多村 仁志(たむら ひとし、本名:多村 仁(読み同じ)、1977年3月28日 - )は、中日ドラゴンズに所属する神奈川県厚木市出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。シーズン限りでの現役引退を表明している(詳細後述)。横浜高校時代は斉藤宜之、紀田彰一とクリーンナップを組み3年生の春夏連続()で甲子園に出場。第66回選抜高等学校野球大会の一回戦で、赤星憲広擁する大府高校と対戦した。高校通算14本塁打。1994年のドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。背番号は52、は一軍出場がなく、1996年オフに行われた教育リーグにおいて本塁打、打点の記録を樹立。4月4日、開幕戦の対中日ドラゴンズ戦で公式戦初出場。この試合はナゴヤドーム初の公式戦で、多村は7回表に開幕投手の盛田幸妃の代打として登場。プロ初打席は山本昌から外野フライに終わった。4月8日、対阪神タイガース戦で田村勤からプロ入り初安打を記録。に背番号を55に変更。一軍復帰を果たし、外野レギュラーの波留敏夫の故障などもあり、主に代打、途中出場で一軍に定着した。84試合に出場し、打率.257、7本塁打の成績を残した。しかし、は33試合の出場、打率.163、1本塁打に終わった。は5本塁打、81試合に出場。に自己最多の91試合に出場した。規定打席には届かなかったが、打率.293、18本塁打を記録したほか、14盗塁を記録した。に背番号を6に変更。開幕戦でプロ入り初の先発出場、8月15日に日本人打者として球団では田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を記録。10月6日に日本人打者として球団初の40本塁打を達成。3割、40本、100打点は球団初の記録。盗塁は10盗塁を記録し、2年連続の二桁盗塁を記録した。4月5日の対読売ジャイアンツ戦にてダン・ミセリからプロ初となるサヨナラ適時打を放つ。この年からセ・パ交流戦が始まり、通算12本塁打で初代本塁打王(他3人)となる。6月18日の試合終了時点で打率.344、21本塁打で暫定的に二冠王に立っていたが、事故により前半戦は欠場した。7月29日の対広島東洋カープ戦から復帰し、9月17日の対巨人戦で、8回に通算100号本塁打を達成し、チーム日本人初となる2年連続の3割30本を達成した。のワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され全試合に出場し、好守や特大本塁打など3本塁打、9打点はチーム本塁打王、打点王だった。公式戦に入っても4月4日の対中日ドラゴンズ戦(横浜スタジアム)で9回裏に岩瀬仁紀から同点2ランを放っていたが、6月7日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)で本塁突撃時のクロスプレーの際に肋骨を4本折る重傷を負い長期離脱。シーズンの大半を欠場する。12月5日、寺原隼人と1対1の交換トレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍することが発表された。背番号は横浜時代と同じ6。開幕戦に3番で出場し2本塁打を放つなど3安打猛打賞を記録、このシーズン中に4度の肉離れをしつつも初めてシーズン中に一度も二軍に落ちることなく、自己最多の132試合に出場し、打率.271、13本塁打、68打点に終わった。北京オリンピック野球代表候補に選出された(背番号は1番)が治療の為に直前にメンバーから外れた。4月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回表の守備中に大塚明の左中間への打球を追って左翼手の長谷川勇也に突っ込まれ、右足腓骨を骨折、前半戦を棒に振った。9月上旬から復帰し、2試合連続で猛打賞を記録している。に登録名を多村 仁志(読みは同じ)に変更。打率.282、17本塁打、57打点の成績を収め、海外移籍も可能となるFA権を取得したが、権利を行使せず残留する。5月8日の対埼玉西武ライオンズ戦で、6回にプロ通算150号本塁打を記録。5月26日からは小久保裕紀に代わりソフトバンクの4番として出場をし続ける。交流戦では史上最高打率の.415で首位打者を獲得。7月23日にはファン投票により16年目にして初のオールスター出場を果たし、福岡Yahoo! JAPANドームで開催された第1戦では4番で出場。8月24日の対オリックス戦では1回裏に近藤一樹から6年ぶりの満塁本塁打を打った。自己最多の140試合に出場。打率.324、27本塁打、166安打、出塁率.374を記録。2003年以来7年ぶりのリーグ優勝に貢献。100試合以上出場したシーズンでは初めて三振数が3桁を切った。外野手では最高得票でベストナインを獲得。11月15日にメジャーリーグ移籍も視野に入れてFA権を行使したが、ソフトバンクの会長の王貞治の一言により11月24日に残留を表明し、1月28日に単年契約を結んだ。4月23日の対ロッテ戦で日本プロ野球通算1000試合出場を達成。10月2日の対西武戦で、3回表に石井一久から右前適時打を放ち、日本プロ野球通算1000本安打を達成。100試合の出場で打率.241、4本塁打に終わった。しかし、初めての出場となった中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、骨折をしながらも強行出場し、第3戦では、チーム初本塁打となる2点本塁打を放ちチームに勢いを与え、第5戦では2打点を挙げ日本一に。表彰式の際には、「MVPは多村だろ」と相手チームの中日勢から称賛された活躍をみせた。11月5日に、吉村裕基、江尻慎太郎、山本省吾との交換トレードで神内靖、吉川輝昭とともに横浜DeNAベイスターズへ移籍。7年ぶりの古巣への復帰となった。背番号は横浜時代のプロ入り当初と同じ52に決まった。4月11日の対広島戦(横浜)の6回に今季第1号となる代打本塁打を放つ。5月10日の対巨人戦(横浜)で、3対10と7点差をつけられた7回裏に代打で2ラン本塁打を放ち、その後1点差まで追い上げ、9対10で迎えた9回一死一、二塁から西村健太朗からプロ入り初のサヨナラ3ラン本塁打を放った。同試合で代打本塁打とサヨナラ本塁打を記録したのは日本プロ野球史上5度目で、巨人が7点差を逆転されたのは球団タイ記録となった。同年はスタメンで出場することもあったが、レギュラーを奪取するまでには至らず96試合の出場に終わったが、12本塁打をマークした。シーズン終了後の11月20日に、球団から背番号が8に変更することが発表された。に筒香嘉智と梶谷隆幸が外野にコンバートされて、この2人がスタメンでほぼ固定され、残りの外野1枠を荒波翔や金城龍彦などと日替わりオーダーで出場するか、右の代打要員となり、前年より少ない73試合の出場に終わった。には、一軍公式戦4試合に出場しただけで、本塁打を放てず5月3日に出場選手登録を抹消。抹消後には、若手選手の育成を重視するチーム事情から、イースタン・リーグ公式戦への出場機会が「1試合につき2打席」に限られた。実際には、この条件の下で、故障に見舞われることなく打率.319、7本塁打を記録。しかし、一軍への復帰を果たせないまま、10月3日に球団から戦力外通告を受けた。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。2015年11月10日に草薙球場で開催された12球団合同トライアウトには参加しなかったものの、他球団での現役続行を模索しながら、自主トレーニングに専念していたが、2015年12月末に、横浜時代のチームメイト・谷繁元信が一軍監督を務める中日ドラゴンズの関係者が多村に接触。多村自身も、横浜時代の2001年秋季キャンプで臨時コーチとして指導を受けた落合博満ゼネラルマネジャーとの面談で、野球への熱意が強いことを訴えた。2016年1月15日に、育成選手として中日へ入団することを正式に発表。この時点で、NPB史上最年長(38歳10ヶ月)の育成選手および、中日の現役最年長野手になった。背番号は215。しかし、春季キャンプ中に右ふくらはぎ、5月に脚部を相次いで故障。ウエスタン・リーグ公式戦で守備に就けない状況が続いたことから、同年中の支配下登録選手への復帰は見送られた。多村自身は、2016年シーズンの支配下登録期限直前(7月30日)の時点で、翌2017年も現役生活を続けることを表明。中日球団も、育成選手契約の更新を検討していることが報じられた。しかし、2016年10月1日に多村へ戦力外通告。多村も、同日に現役引退を表明した。強く柔軟なリストを活かしたスイングから広角に長打を打ち分ける打撃を持ち味とし、ボールを手元まで引きつけて右方向に長打を放つ技術に加え、ソフトバンク移籍後2010年までの通算得点圏打率.322と状況に関わらず自分の打撃ができる柔軟さも兼ね備える。球界屈指の身体能力の高さを誇り、優れた打球判断を生かした広い守備範囲にも定評があり、2010年にはリーグの右翼手中2位のUZR2.3を残した。一塁到達まで4秒を切る俊足も兼ね備え、レギュラーに定着した2003年、2004年と二年連続で二桁盗塁を記録した。外野守備や走塁・さらにファッションにもこだわりがあり、用具にも刻まれている「6TOOLS(6ツール)」は、5TOOLS(5ツール=打撃技術、パワー、足、守備、肩)+ファッションを意味しており、公式サイト名(現在は閉鎖)にもなっていた(当初は"S"が無く、「6TOOL」だった)。公式サイトによると、2009年よりファッションをメンタリティに変更したとしている。横浜時代の2001年のキャンプで、臨時コーチの落合からそれまでのロバート・ローズを参考にした打撃フォームからの改造を勧められたことをきっかけに神主打法に変えてパワーと確実性を兼ね備えた主力打者に成長。3年後の2004年に40本塁打、2005年に31本塁打を放つ一方で、規定打席に到達しての打率3割を3回記録した。このような経緯から、多村は落合を「恩人」として敬愛している。中日の育成選手として現役生活を続けることが発表された際には、「支配下登録選手に戻ることで、落合に恩返しをしたい」との抱負を述べていた。第1回WBCでの活躍からキューバではとても尊敬されており、フレデリク・セペダは多村がソフトバンク時代に使っていたバットを使用しているといわれ、グリップにも「H6」と刻まれている。また、セペダと同じ2014年に日本でプレーしたユリエスキ・グリエルも多村をキューバではレジェンドだと名前をあげている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。