1882年(明治15年)に伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王の令旨によって林崎文庫に設置された神宮皇學館を母体とする。主として神職や教員の養成にあたり、1903年(明治36年)に官立の旧制専門学校(内務省所管の宗教系旧制専門学校)を経て、1940年(昭和15年)には旧制の官立大学(文部省所管)になるが、第二次世界大戦終結後は国家神道を推進した機関の一つとして、いわゆる神道指令を受けて廃学・解散した。現在の大学は1962年(昭和37年)に私立大学として、旧制神宮皇學館の関係者が中心となって「再興」したものである。伊勢神宮の外宮と内宮のほぼ中間の倉田山に大学本部(伊勢学舎、文学部・教育学部・現代日本社会学部)校地が所在する。
2011年(平成23年)3月までは、名張市にも名張学舎(社会福祉学部)があったが、2010年(平成22年)度より社会福祉学部の募集を停止、機能を伊勢の本部に統合することを決定して、名張市から撤退した。。名張学舎跡地には、熊野市から近畿大学工業高等専門学校が2011年(平成23年)4月に移転した。1962年(昭和37年)に新制大学として発足した皇學館大学は、その建学の精神を元の神宮皇學館及び神宮皇學館大学より受継いでいる。1882年(明治15年)に、神宮の鎮座する伊勢に発足した神宮皇學館は、当時の文明開化、旧物破壊の風潮に対して、日本古来の歴史と伝統に基づいた学問の維持発展を目指した。1900年(明治33年)2月18日、当時の神宮祭主・神宮皇學館総裁賀陽宮邦憲王による令旨は、現在においても皇學館大学建学の精神を最もよく示すものとされている。内容は以下の通り。文学部の神道・国史・国文学科では神社本庁の神職の資格が取得できる。大学でこの資格を取得できるのは、皇學館大学と國學院大學のみである。なお、宗教科教員免許を取得できる神道系学校は、皇學館大学のみである。明治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿革の項を参照)、大教宣布や近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇學館の源流である。1872年(明治5年)10月28日、教部省に「神宮教院開設届」が提出され、翌1873年(明治6年)には全国からの新入生を集めて神宮教院が開校した。1876年(明治9年)の「神宮教院規則」によると、生徒は8 - 15歳程度までの「幼学生」と16 - 18歳程の「講習生」に分けられ、寮生活の中で教学を修めることになっていた。幼学生の多くは近隣から通学していたが、小学校が近くの地区に設立されると、ほとんどの生徒はそちらに転校したため、教院生の数は激減することとなった。一方で講習生には県外出身者が多かった。1876年(明治9年)10月、神宮教院はその規則が改定され、神宮教院本教館として新たに置かれた。皇學館直接の母体となったのはこの本教館である。教職員は館長・大教授・大管事1人ずつの下に、中教授・中管事、小教授・小管事、寮長、舎長が配置され、学生の学年は下等(普通学生)・中等・上等(それぞれ専門学生)に三分されていた。修業年限は4年と10か月で、授業形態は、下等から上級に進むにつれ、授読や授講から輪講、独習が多くなっていった。上等段階の学習では、キリスト教の『聖書』も使用されており、その内容の多岐さから、布教活動のための人材養成としての側面をうかがうことができる。また、神宮教院は全国を13の教区に分けて布教活動を行っていたが、この教区制が本教館へ全国からの学生を確保する役割も果たしており、北は仙台、南は薩摩と幅広い地域からの出身者が学んでいた。1879年(明治12年)には、定員を50名にし、15 - 25歳の、終生教義に従うことを願った者に入学資格を与え、年限を4年とすることなどを定めたが、学生間の対立激化が直接の契機となって、本教館は1881年(明治14年)12月9日の布達をもって閉校せざるを得なくなった。社会的にも、当時の神道をめぐる政策の情勢が、祭政一致から分離の方向に動きつつあり、教導職の意義が揺らいでいたことも間接的に影響していたと考えられる(教導職は1884年(明治17年)に廃止)。神宮教院本教館が廃止されてから半年に満たない1882年(明治15年)4月30日、久邇宮朝彦親王より「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」なる布達が出され、同年7月6日には内務卿・皇典講究所賛襄の山田顕義宛に「皇學館設置ノ儀向」が提出され、教育機関の再興運動が始まった。ただし、学校の設立は順調に進んだわけではなく、内務省からの設置認可は1883年(明治16年)5月26日にようやく下り、生徒を募集して教育活動を本格的に始めたのは1885年(明治18年)以降のことであった(開校式は1883年(明治16年)4月28日に挙行)。皇學館の教育目的から教導職の養成はなくなり、基礎教養を授けた上で神道の専門教育を施すという新たな目標が掲げられた。設立当初は小学校との両方に籍を置く児童もいたが、1886年(明治19年)の小学校令公布によって、そのような幼年者は小学校に転籍され、皇學館は中等課程以上の学校となる方向付けがとられた。1887年(明治20年)には皇學館から神宮皇學館に改称され、学科は尋常科(尋常小学校卒業程度の者を対象・4年制)とその上級にあたる高等科(4年制)に編成し直された。のち、一時期は尋常中学校相当のレベルに短縮されたものの、専門教育機関としての体裁を整える方向に進み、幾度の改定を経て、1899年(明治32年)には、予科生を全員三重県立第四中学校に移して予科を廃したことで、本科(4年制)・専科(3年制)からなる専門学校となった。1898年(明治31年)には予科・本科生に徴兵猶予の資格が、1899年(明治32年)9月には中等学校教員の無試験検定資格(歴史科・国語漢文科)が認定され、1902年(明治35年)2月には本科卒業生に奏任官、専科卒業生に判任官相当の神職資格が付与されることとなった。そして、名実ともに1903年(明治36年)9月1日より、「神宮皇學館官制」に基づく、内務省管轄の官立専門学校(ただし専門学校令によらない)として認定されるに至った。以後、神宮皇學館は「国体ヲ講ジ、道義ヲ明ニシ、之レガ発揮ト実践トヲ期スル」ことを目標に教育活動を行い、環境の広報・発展に努めた。本科は中学校卒業・専門学校入学者検定合格者を対象とする4年制の課程であるのに対して、専科は中学校3年終了もしくは16歳以上を入学資格とする速成課程であったが、1917年(大正6年)には専科卒業者にも教員免許が認定されるように科目の改正が行われ、1921年(大正10年)9月には文部省より専門学校に準じる学校に指定され、1924年(大正13年)には本科卒業者を高等学校および大学予科卒業者と同等とすることが認められた。しかし、学校の水準や地位が向上した一方で、大正時代末期には創立当初の精神に立ち帰るべきとの声が高くなり、制度の改革がなされた。背景には、神道を学んだり神職に就いたりすることよりも、中等学校教員免許を無試験で取得することを目的にして入学する者が多く、事実上は教員養成所と変わるところがないという当時の現状に対する批判が関係者の間で高まったことにある。事実、1927年(昭和2年)の卒業生の就職状況では、本科卒業者の4分の3近くが教職にあった。1925年から1926年の間に行われた改正では、本科の上に1年間の研究科を設け、専科を廃止して新たに神職養成部を置くことや、科目に「神道科」を追加することが行われた。神職養成部は、高等小学校卒業者を対象とする4年制の普通科として置かれることとなり(1931年(昭和6年)より尋常小学校卒業者対象・5年制に改定)、中等教育段階で普通神職を養成することを目標に生徒を募集した。それでも教員志望者・就職者は減少することなく、神宮皇學館は全国の中等諸学校に卒業生を送り続けていった。なお、施設・環境面では、それまで宇治山田市治館町にあった校地が教育に不適であるとして、1916年(大正5年)から3年の歳月をかけ、市内の倉田山に総面積2万3千超坪の大規模な学園用地を造成し、以後同地を皇學館の本拠地とした。1928年(昭和3年)の大講堂完成をはじめ、1930年代には教室や寮などの各施設が整備・充実されていき、一大学園としての姿を整えていった。1932年(昭和7年)には創立50周年を記念して館歌が制定された。大学令が1918年(大正7年)に定められたことで、神宮皇學館を単科大学に昇格させる議論自体は1920年代より以前から一部で挙がっていたが、昇格計画が表面化したのは「大学昇格期成同盟会」が卒業生らによって組織された1934年(昭和9年)のことであった。1935年(昭和10年)には第1回調査会が、内務省神社局、神宮司庁といった関係官庁と学校、同盟会によって開かれたが、翌年の第3回調査会で、神社局により、内務省管轄での大学設置は不可能であり、神職養成のための大学を置くことは困難で、勅令手続きも難しいとの回答がなされたことで、昇格運動はひとまず学校の充実に向かうこととなった。しかし、同年頃から、伊勢神宮を中心として、国民精神高揚を目指して宇治山田市を聖地化する「大神都聖地計画」案が具体化したことで、精神的施設の必要性の観点から、神宮皇學館の大学昇格が再び浮上することとなった。1937年(昭和12年)から市会、県会、皇學館、三重県選出の国会議員らが一致して昇格運動を積極的に行った結果、1940年(昭和15年)には文部省所管の官立大学として、「神道精神の闡明」を掲げた神宮皇學館大学が置かれることが決定し、同年4月には予科第1期生を迎えて開学した。なお、内務省管轄の神宮皇學館は募集を停止し、全在籍者の卒業をもって廃止することとなった。1941年(昭和16年)には、従来の神宮皇學館に代わって神職を養成する附属専門部(3年制)が開設され、翌年には学部(3年制)が開かれた。予備教育を施す予科は別として、学部・専門部の学科課程は神道関係の科目が多く、「皇国固有ノ教学ノ基本ニ培フ学術ノ理論及応用ヲ教授」することが使命とされた。太平洋戦争中、旧・神宮皇學館は、1942年(昭和17年)9月に本科、1944年(昭和19年)2月に普通科最後の卒業生を送り出して廃止され、1943年(昭和18年)には、文系学生の徴兵猶予が停止されたことで学部学生の約4割にあたる151名が同年12月に入営した。1945年(昭和20年)に入ってからは倉田山の校地が宇治山田空襲によって建物の多くを焼失し、8月15日の日本の降伏以降、神宮皇學館大学は国家神道を担ってきた一機関としてその命運がいよいよ危機的なものとなった。存続をはかるために、同年10月24日、大学は「皇學館大学」と改称し、神道科目を削減することを文部省に願い出、学生の側も12月に大会を開き、国家神道色を払った上で大学を存続するよう、文部省に宛てた決議文を作成したが、連合国軍最高司令官総司令部が神道指令を同年12月15日に発したことや、その他の大学存続案(私立学校に転換、または他大学との合併など)が決まらなかったこともあり、神宮皇學館大学は1946年(昭和21年)3月31日の勅令によって廃学・解散となった。職員は希望調査の上での転任となり、卒業生以外の学生は他の大学や高等学校・専門学校に移っていった。校地は宇治山田市が購入し、図書などは名古屋大学などに移管され、皇學館の歴史は一時中絶した。皇學館は廃止されたものの、卒業生を中心に学校を再興する気運は強く、1946年(昭和21年)9月1日には三重県知事に私立各種学校としての「伊勢専門学館」設置申請が館友代表の早川満三郎より提出された。神道指令では私立の神職養成所の設置は禁じられていなかったため、早川はかつての皇學館との違いを強調することで認可を同月10日に得、10月に授業を開始したが、三重県軍政部は教職員の多くが神宮皇學館で務めていた者であることを問題視し、「超国家主義的」であるとして同年内に閉鎖させた。次の試みとして、非皇學館出身者を校長に迎えた「清明高等学院」を1948年(昭和23年)に開いたが、入学者が少なかったために、これも自然廃校となった。大学再興運動は、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立する状況下で再び活発化する。「日本文化研究所」の設置を目指す財団法人五十鈴会が1951年(昭和26年)に発足し、翌年には「神宮皇學館大學再興期成会」が結成された。1954年(昭和29年)、五十鈴会第2回全国大会では「日本文化の最高学府」として大学を再興すること決議され、同年9月20日には神宮大宮司宛に皇學館を短期大学として設置する案が提出され、宇治山田市議会でも大学再興の請願が採択されたが、1955年(昭和30年)、神宮は大学でなく、より純粋な神職養成所としての「神宮皇學館」を開くことを決定した。当時の関係者の一部からは「大学を再開しても学生が集まらない」、「大学を開設することで國學院大學との間で競合関係が生まれるのは好ましくなく、國學院を唯一の神道大学として充実させるべき」などの懸念や、伊勢の地にはより実践的な養成施設を置くべきであるとの意見が出されていたことからも、再興運動が一枚岩でなく、順調に進まなかったことがうかがえる。だが、運動が挫折したわけではなく、1959年(昭和34年)に吉田茂を会長に戴いた「皇學館後援会」が発足した。会長の吉田以外に、同後援会には副会長として池田勇人、財界からは石坂泰三、足立正、小林中、杉道助、太田垣士郎らが参加した。彼らが全国の財界人に働きかけて賛助を呼びかけたり、県が後援会からの協力要請を採択したりして大学設置への動きは加速し、1962年(昭和37年)2月17日には、関係者の長年の悲願だった大学の設置が文部省より認可された。同年4月25日には開学式が挙行され、神宮皇學館大学の再興が完成した。その後、1968年(昭和43年)には戦前の校地を伊勢市より購入して旧来の姿を整え、文科系の学部・学科を中心に規模を拡大し、神道系大学として、神職養成課程や附属神道研究所に見られるような独自色を打ち出している。また、高校や中学を併設して中高大一貫教育をも実施している。学部生向けに男女別の学生寮がある。男子寮を精華寮、女子寮を貞明寮と称する。入学手続きの際に入寮を希望し入寮が許可された学生は入学より2年間寮で生活することができる。また寮の定員に対して希望者多数の場合は実家が遠方の者から優先的に入寮となる。大学として寮の整備には特に力を入れており、その整備充実が積極的に図られている。寮は教育寮であり、寮生には大学の行事である正装での月例神宮参拝、寮内の神殿での夕拝、毎朝の朝拝・清掃等の行事が義務付けられており、寮生活の中で人との協調性や上下関係などを身につけることとなる。毎年5月上旬に、全学生を対象に実施。寺社、博物館等の施設(皇學館大学ゆかりの地)を参拝し、皇學館大学の同一性を確認することを目的としている。学年ごとにコースが違うため、4年間で4通りのコースを回ることとなる。皇學館大学の学園祭は伊勢学舎内で開催され、「倉陵祭」(そうりょうさい)と呼ばれている。かつて名張学舎で行われていた学園祭は「皇名祭」(こうみょうさい)と呼ばれていた。例年、11月初頭前後に3日間開催される。
出典:wikipedia
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