『我が闘争』(わがとうそう、)とは、ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著作である。第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された。ヒトラーの自伝的要素と政治的世界観 () の表明などから構成されている。ヒトラーが当初希望した書名は『』(虚偽、愚鈍、臆病に対する(闘争の)4年半)であったが、出版担当のマックス・アマンは、より短い『』(我が闘争)を推奨した。ヒトラーは1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後、獄中で当書の執筆を開始した。当初は多数の面会者と会っていたが、すぐに執筆に没頭した。執筆中に本を2巻にすることとし、1巻は1925年当初の発行を予定した。ランツベルク刑務所の管理者は「彼(ヒトラー)はこの本が多くの版を重ねて、彼の財政的債務や法廷費用支払の助けとなる事を望んだ」と記した。ヒトラーは1924年、ランツベルク刑務所で収監されていたエミール・モーリスに、のちにルドルフ・ヘスに対し口述した。ヘスに加えて数人が同書を編集したが、雑な著述と反復が多く読解するのが困難であったとされる。第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されている。自叙伝は他の自叙伝同様に誇張と歪曲がなされたものであるが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤおよび軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されている。戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言している。特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観である。さらに、あらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する反ユダヤ主義も重要な位置を占めている。しかし、ユダヤ人大量虐殺についての記述は全く無い。また「経済の理のみねらうは民族の堕落」「凡そ世の中に武力によらず、経済によって建設された国家なるものはない」と、経済偏重がドイツ帝国の敗北を招いたとしている。外交政策では、フランスに対して敵愾心を持ち、ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)との同盟を「亡滅に陥る」と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕は当にそのユダヤ人なのだ」であるとしている。現時点で同盟を組べき相手は、イギリスとイタリアであるとしている。また、ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ロシアを征服して東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとした。これは東方における生存圏 () 獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したものであり、後の独ソ戦の要因の一つとなった。ヴィルヘルム・クーノなどのドイツの政治家を酷評する一方で、ベニート・ムッソリーニを「彼の仕事を見る度に感嘆の声を発せざるを得なかった」「巨人」と高く評価している。第一部は1925年7月18日にナチ党の出版局である(フランツ=エーア出版) から発売された。価格は12マルクであり、当時の一般書の2倍の値段になる。これはあまり売れないと判断したアマンが少部数でも元を取れるようにしたという。1925年には9,432部、1926年には6,913部が売れた。1926年12月には第二部が出版されたが、1927年の売り上げは一部二部をあわせて5,607部にとどまった。しかしナチ党は同書が大量に売れていると宣伝していた。ドイツ国内におけるナチ党の支持層拡大とともに、本の売り上げは増大した。1930年には54,080部が売れた。また、この年には一部と二部を合本した廉価版が8マルクで売り出されている。1931年には50,808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらした。ナチ党の権力掌握後、ナチ党のヒトラー政権下で『我が闘争』は事実上ドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになった。結婚する全ての夫婦に『我が闘争』を贈呈することが奨励され、各自治体がフランツ=エーア出版に発注した婚礼用(市の紋章が表紙に箔押しされ、首長のメッセージが記されたページが挿入されている)の『我が闘争』が、婚姻届を提出した夫婦に贈られた。贈呈用として、本革や琥珀の板、銀細工などで装丁された様々な特装版も販売された。視覚障害者向けには、6巻組の点字版も製作された。本書の販売はヒトラーに数百万ライヒスマルクの収入をもたらしたが、購入者の大半が全てを読んだわけではなく、ヒトラーに対する忠誠、ナチ党内での地位の維持、ゲシュタポの追及をかわすために購入した者もいたと言われている。1939年には上下巻を合本し、特別な表装をほどこした と呼ばれる版が出版された。第二次世界大戦終結によるナチ党政権崩壊までに、約1,000万部がドイツ国内で出版された。一方で、当然ながら国内外の批判者からは、『我が闘争』の内容を巡って批判も行われた。1936年2月21日、フランスへの友好姿勢をアピールするヒトラーに対し、フランスの記者が『我が闘争』のフランス批判部分を修正するかと問いかけた。ヒトラーは次のように答えている。この本はドイツ国外でも出版された。最初に英訳を試みたのはイギリス人のである。社がその原稿を買い取り、アメリカでも出版された。しかしこれらは著作権者であるヒトラーの許諾を得ていなかった。ホートン・ミフリン版からは反ユダヤ主義的な部分や軍国主義的な部分が一部削除されている。唯一の公式的な英訳はによるもので、1939年に出版された。通信社に勤務していたはヒトラーとナチズムに対する批判者であり、批判のために反ユダヤ主義や軍国主義的な部分を残した『我が闘争』を英訳して出版した。ナチスの代理人らは出版差し止めの訴訟を行い、コネチカット州の裁判所はこれを認め、出版は差し止められた。最初の日本語版は、1932年に内外社から刊行された『余の闘争』(坂井隆治訳)である。以後、終戦までに、大久保康雄、室伏高信、真鍋良一、東亜研究所特別第一調査委員会が訳を手がけ、別々の会社から刊行されている。石川準十郎も国際日本協会から『マイン・カンプ研究』を発行する予定であったが、販売されなかった。ヒトラーはこの書において、アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 ()、ユダヤ人を文化破壊者としている。日本の文化というものは表面的なものであって、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものにすぎないとしており、強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしている。もしヨーロッパやアメリカが衰亡すれば、いずれ日本は衰退して行くであろうとしている。他にも日本人侮蔑と受け取れる場所が複数あり、鈴木東民や勝本清一郎等が告発する文章を発表している。戦前の日本語版においては、こういった日本人をおとしめた箇所が削除されているという指摘が行われている。一方で篠原正瑛はこれらの日本語版において、日本人をおとしめた箇所が削除されたという事実はないとしている。外務省も独自に訳出に当たっているが、「時局柄世人の眼に触れさせぬ方がよい」部分を訳出せず、修正している。第二次世界大戦の終結後、連合国の解放令は、ナチ党幹部たちの財産すべてを没収すると規定していた。アドルフ・ヒトラーの住所は最期までミュンヘンのプリンツレゲンテン広場16番地であったから、ヒトラー遺産の管理人はバイエルン州であった。ヒトラーの親族が『我が闘争』の版権の所有を主張し、裁判所に訴えたこともあったが、認められなかった。ドイツでは民衆扇動罪により、ナチ党およびヒトラー賛美につながる出版物の刊行が規制・処罰の対象となっているため、著作権を保有するバイエルン州政府は、逆に著作権を盾に、ドイツ国内における本書の一切の複写、および印刷を認めないことで、ドイツ連邦政府と合意していた。しかし技術の発展により、インターネットが出現し、ウェブサイトや動画共有サイトによって、アドルフ・ヒトラーの演説や本書の内容が、誰でも読めたり見られる様になっていた。そのため、2015年12月31日までドイツ国内で流通していた『我が闘争』は、ドイツ語の古書と他言語版のみであった。ヒトラーの没年70年に当たり、没年70年間保護される、著作権の保護期間が終了した2016年1月1日以降、パブリックドメインとなってしまうため、ネオナチズム主義者に喧伝されない様に、『我が闘争』を歴史学者による学術的な注釈を付けた書籍としての復刊が、2012年からミュンヘンの (IfZ) によって計画されていた。しかし、ホロコースト生存者からの反対を受け、2013年にバイエルン州政府は『我が闘争』の出版を取りやめ、現代史研究所への資金提供を停止し、注釈付きでも出版した者は「民衆扇動罪」で取り締ることを発表したが、2014年1月24日に至り、バイエルン州政府は、学術的な注釈を付けた『我が闘争』の発行を認める方針に転換した。そして2016年1月8日に再出版された。ヒトラー没後70年が経過し、ドイツでドイツ語で書かれた『我が闘争』を誰もが読めるようになった。2016年1月中旬時点で、既に新書として購入可能となっている。解禁後の脚注付き版は、ドイツのAmazon.co.deで、初版4,000部が数時間の内に完売してしまった。ドイツにいるユダヤ人の幾らかの人々は、『我が闘争』の販売が「ネオナチズムの新たな波を生み出す」とし、不快感を示している。中立の歴史家は、この再発行を支持している。時期的に重なるが、2015年末ケルン大晦日集団性暴行事件が発生し、その被害状況を検察当局が隠蔽していた。検察による事実隠蔽とドイツ政府が、このヒトラーの書物を長らく禁じていた事実とが、奇妙な一致をする。再出版前も、ドイツ以外では翻訳本が入手可能であった。1999年にサイモン・ウィーゼンタール・センターが、Amazon.comやバーンズ・アンド・ノーブルのようなECサイト書店が『我が闘争』を販売していることを糾弾した際、世間からの抗議を受けた両社は、同書の販売を一時見合わせたが、その後また両サイトとも英語訳版『我が闘争』を購入できるようになっている。日本では、戦前の日本語抄訳版に代わり、1973年(昭和48年)から、角川書店が文庫版で翻訳本を刊行。2008年(平成20年)には、イースト・プレスから漫画版も出版された。また2005年には、トルコの若者の間でベストセラーになるなど、ユダヤ人とイスラエルに反感を持つ中東地域で、一定の人気を保っている。収集家間においては、戦前の特装本やナチ党政権要人の直筆署名入りのものが高値で取引されており、2005年には、ロンドンの古書類競売業者のオークションで、ヒトラーの署名入り初版本が、23,800UKポンドで落札されている。この他、米国立公文書館に保存されている、未刊行に終わったヒトラーの口述タイプ原稿が、『ヒトラー第二の書』、『続・我が闘争』と銘打たれて翻訳、刊行されている。『我が闘争』が人種差別主義的な内容で第二次世界大戦中のナチズムやホロコーストにいかに影響を与えたかについては、多数の議論がある。ヒトラー政権下で軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアは回顧録で、ヒトラー自身が以下のように語っていたと記した。「我が闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」。また、ヘルマン・ゲーリングは次のように述べた。「総統は彼の理論、戦術等において変幻自在だった。その為、あの本から総統の目的を推測する事は不可能だ。総統は臨機応変に己の意見や見解を変えていた。あの本は総統の哲学思想の基本的な骨組みが著されているのだろう」。なお、『我が闘争』では大衆を蔑視する記述が多いのに対して、政権掌握後のヒトラーは大衆宣伝に心を砕くなど両者には相反する点が多いことから、『我が闘争』はあくまで1920年代初頭当時のヒトラーの知見を述べたものにすぎない、という指摘もある。イタリアのファシスト指導者で、ヒトラー率いる当時のドイツと同盟したベニート・ムッソリーニは、『我が闘争』は「退屈な研究書で私は決して読めない」、当書で表明されたヒトラーの信念は「陳腐にすぎない」と述べた。また、ナチ党員であったは、ヒトラーの友人と思われる他の党員には『我が闘争』の内容は重要な政治的議論だと見せたが、しばしば実際に当書の内容を非難した。日本海軍の井上成美はベルリン駐在中にドイツ語の原典を読み、有色人種蔑視などの人種差別主義を嫌悪し、米内光政や山本五十六らとともに日独伊三国軍事同盟に反対した。石原莞爾も1945年に『マイン・カンプ批判』を出版している。第二次世界大戦中にイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、「我が闘争」は「他のいかなる本よりも集中的な調査が必要な本」と記した。アメリカ合衆国のKenneth Burke ()は著書『ヒトラーの「闘い」のレトリック』で、「我が闘争」には攻撃的な意図を持つ隠されたメッセージがあると記した。ヘンリー・キッシンジャーは、「我が闘争」に記載されたヒトラーの哲学は、陳腐で空想的で、従来からの右翼過激思想を通俗的にまとめ上げただけで、知的潮流を引き起こすものではなく、この点でマルクスの『資本論』などとは異なっていた、と述べた。
出典:wikipedia
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