見田 宗介(みた むねすけ、1937年8月24日 - )は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。社会学修士。真木悠介の筆名を持ち、社会の存立構造論やコミューン主義による著作活動によって広く知られる。東京生まれ。父はヘーゲル研究者の見田(甘粕)石介。小学生の頃から『資本論』を愛読するなど早熟な少年時代を過ごした。1960年に東京大学文学部社会学科を卒業。1965年に同大学院博士課程単位取得退学後、東京大学教養学部助教授に任官。その後、メキシコ留学を経て、1982年教授、東京大学大学院総合文化研究科教授。東大の見田ゼミは、常に見田の信奉者で満席状態であった 。1998年に定年退官後、共立女子大学家政学部教授に就任(総合文化研究所教授兼任)。長男は漫画家の見田竜介、次男は漫画家・イラストレーター・翻訳家の見田航介。憲兵大尉の甘粕正彦は父の従兄。当初は、『現代日本の精神構造』(1965年)、『価値意識の理論』(1966年)など計量に基づく実証的研究を進めるが、1970年代はじめのメキシコ留学を経て、コミューン主義の立場からの著述活動を始める。その後の見田の社会学は、カルロス・カスタネダと比較社会学がその中心に据えられ、時間論、自我論、関係論がその主題となった。時間論については『時間の比較社会学』(1981年)、自我論と関係論については『宮沢賢治 - 存在の祭りの中へ』(1984年)を助走として『自我の起原』(2001年)を完成させる。この『時間の比較社会学』と『自我の起原』の両著作は、見田の学問的営為の総体を駆動してきた原問題(すなわちニヒリズムとエゴイズム)に納得いく解決を獲得させるものであった(なお、両著作は真木悠介の筆名による)。また、1996年の『現代社会の理論』の中では、情報・消費社会のダイナミズムと魅力の根拠を明らかにしながら、その必然の帰結である現在の危機を、自由な社会という原則を手放すことなく克服する方向を示した。なお、見田ゼミ出身の社会学者・研究者に、内田隆三、吉見俊哉、舩橋晴俊、福岡安則、亘明志、江原由美子、大澤真幸、宮台真司、小熊英二、熊田一雄、上田紀行、中野民夫らがいる。教養学部社会科学科の科長であった1988年、後任教官の候補に、同学科教授(当時)西部邁が、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一を助教授に推すが、学科間の感情的対立や社会科学科内の思惑から混乱が生じ、教授会で前代未聞の否決となる。西部は教授会に抗議して辞任。「中沢事件」 「東大駒場騒動」などと報道されて話題となる。見田は社会科学科科長として、当初人事案に賛成するも、その後中沢人事支持を記した文書と、教養学科第三(相関社会科学)委員長で社会科学科の人事委員長であった佐藤誠三郎教授に対する批判を理由に社会科学科の科長を辞任する旨を記した2通の文書を学部内に配布して科長を辞任するなどして混乱に拍車をかけた。その結果、人事案の提案母体である社会科学科内の不一致を学部内に印象付け、人事案件否決の流れを決定付けた。西部邁は見田の態度を日和見的だとして厳しく批判した。見田は『朝日新聞』に寄稿し、中沢新一が『チベットのモーツァルト』の中で、カルロス・カスタネダのモティーフを典拠を示さずに引用していることなどを指摘し、「中沢氏が東大に来ようと来まいと、どうでもいいことである」と釈明した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。