開成所(かいせいじょ / かいせいしょ)は、文久3年(1863年)設置された江戸幕府の洋学教育研究機関である。幕府の洋学教育研究機関であった洋書調所(安政3年設置の蕃書調所を文久2年に改称)の組織を拡充、文久3年8月29日(1863年10月11日)「開成所」として設置された。「開成」という言葉は、中国の『易経』繋辞上伝の中の「開物成務」(あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する)に基づくといわれる。翻訳学問だけでなく、みずから学を実務に繋いでいくという意図を込めたものである(後述)。幕府の崩壊により閉鎖されたが、慶応4年6月13日(1868年8月1日)の布告により医学所とともに明治新政府に接収され、同年(明治元年)9月12日(10月27日)、官立の「開成学校」として再興した。開成学校はのち医学校(医学所の後身)と統合され(旧)東京大学が発足したため、開成所は現在の東京大学の源流と見なされている。同名の機関として、薩摩藩の洋学校として元治元年(1864年)に設置された「開成所」があり、講師には中濱万次郎・前島密などがいる。のちに東京開成学校初代校長となった畠山義成(薩摩藩士)も、藩より派遣された英国留学に先立ち、この(薩摩藩)開成所で学んだ。教科は、英語、蘭語のほか海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術などの西洋の進んだ技術や学問の修得であった。薩摩藩は慶応元年(1866年)、イギリスへ4名の使節団と15名の留学生を送りこみ、ロンドン大学などで学ばせるが、その人選にあたっては、開成所出身の優秀な人物を中心に選出した。しかし、この開成所も幕末の急激な世情の変化に伴う藩の軍制改革によって、軍にかかわる教科が分離し、単なる教科学習の域にとどまったため、後に藩校「造士館」に移ることになる。「開成」の名は先述の通り歴史的に謂れある名辞であるため、明治以降、後身機関たる開成学校にならい、小学校、中学校を問わず「開成」を校名に冠する学校が多く設立された。
出典:wikipedia
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