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旅順攻囲戦

旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を第一太平洋艦隊の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、旅順口を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。日本は、日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討されたが、旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた。海軍側は独力で旅順問題を処理することを考え、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を撃沈という作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。陸軍側は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面への北進に集中し、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留める考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。開戦後、海軍による港外奇襲と港口閉塞作戦が実行されたが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始め、3月以降は第二艦隊を対ウラジオストク巡洋艦隊専任に割かねばならなくなったが、港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。陸軍では、3月上旬までは封鎖監視で十分であると判断していたが、最終的に、3月14日、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。 3月27日、海軍の第二回閉塞作戦が実行されたが不成功だった。4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。ロシアは5月にバルト海艦隊(バルチック艦隊)の主力艦船群の極東派遣を決定した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満州での戦争継続は絶望的になると考えられた。5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換したが、主力艦が貼り付かざるを得なくなり増派艦隊への対応が難しくなった。15日には当時日本海軍が保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。日本軍としては増派艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要に迫られ、海軍はこの頃陸軍の旅順参戦の必要性を認めざるを得なくなった。このような経緯により攻城特殊部隊を擁する第3軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。軍参謀らには、開戦後に海外赴任先から帰国してきた者が加わった。軍司令部は6月1日に本土を発ち、8日に大連に到着した。第3軍の主力としては、すでに金州城攻略戦を終えて主戦場と目される北方戦線に向かう第2軍から2個師団(第1師団、第11師団)が抽出され、これに当てられた。旅順は元々は清国の軍港で、露国が旅順を手中に収めた時点である程度の諸設備を持っていた。しかし防御施設などが旧式で不十分と判断し更なる強化を行った。1901年より開始されたこの工事は、203高地や大孤山(標高約180 m)も含めた広い範囲に防御線を設置し守備兵2万5000を常駐させるものだった。しかし予算不足で規模を縮小され防御線は203高地や大孤山より港湾側に、守備兵も1万3000の常駐に変更された。このため要塞防衛線が港湾部に近すぎてしまい、要塞を包囲した敵軍の重砲は、要塞防衛線外の安全な位置から港湾部を射程距離内に収めることができ、また大孤山や203高地、海鼠山(南山坡山)などから港湾部の一部もしくは全域の弾着観測ができた。そのため開戦後に前進陣地や前哨陣地を設けて防御していたが完全とは言えず、艦隊を地上からの砲撃から守れない構造だった。また完成は1909年の予定だったので、1904年の日露開戦により未完成のまま(完工度は約40パーセント)戦争に突入することになった。これら前哨陣地は第7師団長ロマン・コンドラチェンコ少将の精力的な強化工事が施された。要塞の配置、規模はとなっている。要塞の主防御線はベトンで周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなりあらゆる方角からの攻撃に備え、後方の高台(望台)に砲台を造り支援砲撃を行うことになっていた。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。開戦時、ロシア軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その三分の一に当たる2個師団約3万名が旅順および大連地域に配備された。これに要塞固有の守備兵力、工兵、要塞砲兵なども含め最終的に4万4千名(これに軍属他7千名、海軍将兵1万2千名)が立て籠った。ロシア軍では、この要塞を含めた地域一帯を防衛するロシア関東軍が新設され軍司令としてアナトーリイ・ステッセリ中将、旅順要塞司令官にコンスタンチン・スミルノフ中将が就任。守備部隊として東シベリア第7狙撃兵師団(師団長:ロマン・コンドラチェンコ少将)と同第4師団(師団長:アレクサンドル・フォーク少将)この他、東シベリア第5狙撃兵連隊や要塞砲兵隊、騎兵・工兵など総勢4万4千名、火砲436門(海岸砲は除く)が籠っていた。日本海軍は、独力で旅順艦隊を無力化することを断念し、1904年7月12日に伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請した。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出した。6月31日、大本営からも陸軍に対して旅順要塞攻略を急ぐよう通達が出ていた。しかし陸軍は、旅順要塞を攻略することを当初念頭に置いていなかったために、これら要塞の情報が不足していた。ロシア軍の強化した要塞設備に関する事前情報は殆どなく第三軍に渡された地図には要塞防御線の前にある前進陣地(竜眼北方堡塁、水師営南方堡塁、竜王廟山、南山坡山、203高地など)が全く記載されていなかった。防御線でも二竜山、東鶏冠山両堡塁は臨時築城と書くなど誤記が多かった。こうした中で要塞攻略の主軸をどの方向からにするかが議題となった。戦前の図上研究では平坦な地形の多い西正面からの攻略が有利であると考えられていた。しかし第三軍司令部は大連上陸前の事前研究によりその方面からの攻略には敵陣地を多数攻略していく必要があり、鉄道や道路もないので攻城砲などの部隊展開に時間を要し早期攻略できないと考え東北方面の主攻に方針変更した。しかし新たに軍令部次長となった長岡外史や、満州軍参謀井口省吾らが西方主攻を支持し議論となる。ただし、この主攻の選択はあくまで要塞攻略の主軸をどの方面にするかの話であり、後に出る203高地攻略とは別の議論である。結局この議論は第三軍司令部が現地に到着する7月ごろまで持ち越される。その頃第三軍は、6月26日までに旅順外延部まで進出していた。7月3日、コンドラチェンコ師団の一部が逆襲に転じるが塹壕に待ち構える日本軍の反撃に撤退した。その後第三軍に第9師団や後備歩兵第1旅団が相次いで合流し戦力が増強された。このあと乃木は懸案だった主攻方面を要塞東北方面と決定した。この理由には下記があった。準備を整えた第三軍は7月26日旅順要塞の諸前進陣地への攻撃を開始する。要塞の前進陣地は、主に西方に203高地近辺諸陣地、北方に水師営近辺諸陣地、東方に大小孤山諸陣地が存在しており、当面の主目標は東方の大孤山とされた。これらの防御施設は未完成だった。3日間続いた戦闘で日本軍2,800名、ロシア軍1,500名の死傷者を出し、30日にロシア軍は大孤山から撤退した。この頃乃木は、来るべき総攻撃の期日を、増援の砲兵隊の準備が整うのを待って8月19日とする決断をした。8月7日、黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに命中弾を与えた。またレトウィザンの直近に停泊していた艦船への命中弾は爆発を引き起こし、それがレトウィザンに浸水被害を与えた。8月10日、旅順艦隊に被害が出始めたこと、また極東総督アレクセイエフの度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ヴィトゲフトは、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。しかし日本連合艦隊は黄海海戦で2度に亘り旅順艦隊と砲撃戦を行う機会を得つつも1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失い、旅順港への帰還を許してしまう。帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ旅順港の設備では修理ができない状況だった。最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリだけは外洋航行可能にまで修理されたが、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。帰港後は、大孤山から観測されないよう、狭く浅い湾内東部に停泊させた。総攻撃を前に第三軍は軍司令部を柳樹房から鳳凰山東南高地に進出させた。さらに団山子東北高地に戦闘指揮所を設け戦闘の状況を逐一把握できるようにした。ここは激戦地となった東鶏冠山保塁から3キロという場所でしばしば敵弾に見舞われる場所であった。以降、攻囲戦は主にここで指揮が取られることになった。8月18日深夜、第三軍(参加兵力5万1千名、火砲380門)各師団は其々目標とされる敵陣地の射程圏外まで接近し総攻撃に備えた。翌8月19日、各正面において早朝より準備射撃が始まる。ロシア側は日本の砲兵陣地の位置を正確に把握できておらず、当初は反撃も散漫だったが、やがて本格的になり、この日は両軍合わせて500門の火砲が撃ち合う激しい戦闘となった。乃木も午後1時に双台溝の236高地に登り戦況を視察した。ロシア軍ではこの砲撃で松樹山、二龍山、盤龍山、東鶏冠山、小案子、白銀山、望台の各保塁・砲台に大損害が出ており、東鶏冠山第二保塁では弾薬庫が爆発し守備兵が全滅し、二龍山保塁では主要火砲の6インチ砲がすべて破壊された。こうした光景を目の当たりにして日本軍前線の将兵の士気は大きく高まったという。2日間の砲撃戦ののち、21日に第三軍は総攻撃を開始した。総攻撃開始に先立つ19日午前6時、友安安治少将率いる後備歩兵第1旅団(第1師団の指揮下として右翼隊を形成)は目標の大頂子山に攻撃を開始した。一部が敵前至近距離に迫ったものの猛烈な反撃を受け撃退された。夜半になり夜襲を仕掛けるも戦況は好転しなかった。20日には歩兵第二旅団(旅団長:中村覚少将)基幹の左翼隊は水師営南方高地までは順調に進んだがここで敵の抵抗にあい、それでも水師営の一部と同西溝の猛攻の末22日に占領。夜半には93高地を夜襲で奪取した。明けて21日、師団長の松村務本中将は司令部を高崎山に移す。歩兵第1旅団(旅団長:山本信行少将)基幹の中央隊が第一師団の攻略目標である南山坡山(通称海鼠山)及びその北端の鉢巻山を総攻撃。22日までにさしたる抵抗もなく占領するがまもなく激しい逆襲が行われ白兵戦が幾度となく展開された。日本側は増援を送ろうにも鉢巻山へ至るには敵の寺児溝北方陣地の麓を通らねばならず、占領部隊への増援、補給は至難だった。補給線の確保も失敗し兵士たちは匍匐前進で弾薬や糧食を運ばなければならなかった。第9師団でも歩兵第18旅団(旅団長:平佐良蔵少将)基幹の右翼隊が19、20日と竜眼北方保塁へ攻撃を開始。しかしこの方面は攻撃側が身を隠すような草木もなく、付近の砲台から集中射撃を受けて大損害を被る。21日、左翼隊の歩兵第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)が盤龍山南北の堡塁に攻撃を開始。配下の歩兵第7連隊では3人の大隊長のうち2人が戦死し、遂には連隊長大内守静大佐自らが先陣をきって突撃するも、28発もの銃弾を浴びて戦死する程の激戦となった。一戸少将は歩兵第35連隊を増援に送るが失敗し、先月30日に戦傷で交代したばかりの連隊長、折下勝造中佐が戦死してしまう。このため一戸は夜陰に乗じて攻撃する方法に切り替える。22日午前0時、各隊は一斉に夜襲をかけるが、ロシア軍は探照灯や照明弾で周囲を照らし機関銃を乱射してそれを阻んだ。戦闘は明るくなっても続き後備歩兵第8連隊が増援、午前10時頃、盤龍山東堡塁の占領になんとか成功、午後8時には西堡塁も占領した。しかしこの間戦い続けた第7連隊は大損害を被り、確保時の残余兵力は将校以下71名だった。ともかく第9師団は盤龍山東西堡塁の攻略に成功し、ここは半ば要塞の第二防衛線に食い込んだ要地で望台までは約1kmだった。第11師団長土屋光春中将は司令部を大弧山北嶺に移すが、敵の銃撃を受け、参謀2名が戦死した。歩兵第10旅団(旅団長:山中信義少将)は東鶏冠山北堡塁、第二堡塁を攻撃。北堡塁の方は直前に外壕が見つかり、工兵隊の犠牲のもと、巨大な外壕に二条の突入路を築き、部隊が突入するが集中砲火を浴び、突入隊隊長の本郷少佐以下多くの死傷者をだし、外壕に躍り込んだ隊は全員戦死した。第二堡塁の方は占領には成功するも退却するロシア軍が放った火が壕内の弾薬に引火し爆発、それが引き金となる周囲の堡塁砲台から集中射撃を受け突入隊隊長の吉永少佐以下死傷者が続出し、弾薬も無くなり残余兵40名はやむ無く撤退。鉄条網下の地隙に援軍をまった。僅か3時間の占領であった。乃木は占領した盤龍山堡塁を起点として、23日、望台への攻撃を命じた。しかし盤龍山堡塁を占領する第九師団の戦力は予備兵力を含めても約1000名に激減しており、第1師団から歩兵第15連隊(二個大隊欠)を応援に回し、第11師団も東鶏冠山堡塁への攻撃で疲弊した歩兵第10旅団(旅団長山中少将は疲労で倒れた土屋師団長の代理で師団本部におり、指揮は歩兵第44連隊の石原大佐が執る)を応援に出す。戦力が整った各隊は24日午前2時より攻撃を開始する。しかしこれらの突入も情報を事前に察知していたステッセル中将の指示で準備を整えていたロシア軍の反撃で各隊は死傷者が続出した。午前7時、最後の予備兵力の歩兵第12連隊第一大隊が投入されるが要塞からの砲撃が激しく突撃は延期された。24日午後5時、乃木は総攻撃の中止を指示した。第一回総攻撃と呼ばれたこの攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師団分の損害を出したことになる。この頃からロシア軍側は、旅順港内に逼塞した太平洋艦隊の海軍将兵で複数の中隊単位の陸戦隊を編成し、艦船の中小口径砲の一部も陸揚げして陸軍部隊の増援を図った。第三軍は第一回総攻撃を歩兵の突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの速やかなる早期攻略の要請に応えようとしたためであった。しかし要塞(望台)には歯が立たず兵力に大損害を被った。乃木は攻撃方法を再考し、正攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり、貴下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った。しかし前線部隊の意見は砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった。この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。ロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した。9月15日、第三軍は対壕建設に目途が立ち、兵員・弾薬も補充できた。17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った。19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊(歩兵第2旅団)は水師営第1堡塁への突撃を開始した。しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の海鼠山の北角を占領する。右翼隊(後備歩兵第1旅団)はこの攻撃より目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう。20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には海鼠山を占領した。しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念ずる。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の歩兵第19連隊が龍眼北方堡塁正面を、歩兵第36連隊が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う。しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると堡塁は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する。第一回総攻撃が失敗に終わった後、東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた二八センチ榴弾砲(当時は二十八糎砲と呼ばれた)が戦線に投入されることになった。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって克服された。二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した海鼠山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした。しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃がロシア将兵の戦意に強い衝撃を加えることはなかった。砲撃自体は良好な成果を収めたため逐次増加され、最終的に計18門が第3軍に送られた。この戦いでの損害は日本軍は戦死924名、負傷3,925名。ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。24日より各部隊は攻撃目標に向けての対壕建設を再開したが敵に近づくにつれて相手からの阻害攻撃が激しくなり工事は停滞する。それでも各師団の奮闘で突撃陣地の構築を18日には完了する。これを受けて第三軍は再度の総攻撃を決断した。当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(因みに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった。また10月16日にはロシア第二太平洋艦隊(通称「バルチック艦隊」)がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃を行わざるを得ない状況下におかれた。10月18日、第三軍は二龍山堡塁と、松樹山堡塁の同時攻略計画を打ち立てた。双方の堡塁は密接な関係に有り、攻撃区分では第9師団が担当であったが戦力の余裕がなく、松樹山堡塁攻撃は第1師団が担当する事にした。23日、第三軍は各参謀長会議を行い、26日の総攻撃を決定した。第1師団が松樹山堡塁、第9師団が二龍山堡塁と盤龍山堡塁東南の独立堡塁、第11師団は東冠山の各堡塁(但し攻撃は第1・9両師団の攻撃が成功した後)を攻撃目標とする。この時点での主要部隊の戦力はであった。早朝よりの攻城砲兵による砲撃の後、まず第1師団、第9師団が攻撃を開始した。第1師団では左翼隊の歩兵第2連隊が敵散兵壕の動揺を捉え突入しこれを制圧。ここから松樹山へ坑道掘進を開始する。ロシア側も坑道を掘り、爆薬を仕掛けて日本側の坑道を破壊するなどで抵抗した。29日になるとロシア軍は逆襲に転じ午前7時に散兵壕を奪取される。第1師団は直ちに逆襲に転じて午後1時30分にはこれを奪い返す。翌30日、攻城砲兵の事前砲撃の後、第2連隊は松樹山堡塁への突撃を開始した。周囲からの砲火を浴びながら連隊は敵塁の真下まで進出するが外壕の突破に手間取っている間に大損害を被りやむなく撤退する。そのため外壕外岸からの坑道作業に入るが攻撃準備完了まで期日を要することになる。第9師団は右翼隊の歩兵第19連隊が二龍山堡塁の斜堤散兵壕を占領し坑道掘進を開始する。更に左翼隊も歩兵第7連隊が盤龍山北堡塁に突撃し、その1角を制圧する。二龍山堡塁では松樹山と同様に血みどろの坑道戦が展開される。30日、まず右翼隊が二龍山堡塁の外壕の破壊に取りかかる。しかし敵塁からの集中射撃と松樹山からの側防射撃に阻まれ占領地を確保するのがやっとであった。他方、一戸少将が指揮する左翼隊は盤龍山東堡塁東南の独立堡塁(P堡塁)への攻撃を開始。午後1時、工兵隊の爆破した突撃路を使って歩兵第35連隊が突入。僅か2分で堡塁を制圧する。しかし午後10時30分頃、ロシア軍が逆襲に転じ、占領部隊は将校を多数失い退却した。堡塁下にいた一戸少将は退却の報を受けると予備の1個中隊を自ら率いて奪還に向かい、奪取に成功した。一戸少将の勇猛な活躍ぶりから、後にこの堡塁は「一戸堡塁」と命名される。第11師団は待機していたが松樹山、二龍山の占領がまだなので攻撃できずにいた。しかし既に攻撃準備が整っており、この際は多少の犠牲も覚悟して突撃すべしという結論になり、30日より攻撃を開始する。30日午後1時、まず右翼隊の歩兵第22連隊が東鶏冠山北堡塁を攻撃しその1角を制圧。しかし第2堡塁に向かった歩兵第44連隊は集中砲火を浴びて壊滅する。中央隊の歩兵第12連隊は第1堡塁に向かう。前面の散兵壕を蹴散らしつつ進撃し砲台も占領した。しかし周囲からの射撃を受け被害が続出し、戦線維持が困難になり退却を余儀なくされる。31日、未だ士気旺盛な右翼隊は外岸側防を制圧。しかし血気にはやる一部部隊が砲兵の支援を待たずに突撃し壊滅。結局第11師団も東鶏冠山を制圧できず、坑道作業に移行していく。日本軍は戦死1,092名、負傷2,782名の損害を出すが、ロシア軍も戦死616名、負傷4,453名と日本軍以上の損害を受けた。乃木は各師団が坑道作業に入った事で作業完了までには期日が必要と判断。総攻撃を打ち切った。日本軍は前半戦の作戦目的は203高地以外は達成した。しかし後半の主要防衛線への攻撃は第9師団がP堡塁を占領した以外は失敗。このため日本側は第二次総攻撃も失敗と考えた。第二回総攻撃の失敗はバルチック艦隊の来航に危機感を募らせる海軍を失望させ、要塞攻略よりも艦隊殲滅を優先し、観測射撃のための拠点を得るため203高地を攻略すべしという意見が出てくるようになる。他方第三軍の上級司令部である満州軍は当初より要塞攻略を優先する方針を変えず、そのために望台を最終攻略目標にすることを変えなかった。またそれに何ら寄与しない203高地攻略に反対だった。第三軍も二回目の総攻撃は失敗したとはいえ、東鶏冠山堡塁の一部や同山第一堡塁、一戸堡塁を占領することには成功し、東北正面の防衛線をあと一歩で抜くことが出来たので、引き続き要塞正面を主攻にするという立場だった。11月14日、203高地主攻に固執する参謀本部は御前会議で「203高地主攻」を決定する。しかし満州軍総司令官大山巌元帥はこれを容れなかった。大本営からの要旨にある「旅順港内を俯瞰し得る地点を占領し、港内の敵艦、造兵廠などに打撃を与うることをのぞむ」で、203高地を直接名指しして命令していないことを逆手に取り、「第三軍司令官をして、是迄の計画に従い鋭意果敢に攻撃を実行せしめ、旅順の死命を制し得るべき『望台』の高地を一挙に占領せしむるの方針をとるべし…」。「203高地を落としても観測点として利用するだけでしかなく、砲を備えて敵艦を沈めるには長大な期日を要し、目的を達成できない」。などと反論し、要塞東北方面攻略の立場を崩さなかった。総参謀長の児玉源太郎大将も、10月までの観測砲撃で旅順艦隊軍艦の機能は失われたと判断して艦船への砲撃禁止を第三軍に命じた。また海軍のバルチック艦隊来航の脅威を必要以上に誇張し、海軍の都合だけ考えて海上輸送を中止しようとする一連の動きに対し抗議した。こういった上層部の意見の食い違いは乃木と第3軍を混乱させ、第三回総攻撃案に大きく影響を与えた。11月中旬に盤竜山・一戸両保塁から両側の二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘ることに成功しさらに中腹からトンネルを掘り胸壁と外岸側防を爆破することを計画。総攻撃は11月26日と決定された。また参謀本部も内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入、部隊を第1、第9師団の間に配置し総予備とした。11月26日、松寿山堡塁攻撃を担う第1師団左翼隊は午後1時より外壕より突撃した。しかし身を潜めていたロシア軍の奇襲と周囲からの集中砲火と内壕の敵兵の逆襲で突撃した兵は壊滅。午後2時50分には外斜面に退却するしかなかった。第9師団も午後1時より二龍山堡塁へ突撃を開始した。松寿山堡塁などからの側射を受けて大損害を受けたが突入を続け、なんとか敵前100mの地隙に到達するがそれ以上は進撃できなかった。第11師団は東鶏冠山北堡塁の胸塔2箇所に爆薬を仕掛け点火。その後歩兵第22連隊が突入した。しかし敵堡塁の破壊は僅かで白兵戦となり多くの犠牲をだす。午後1時40分には土屋師団長が重傷を負い陣地の争奪が激化、占領地の維持は出来なかった。26日夜半、有志志願による特別支隊(第1師団の歩兵12.25.35連隊の選抜隊員を基幹)「白襷隊」が歩兵第2旅団長を、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行った。この突撃隊は夜間の敵味方の識別を目的として、隊員全員が白襷を着用していた。白襷隊は午後5時に薄暮の中行動を開始、集結点で月が昇るのを待ち、午後8時30分、目標へ動き出した。午後8時50分、白襷隊は一斉に突入を開始した。しかし目標の松樹山第4砲台西北角には幾重にも張り巡らされた鉄条網があり、その切断作業中に側背より攻撃を受ける。白襷隊はひるまず突入し散兵壕を目指すが前方に埋めてあった地雷により前線部隊は殆ど全滅。後続部隊も奮戦するが死傷者が相次ぎ第1線の散兵壕まで後退する。午後10時30分頃、指揮を執っていた中村少将が敵弾を受けて負傷、その後同隊は翌27日午前2時頃まで激戦を繰り広げるも突破は不可能と判断され、退却となった。この攻撃は敵陣突破に失敗し、この時点での第三軍の損害は約7千名に達した。しかし守るロシア側も一時二龍山堡塁の守備兵は数名になり、松寿山第4砲台も予備兵力が10名になるなど、もう少しで突破を許してしまうような状況に追い込まれており、ロシア側にも白襷隊の勇敢さに驚嘆する記述が多く残されている。11月27日未明、乃木は当初の攻撃計画が頓挫したことで攻撃目標を要塞正面から203高地に変更することを考え、敵味方を激しい消耗戦に持ち込む決心をした。第三軍参謀の白井二郎少佐は第1師団に203高地攻撃を打診したところ快諾を得た。満州軍司令部より派遣されていた福島安正少将はこの意見に反対を述べ、あくまでも要塞東北方面攻撃を主張したが、乃木の判断で203高地への本格的な攻撃が決定される。午前10時、軍命令で東北方面攻撃の一時中止と第1師団を中核とした203高地攻撃を行うことが下達、午後5時には大本営と満州軍総司令部にそのような主旨の報告を行う。指示を受けた攻城砲兵司令部は直ちに砲撃を203高地に変更し、28センチ榴弾砲全砲をもって砲撃を開始した。砲兵第2旅団は203高地攻撃に際して妨害攻撃をするであろう敵の各砲台への砲撃を開始した。対するロシア軍は203高地に500余名、その北東の老虎溝山(標高177m)に千名の兵を配し、万全の体制をとっていた。27日午後6時、28センチ榴弾砲の事前射撃により203高地の中腹散兵壕を破壊、午後6時20分、第1師団右翼隊(後備歩兵第1旅団)、中央隊(歩兵第1旅団)が突撃を開始した。敵砲台は攻城砲兵及び師団砲兵が制圧し、右翼隊は鉄条網を排除しつつ前進し、一部は203高地西南部、敵の第2線散兵壕の左翼を奪取した。更に前進を続けるも周囲からの敵の大口径砲の援護砲撃で損害を被る。中央隊は老虎溝山に突撃を開始、山頂散兵壕の一部を奪うが夜になって敵の逆襲により撤退した。翌28日、第1師団は再び攻撃を開始した。右翼隊は後備歩兵第38連隊の増援を受け8時頃突撃を開始、第2線散兵壕を奪うが死傷者が続出し現在地の確保で精一杯になる。友安旅団長は後備歩兵第16連隊を増援に回し、10時30分に山頂へ突撃し頂上を制圧した。しかし直ぐ様ロシア軍の逆襲にあい山頂を奪還される。それでも左翼隊は粘り強く攻撃を続け、正午頃には西部山頂の1部を奪回し敵の逆襲に備えた。一方の中央隊は203高地東北部に対する攻撃を意図し攻撃準備をしていたが、その間敵の攻撃を受けて歩兵第1連隊長の寺田錫類大佐が重傷を負い、まもなく戦死する。それでも旅団長馬場命英少将自ら指揮を取り突撃を繰り返すも効果なく、一時は東北部山頂を占領するも、敵に奪還された。11月29日午前2時、第1師団より現在の師団兵力では203高地攻略は難しい旨の連絡が軍司令部に届く、これを受けて乃木は予備の第7師団の投入を決意、午前3時に麾下の各部隊と満州軍総司令部、大本営にその旨を連絡した。この直後、満州軍より児玉総参謀長が旅順に赴く旨の連絡が入る。午前7時、第7師団長大迫尚敏中将が高崎山の第1師団司令部に到着し、203高地攻撃の指揮権を継承した。大迫は第7師団と第1師団の残存兵力で攻撃部署を決める。30日午前6時、攻城砲兵は砲撃を開始、まず歩兵第28連隊が山頂東北部に突入。第三攻撃陣地まで前進するが敵の猛射で釘付けにされる。西南山頂は後備歩兵第15.16連隊が向かうがこれも側射を受けて損害を被り攻撃を断念する。老虎溝山攻撃は午前10時より開始され、午後1時まで幾度となく波状攻撃を繰り返すが悉く撃退される。午後4時50分、第1師団長より攻撃再開の命が下る。6時40分に東北部山頂に突入し、接戦のすえ一部占領に成功。その後一進一退の攻防で占領地の一角を死守することに成功した。午後5時には203高地の完全占領の報が届き、大本営や満州軍に伝わるが誤報で、翌12月1日午前2時には敵に奪還される。夜半、友安少将は増援の二個中隊を率いて前線に向かう旨、各部隊に伝令を出すが、その任務を帯びていた副官の乃木保典少尉(乃木希典大将の次男)は銃弾を受けて戦死する。12月1日、死傷者の収容と態勢を整えるため、4日まで攻撃を延期する。正午、満州軍司令部から旅順へ向かった児玉満州軍総参謀長が到着。その途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知った児玉は大山満州軍総司令官に電報を打ち、北方戦線へ移動中の第8師団の歩兵第17連隊を南下させるように要請した。12月1日から3日間を攻撃準備に充て、第3軍は攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行った。12月4日早朝から203高地に攻撃を開始し、5日9時過ぎより、第7師団歩兵27連隊が死守していた西南部の一角を拠点に第7師団残余と第1師団の一部で構成された攻撃隊が西南保塁全域を攻撃し10時過ぎには制圧した。12月5日13時45分頃より態勢を整え東北堡塁へ攻撃を開始し、22時にはロシア軍は撤退し203高地を完全に占領した。翌6日に乃木は徒歩で203高地に登り将兵を労うが、攻撃隊は900名程に激減していた。12月5日の203高地陥落後、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこれらに対しても砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。日本側の砲弾は多くは戦艦の艦底を貫けず、多くの艦艇は自沈処理がなされたが、自沈処理を誘発させた可能性はある。各艦はまず5日に戦艦ポルターヴァが後部弾火薬庫が誘爆着底、翌日には多数の命中弾を受けた戦艦レトヴィザンも着底し、ペレスヴェート、ポベーダの両戦艦も大きな損害を受けて8日に防護巡洋艦パラーダと共に着底した。9日には装甲巡洋艦バヤーンが同様の運命をたどり、大型艦で生き残ったのは8日の深夜に港外に脱出したセヴァストーポリのみとなった。この攻撃での損害は日本軍は戦死5,052名、負傷11,884名。ロシア軍も戦死5,380名、負傷者は12,000名近くに達した。両軍がこの攻防に兵力を注ぎ込み大きく消耗した。203高地からはロシア太平洋艦隊のほぼ全滅が確認され、児玉は12月7日に満州軍司令部へ戻った。脱出して旅順港外にいた戦艦セヴァストポリと随伴艦艇に対しては、日本海軍は30隻の水雷艇で攻撃し、12月15日の深夜の攻撃で同艦は着底し、航行不能となった。12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。乃木司令部は以降も胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した。31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始した。ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力が枯渇し、コンドラチェンコ少将が戦死し、東北面の主要保塁も落ちたことで士気が落ち、首脳部も抗戦派は勢いを失っていた。日本軍は午後に望台を占領した。16時半にロシア軍は降伏を申し入れた。5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木将軍は武士道精神に則り降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。旅順要塞の攻略によって旅順艦隊は最終的に撃滅された。日本軍は本格的な攻城戦の経験が少なかった。陸軍全体に近代戦での要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、当時は日本だけでなく欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視されていた。戦争直前の工兵監であった上原勇作も坑道教育にはあまり重視しておらず、むしろ前任の矢吹秀一工兵監時代に非常に坑道教育に力を入れていた。旅順戦においては、矢吹工兵監時代の記憶を辿って攻城教程を作成した。戦後明治39年に坑道教範が作成され、小倉に駐屯していた工兵隊によって、初めての坑道戦訓練が敵味方に分かれて実施された。軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明した。この状況を打開する攻撃法を日露戦争後も暫くは見いだすことはできなかった。同時代のヨーロッパ各国でも、機関銃をごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。その結果数年後に起こる第一次世界大戦緒戦で欧米列強の陸軍指導層は、機関銃や榴散弾の風雨に歩兵を生身で突撃させるという旅順攻囲戦第一次総攻撃と全く同じ事を繰り返し、日本以上に犠牲を払う事になった。ヨーロッパ各国がこの事実に気づき、塹壕に籠る機関銃の攻撃に対して有効な解決策が考え出されるのは第一次世界大戦で戦車の開発や、歩兵による浸透戦術の採用まで待つことになった。当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用した。第3軍 - 軍司令官:乃木希典大将ロシア関東軍 - 軍司令官:アナトーリイ・ステッセリ中将203高地は要塞主防御線の外側に位置しており、ここの防御施設はいわゆる前進陣地として築かれた。本高地から旅順港内が展望できるということはロシア側も開戦前から承知していたが、予算不足で規模が縮小されたこともあり防御線には組み込まれなかった。開戦後は、コンドラチェンコ少将により補強され、総攻撃開始までにかなりの防御を有するまでになってはいた。しかし他のロシア軍陣地から距離があり戦闘中には兵力投入の移動にも危険を伴うので従来通り前進陣地として運用する予定だった。しかしながら戦闘を経てロシア軍は方針を変更して203高地を固守するようになり予備兵力を次々とここに注ぎ込んでいった。日本側としてみたら予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であった。203高地攻防戦の終局後、ロシア側の抵抗力は著しく減衰しており、12月中旬より行われた東北面の主防御線上の攻防戦では主要三保塁と望台という重要拠点が立て続けに陥落した。要塞司令官ステッセリが降伏を決断した理由は、予備兵力を消耗したことにより戦線を支えられなくなったためである。203高地は、この意味では旅順攻囲戦において重要な場所であった。203高地の攻防戦については、様々な見解が語られている。特に203高地の観測所としての価値を重視する見解が多い。本防御線の外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として本高地は最適な場所であり、攻略は早期に行われるべきだったとするものである。だが第三軍の作戦目的は要塞の攻略であり旅順艦隊の殲滅ではなかった。実際にも総攻撃開始時点で第三軍に配備されていた重砲は最大で15センチ榴弾砲であり、戦艦を砲撃して大打撃を与える能力は持っていなかった。また、観測所の設置自体は本高地以外でも可能であり、攻囲戦の早期から効果的に行われていた。第1回総攻撃以前の7月30日に、すでに占領していた前進陣地の一つである大孤山に観測所が設置されている。大孤山を観測所とする砲撃による損傷に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至った。海戦後に旅順港に舞い戻った旅順艦隊は、以後戦局が進むにつれて諸処に増設された観測所群によって次第に停泊所を奪われていき、遂には龍河河口の浅瀬(干潮時には砂州に座礁して船体を傷め行動不能になることを免れない)に追い込まれた。旅順港には大艦を収容できるドックがなく、砲撃による損傷の修理もままならなかった。また、艦船の乗組員を陸戦隊として地上戦に投入することは攻囲戦の初期から行われており、203高地が占領される以前より旅順艦隊の戦力は著しく低下していた。本高地が最適な観測所であったことは事実としても、戦況の進展に伴って、占領当時にはその価値は相当に減じていたと言える。203高地の観測所としての価値を重視する場合、203高地が攻略されて旅順艦隊が壊滅し、これによって旅順要塞も存在意義を失って降伏したという見解に繋がるのだが、 実際には12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは25日もの日数が存在した。旅順要塞の存在意義をいうのならば、艦隊の有無に関わらず、第3軍を可能な限り長く旅順攻略作戦に拘束することにも大きな意義があるわけで、旅順艦隊の存否がロシア軍が降伏を決断したことの主要因とは言えない。第三軍司令部は、攻囲完成以後の継続的な砲撃によって旅順艦隊の戦闘力は失われつつあることを認識しており、大本営にもそのように報告した。しかしながら大本営は203高地に執着しており、ここへの攻撃を要求し続けた。第三軍はこれに従わず、また第三軍が所属する満州軍総司令部も大本営からの容喙に強く拒絶の意を示した。大山総司令と児玉総参謀長はそれぞれ大本営と山県参謀総長に電報を送り203高地主攻に不同意を伝えた。大本営がこのように強硬に旅順攻囲戦に介入してきたのは、海軍側の意見を容れたものと思われる。このことから連想されたものか、203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐であるとする説があるが、根拠に乏しく(書簡は時期が遅すぎる)、現在では否定されている。第1回総攻撃では第3軍は203高地を主目標とはしなかった。海軍からこの時点で203高地攻略の要請があったと小説などで描かれることも多いが実際には、この時点で203高地攻略を論じられたことはなかった。大本営が総攻撃前に唱えていたのは主目標を西北の椅子山、大案子山の突破、もしくは地形が平坦で進軍しやすいと予想される西方からの攻撃による要塞の攻略であり203高地云々は考慮されていないものであった。これらは鉄道線から離れていて策源地から遠く補給に難がある。更に平坦部は移動中に敵に姿を曝け出し被害を増す危険があったので却下された。仮に、第1回総攻撃の時点で第3軍が203高地を主目標に含め、これを占領できたとしても、至近に赤阪山・藤家大山という防御陣地が構築されており、また背後に構築された主防御線内の多数の保塁・砲台から猛烈な砲撃を受けることは容易に想像でき、占領を維持することは困難であったと考えられる。高地の占領をこの時点で維持できたとしても上記の通り第三軍は旅順艦隊を撃滅するだけの重砲を持ってなかった。この時点で所持する重砲は、艦船攻撃用には、海軍陸戦重砲隊の12センチ砲6門のみで、装甲で覆われ重要部は30センチ砲にも耐える設計の戦艦に大打撃を与える力はない。陸軍側の重砲も15センチ榴弾砲16門と12センチ榴弾砲28門だが、最大の15センチ榴弾砲もこれは海軍の艦載砲より砲身も短く初速が低く艦船への攻撃力は劣る。後に加わった陸軍の二十八糎砲も鋳鉄製などの理由でこの時代の主力艦に対する貫通力・破壊力は劣る。それでも仮に旅順艦隊を殲滅出来たとしても、要塞守備隊を降伏させなければ第三軍は北方の戦線に向かうことができない。艦隊殲滅後にやはり正攻法による要塞攻略を完遂しなければならない以上、包囲戦全体に費やされる期間と損害は変わらないと予想される。むしろ史実ほど兵力を消耗することなく主防御線を堅固に守られてしまい、要塞の攻略は、より遅れた可能性すらある。旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第三軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。開戦前の計画段階から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍の意向に振り回され、陸軍の旅順攻撃開始は大幅に遅れた。開戦から要塞攻略戦着手までの期間が長すぎたために要塞側に準備期間を与えることになったことは、旅順難戦の大きな要因として指摘される。しかし、近代戦における要塞攻防戦の何たるかを知らなかった当時の事情、またそもそも当時の日本の国力・武力を考えれば、結局のところ無理を承知でこのような作戦を行わざるを得なかったとも言える。賛否両論ともにあり、それらが論じられてきたおよその経緯は次の通り。日露戦争勃発時の乃木は休職中だったが、日清戦争の戦績から野戦が得意な将軍と評価されており、一般的にも高く評価されていた。乃木は長州戦争での従軍を皮切りに、それ以後も連隊長、旅団長、師団長、そして軍司令官のすべてで実戦経験を有する歴戦の指揮官である。また乃木は各軍司令官の中で最年少だった(野津64歳、黒木61歳、奥59歳、乃木56歳)。旅順攻略戦が難航すると、東京の乃木邸に投石されたり、軍司令部に批判の投書が多数寄せられるなど激しく批判された。その後攻略戦が勝利に終わり、水師営会見などの美談が喧伝されたことや、奉天会戦における活躍から、凱旋帰国時には非常に好印象をもって迎えられた。日露戦後も概ね評価は高く、明治天皇大葬の際に殉死するに及んで神格化された。その後、伊地知幸介第3軍参謀長と犬猿の仲であった井口省吾満州軍参謀が陸軍大学校長を六年半(1906年(明治39年)2月-1912年(大正元年)11月)と長期に勤め、またその後、陸軍内部において長州閥排斥の気運が高まり、陸軍大学の教官が結束して山口県出身者を入学試験に合格させなかったことなどがあった。井口が陸軍大学校長を務めていた時期に入校し優等で卒業(1909年(明治42年)-1912年(大正元年))した谷寿夫が、後に陸大兵学教官となった際に日露戦争の政戦略機密戦史を著した。いわゆる戦争指導史であり俗に「谷戦史」と呼ばれる。「谷戦史」中の旅順戦に関する記述は、伊地知第3軍参謀と意見を異にした長岡外史参謀次長、井口省吾満州軍参謀の書簡を原資料としたものが大部分を占め、実際の当事者である第3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎、津野田是重ら)による記録によるものがなく、一方的見地に偏った資料が用いられており、また誤りも多い。以上のような経緯が、後世の第3軍の戦争指導ならびに乃木・伊地知らの評価に影響を与えた。太平洋戦争後の昭和40年代に「谷戦史」が『機密日露戦史』と題して原書房から刊行された。その後、小説家司馬遼太郎が、旅順攻囲戦で日本軍が膨大な戦死者を出したのは第3軍司令官の乃木と参謀長の伊地知幸介の無為無策が原因とする考えに基づいて小説を発表した。 司馬のいわゆる愚将論は一般的に受け入れられ、これと同じ考えに基づく書籍が多く出版された。しかし、これらには誤解・偏見を根底とした誤りが多く見られ、公平な評価とは言い難いものだった。これらの点を考察し直して当時の状況を考慮すると、史実程度の損害は、これをやむを得ないものと擁護する意見、またその程度で目的を達した事はむしろ評価すべきとの意見も出ている。一方で、人気の高い司馬小説は解説・ガイド本の類が発行される場合が多く、その中では小説の記述を事実と見なして書かれることが多いため、誤解・偏見を根底とした誤りに基づく評価も再生産され、未だに根強く支持されている。以上のように現在も賛否両論があり評価は定まっていない。現在、攻城戦間に乃木が記した日記の内容が一部公開され、また福島県立図書館の佐藤文庫には「手稿本日露戦史(仮称)」の旅順戦関連部分が所蔵されていることが明らかになった。また以前から防衛研究所資料室に第三軍参謀大庭二郎の日記が所蔵されていることは知られていたが、長く研究資料とて活用されないままでいた。これらの考察が深まるにつれ、以後も評価は変化していくと思われる。第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという。また乃木が自ら失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳という見方と無能故の所作という見方ができる。司馬遼太郎のような乃木無能論と正逆の立場から乃木の作戦を評価する声として、当時の従軍記者、スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn、1878-1950)の記録が挙げられる。ウォシュバンの指摘では、第一回総攻撃の後、乃木は即座に強襲策の無益さを悟り、工兵と一般士卒に、銃剣に変わって鶴嘴ととシャベルという見栄えはしないが効果的な武器を取らせ、塹壕をなるべく攻撃目標に向かって延伸し、余すところ200-30ヤードになった地点から、砲兵の援護射撃のもとに攻撃を開始するという攻撃方針に変更したとしている。さらに、203高地の重要性を指摘し第7師団を集中的に投入する方向で第三軍の軍議をまとめたのも乃木であったとしている。司馬の作品を含め明治当時から現代に至る無能論の主な根拠には以下のものがある。などが多く述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから事実誤認、知識不足による誤った結論などであったことが分かってきている。上記の6点に対しても他にも、要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第三軍だけではなく、大本営も満州軍も海軍も同様である。また、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としており、当時の感覚では強襲法が「愚策」ではなかったことが分かる。逆にこの戦いで初めて問題提起されたとすら言える。海軍は日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、海軍独力での旅順艦隊の無力化に固執した。ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続といった、海軍の不手際も攻略の困難さの主因として無視できない。旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることがある。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと機密日露戦史で紹介され司馬遼太郎の作品などで世間に広まった。ただし、機密日露戦史は旅順戦に於いて第三軍の方針と反発した大本営側の人間の証言を取り入れ現場の第三軍側の証言を殆ど採用していない偏った内容の資料であり誤りも多いことが別宮暖郎、長南政義、原剛などの研究調査で判明し書籍などで発表されている。まず、司馬の作品などで児玉らは203高地攻略を支持していたかのように描かれているが、児玉自身は第三軍の正攻法による望台攻略を終始支持している。正攻法の途中段階で大本営や海軍に急かされ実施した2回の総攻撃には反対で、準備を完全に整えた上での東北方面攻略を指示していた。そのためには港湾部や市街への砲撃も弾薬節約の点から反対しており、当然203高地攻略も反対だった。満州軍自身も児玉と同じく東北方面攻略を支持していた。しかし第三軍は第三次総攻撃の成功の見込みがなくなると決心を変更し203高地攻略を決意した。これに満州軍側の方が反対し、総司令部から派遣されていた参謀副長の福島安正少将を第三軍の白井参謀が説得した程だった。児玉が来訪時に第三軍司令部の参謀に対して激怒し伊地知参謀長らを論破したとも言われているが、第三軍の参謀は殆どが児玉と会っておらず電話連絡で済ませているので事実ではない。地図の記載ミスで児玉に陸大卒業記章をもぎ取られたのは第三軍参謀ではなく第7師団の参謀であるし、戦闘視察時に第三軍参謀を叱責した話も事実ではない(この際同行していたのは松村務本第一師団長と大迫尚敏第七師団長)。また児玉が命じたとされる攻城砲の24時間以内の陣地変更と味方撃ちを覚悟した連続砲撃も、児玉は実質的には何もしていない。すでに28センチ榴弾砲は第三軍に配備されていた全砲門が203高地戦に対して使用されているし、児玉来着から攻撃再開の5日までの間に陣地変更することは当時の技術では不可能である。実際のところは12センチ榴弾砲15門と9センチ臼砲12門を203高地に近い高崎山に移しただけである。味方撃ち覚悟で撃つよう児玉が命じたと機密日露戦史では記述されているが、攻城砲兵司令部にいた奈良武次少佐は「友軍がいても砲兵が射撃して困る」と逆に児玉と大迫師団長が攻城砲兵に抗議したと述べている。奈良少佐の「ロシア軍の行動を阻止するためには致し方ない」という説明に児玉は納得したが、第三軍の津野田参謀も「日本の山砲隊は動くものが見えたら発砲していた」と証言しており、児玉ではなく第三軍側の判断で味方撃ち覚悟で発砲していたことが分かる。攻撃部隊の陣地変更などもなされ

出典:wikipedia

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