本塁打を放つものの、全6戦でこの1安打に終わり、連続日本一を逃した。この年のオフにタレント水島新太郎の仲立ちで交際を始めたフリーアナウンサーの林恵子と結婚した。、打率.334(リーグ3位)、36本塁打(リーグ7位)、122打点(リーグ5位)と打撃3部門全てで自己最高の数値を記録。同年は松中に加え小久保が44本(リーグ4位)、城島健司が31本(リーグ9位)、井口資仁が30本(リーグ12位)放ち、パ・リーグ史上初の30本カルテットを達成(日本人打者のみの30本カルテットはプロ野球史上初)し、チーム本塁打も203本とチーム記録を更新。、新ストライクゾーンの影響もあり、打撃不振でレギュラー定着後最低の打率.260(リーグ23位)に終わった。本塁打も3年ぶりに30本を下回り(28本、リーグ8位)、打点も3年ぶりに100打点を下回る83打点(リーグ7位)を記録した。、小久保の長期離脱に伴い開幕戦では4番に座る。その後も4番としてほぼ定着し、ダイハード打線を牽引した。打率.324(リーグ9位)、30本塁打(リーグ9位)、そして打点は123打点で初の打撃タイトルとなる打点王を獲得した。、レギュラーシーズンで三冠王(最多安打、最高出塁率を含め打撃五冠)を達成(本塁打は日本ハムのフェルナンド・セギノールと同数)。ベストナイン、ゴールデングラブ賞、MVPに選出された。しかし、同年より導入されたプレーオフ制度により行われたプレーオフでは西武ライオンズと対戦。第1戦ではホームランを打つも全体では19打数2安打で終わった。第5戦の9回にはチームが同点に追いつきなおも、2死2、3塁のチャンスでランナーが帰れば逆転サヨナラリーグ優勝となるとこだったが、セカンドゴロに倒れて同点止まり。最大のチャンスを逃してしまった。これが響き、延長10回に勝ち越され、チームもリーグ優勝を逃した。10月13日、急性肝炎のため入院。、膝などに不安を抱えることもあり、フリオ・ズレータとポジションが入れ替わり主に指名打者として打撃に専念。交流戦のビジターでは左翼手として起用された。リーグ最多の76四球を残す。2年連続の本塁打王、3年連続の打点王を獲得。3年連続120打点以上とそれを4度達成はプロ野球史上初だった。46本塁打で福岡ドームを本拠地にして以降のホークス最多本塁打記録を更新。しかし、プレーオフでは1安打と不振で、またもチームはリーグ優勝を逃した。1月には球団と日本プロ野球史上最長の複数年契約となる7年契約を結んだ。この7年間契約は大ケガや極度の不振に陥って年俸に見合う活躍ができなくなった場合を考慮されており、10項目以上にも及ぶ出来高契約が存在し、5年目以降の契約解除権や野球協約に定められた40%を超える最大50%ダウン提示権なども契約には盛り込まれているが、全ての出来高契約をクリアする活躍を続けた場合は7年間で総額45億円となっている。2006年のワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。全8試合に出場し、打率.433を記録し日本チームの優勝に貢献。シーズンでは前半戦怪我の影響から指名打者どころか代打に回ることも多かったが、この年の交流戦以降はチーム事情として田上秀則を指名打者で起用する事が増えたため主に左翼手として出場した。6月に右臀部の膿瘍で試合を欠場。その後筋肉組織の感染症の一種であるガス壊疽と判明し手術を受け、オールスターを欠場することを余儀なくされた。シーズンでは2年ぶりの首位打者を獲得した(交流戦でも首位打者を獲得)ものの、本塁打と打点は前年と比較して激減した。1999年の規定打席到達後では初めて20本塁打を下回った。一方、自己最多の102四球で出塁率.453をマークした。プレーオフでは自身は18打数7安打7打点と活躍したが、第2ステージで北海道日本ハムファイターズに敗退した。4年連続5度目のベストナインに外野手として選出。一塁手で3回、指名打者で1回同賞を受賞しており、異なる3ポジションでの受賞は真弓明信、落合博満以来3人目。11月には再び右臀部手術のため日米野球を辞退するなど、故障を抱えながらのシーズンであった。、トレード移籍の多村仁、FAでチームに復帰した小久保とのクリーンナップ「TMK砲」が話題となったが、5月以降は3人共怪我や不振に喘いだ。自身も打率.266、15本塁打、68打点とレギュラー定着後では自己最悪の成績に終わった。この年は左翼手ではなく、再び一塁手として起用された。、シーズン序盤は不振に喘ぐも徐々に調子を上げ、自身3年ぶりとなる20本塁打越え、8月29日には通算300本塁打を達成したが、終盤は成績を落とした。シーズン最終戦となり、最下位転落がかかった10月7日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、延長12回表1死一塁、二塁の場面で打席が回るも併殺打に倒れ、王政権において最後の打者となった。プロ入り後初となる全試合出場を果たした。、指名打者よりレフトを守っている時の方が打率がいいと言う理由から外野手登録となった。開幕戦では3安打5打点の活躍を見せ通算1000打点(史上34人目)を達成。更に、4月21日の対日本ハム戦で須永英輝から通算100死球(史上11人目)、5月6日の対オリックス戦で通算1500安打(史上100人目)を達成と、前半戦は記録ラッシュとなった。5月20日の対阪神タイガース戦ではサヨナラ本塁打、7月10日の対楽天戦ではサヨナラ安打を打った。7月25日のオールスターゲーム第2戦では2本塁打を放ちMVPを受賞。中盤以降は肘・膝の状態が悪化し、クライマックスシリーズ出場を断念し、治療に専念することとなった。シーズンオフに痛めていた右膝の半月板手術を行った。、膝の回復が遅れ開幕を2軍で迎える。昇格後も打撃は不調で、更に左手首の故障も重なり12年ぶりに出場試合数が100を割り込み、規定打席にも届かなかった。レギュラー定着後初めてシーズン打率が2割5分を切るなど不本意な成績に終わったが、9月の福岡ドームでの対埼玉西武ライオンズ3連戦では長打が復活。初戦の10号同点3ラン本塁打、第2戦の11号勝ち越しソロ本塁打で逆転優勝を後押しした。しかしクライマックスシリーズでは1割台に抑えこまれ、チームも敗退した。クライマックスシリーズ終了直後、来季に備え10月22日に左手首の手術を受けている。オフの契約更改では50%ダウンとなる2億円減の提示を受け入れた。、故障の影響、内川聖一とアレックス・カブレラの加入による競争の激化もあり、出場は88試合にとどまる。開幕からしばらくは代打のみの出場が多かったが、内川聖一の故障離脱の際には3番に定着し、規定打席には届かなかったものの打率.308を記録するなど、出場した試合では結果を残した。4月14日には史上48人目となる3000塁打を達成。11月4日のクライマックスシリーズ第2戦では8回に代打満塁ホームランを放った。翌日も勝利し、8年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。結果的にその満塁ホームランがこれまでのプレーオフCSの不振を全て振り払う一発となった。そして8年ぶりの日本一に輝いた。、開幕戦を4番・左翼手で迎えたが、故障もあり65試合の出場に留まり、前年に続き規定打席到達はならなかった。打率.221、4本塁打とともに前年を下回る成績に終わった。契約更改では、自身3回目となる1億円以上の大幅減俸となる1億3000万円減の7000万円でサインした。、4月6日の対日本ハム戦(札幌ドーム)でシーズン初の一軍公式戦出場を果たしたが、ふくらはぎを痛めて途中で交代。翌7日に出場選手登録を抹消された。6月3日に再び登録されると、6月13日の対東京ヤクルトスワローズ戦(福岡ヤフオク!ドーム)8回裏に、代打で適時打を放った。チームはこの試合に勝利したことでセ・パ交流戦優勝を決めたが、松中は試合後の優勝記念セレモニーを欠席。一軍監督・秋山幸二による起用法への不満によるものとされたため、球団では翌14日に松中の登録を再び抹消した。この抹消以降は一軍復帰を果たせなかったため、一軍公式戦への出場はわずか9試合で、入団1年目以来の本塁打0に終わった。。このため、シーズン終了後の契約交渉では、前年に続いて球団から減額制限を超える年俸を提示。結局、前年から50%減の推定年俸3500万円で契約を更改した。その一方で、ケビン山崎の指導によるトレーニングで、体脂肪率を従来から6%減の16%にとどめている。、オープン戦では中盤まで深刻な打撃不振に見舞われたことから、秋山の指示で、打撃フォームをすり足から一本足に改造。このフォーム改造が功を奏したため、代打要員として公式戦の開幕を一軍で迎えた。5月19日に出場選手登録を抹消されたが、8月10日の対日本ハム戦(福岡ヤフオク!ドーム)では、同点で迎えた5回裏に代打で大谷翔平から適時二塁打を記録。チームの8連勝に貢献するとともに、試合後に自身2年振りのヒーローインタビューを受けた。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦33試合の出場で、打率.111、0本塁打、4打点と低迷。その一方で、阪神とのウエスタン・リーグ最終戦(9月30日)で5号本塁打を放ってシーズンを締めくくると、10月上旬にはフェニックスリーグに参加した。なお、一軍のリーグ優勝で迎えたポストシーズンには、再び一軍へ合流。日本ハムとのクライマックスシリーズ ファイナルステージでは出場の機会がなく、阪神との日本シリーズでも第1戦(10月25日・甲子園)へ代打に出場しただけに終わったが、シリーズ後の契約交渉では現状維持という条件で残留を決めた。、オープン戦まで一軍に帯同していたが、左肩痛の影響で通算打率が.111にとどまったことから、公式戦を二軍でスタート。ウエスタン・リーグの公式戦では、7月上旬に2試合連続本塁打を放つなど、77試合の出場で打率.299、11本塁打という成績を残した。9月21日にシーズン初の出場選手登録を果たしたが、他球団への現役続行を視野に、同月29日に退団を発表。発表後は、レギュラーシーズンでの本拠地最終戦(10月1日の対楽天戦)に「7番・指名打者」としてスタメンで出場したが、4打席連続三振を喫して19年間のホークス生活を終えた。結局、一軍公式戦には、この試合を含めて9試合に出場。打率.067、1安打、1打点という成績で、3年続けて本塁打を放てなかった。NPB他球団での現役続行を視野に、退団直後から自主トレーニングに専念。しかし、2015年11月10日に草薙球場で開かれた12球団合同トライアウトには参加しなかった。同年12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。2016年1月には、ソフトバンク時代の後期に続いて、元チームメイトの松田宣浩・福田秀平などと共にグアムで自主トレーニングに取り組んだ。松中は退団当初、NPBの他球団だけを対象に、無期限で獲得のオファーを待つ方針を示していた。しかし、2015年中にオファーが出なかったため、2016年に入ってからこの方針を変更。2016年2月の春季キャンプ期間中に、NPB他11球団の編成担当者に対して、入団テストの実施を直々に打診することを明らかにした。その後は、2016年2月末を期限として、新日鐵住金かずさマジック(古巣である新日鐵君津の後継チーム)でトレーニングを継続。水面下で接触があったNPB7球団のうち、自身と同じ40代の選手が前年限りで一斉に引退した中日ドラゴンズ以外の6球団に入団テストの実施を持ち掛けたが、不調に終わった。同月19日には、古巣・ソフトバンクとの練習試合に臨む新日鐵住金かずさマジックのナインと共に、ソフトバンクの春季宮崎キャンプで打撃練習に参加。「練習試合には参加しない」という条件ながら、NPB他球団の関係者がいることを見越しての参加だった。それでも、獲得のオファーを出した球団がベースボール・チャレンジ・リーグの武蔵ヒートベアーズだけにとどまったため、松中は前述した期限を機に現役からの引退を決断。同年3月1日には、トータル・ワークアウト福岡店で記者会見を開くとともに、引退を正式に表明した。引退記者会見の際に、「野球一筋の人生しか送っていない自分には、野球に携わる仕事しかできないので、いずれは(現役時代の自身のように)三冠王を獲得できるほどの選手を育てたい。また、地元・熊本県出身のプロ野球選手が以前に比べて少ないので、県内の子どもたちからプロ野球選手を輩出するための力になりたい」という抱負を披露。野球指導者への転身を視野に、野球以外の業種で成功を収めた人物との交流や、「ベーブ・ルースが活躍するなど、ベースボールの歴史がある」というニューヨークへの滞在などを計画している。その一方で、2016年のプロ野球シーズンには、TOKYO MXやRKB毎日放送が制作するソフトバンク主催試合のテレビ中継にゲスト解説者として随時出演している。また、BS-TBSのテレビ中継にもゲスト出演している(2016年6月2日。オリックスvs巨人)。インパクト時に利き手を押し込むバッティングから放つ長打力を最大の武器としており、小久保裕紀がアッパースイングで打球を高く上げるのとは対照的に、バットをボールの下に潜り込ませることで逆回転のスピンを与え、そこからさらに若干芯をずらすことにより、ファウルゾーンに切れることなく飛距離のある打球を放つ。2001年には松坂大輔からバットを折りながら本塁打を放った。また、内角を捌くのが非常に上手く、。さらに左投手も苦にしない上、ホームランバッターでありながら三振が少なく、シーズン100三振以上したことがない。特に2006年は37個と自己最少だった。選球眼が良く、2006年には102個を含む2度のリーグ最多四球をマーク。通算のBB/K(四球÷三振)は1前後を推移している。走塁では2006年頃までは一塁到達まで4.2秒台と平均以上のものを備えていたが、近年はヒザの状態の悪化もあり、一塁到達までほとんどが5秒台と衰えが顕著となっている。守備では肩は強く、柔らかいグラブ捌きとスローイングを持ち味とし、2004年にはゴールデングラブ賞を獲得している。高校時代に左肩を痛めたことが原因で一時期右投げに転向していたことがある(新日鐵君津在籍時に手術で完治させた後は左投げに戻った)。ソフトバンク選手時代の2008年には、「元気に野球ができる心と身体をつくってくれた八代に恩返しをしたい」「スポーツを通じた青少年の健全育成のために役立てて欲しい」という意向を背景に、野球関連の道具や記念品を展示した自身の記念館を八代市内に建設。同市への寄贈を経て、2009年1月27日から、「八代市松中信彦スポーツミュージアム」として営業している。ソフトバンクからの退団後は、チャンスが少ないことを覚悟しつつも、NPB他球団の支配下登録選手としての現役続行に最後までこだわった。引退会見の直前には、「二軍生活が長かったソフトバンク時代終盤の2~3年間に、『自分としては一軍へ行くための準備をしなくてはいけないが、(40代の自分が二軍に居座ることで)若い選手の芽もつぶしちゃいけない』という葛藤があった。そのため、育成選手としてNPBの他球団へ移籍することは、最初から考えていなかった。武蔵から『NPB球団のオファーを待つ間の在籍』を勧められるなど、『NPB以外のリーグでプレーを続ける』という選択肢もあったが、自分としてはNPBで最後の勝負をしたかった。これが僕の野球人生」と語っている。なお、引退記者会見の前日には、引退を決断したことを王に報告。会見では、「ホークスに育ててもらったので、チャンスがあれば、指導者としてホークスのユニフォームを着たい」という意向を示した後に、元チームメイトの本多雄一と福田から直々に花束を贈られた。

出典:wikipedia

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